いらっしゃいませ。
ここは直の湯。毎日に疲れ切った人、人生の岐路に立った人、あまりにも長く変わらない日常を過ごした人だけが入れる、銭湯でございます。
やあやあ、あなたですか。お待ちしておりました。いやね、そろそろ来ることだと思っておりましたよ。五年振り、ですか。前にいらっしゃったときは、今にも地下鉄に飛び込みそうな顔をして、アタシ、大変心配したんですよ。でも、頑張りましたね。スーツもよくお似合いです。
はあ、ここにきたワケですか? それはお風呂に浸かりながら、のんびりお考えください。ここは直の湯。一度入れば、すぐには出られません。ずいぶん久しぶりですから、ここのお湯のこと、忘れてらっしゃるでしょう? ええ、ええ、お気になさらず。何度でもご説明させていただきます。
男湯はこちらでございます。目印は菊のマーク。殿方と書かれていますから、間違われることもないでしょう。隣は女湯でございます。くれぐれも変な気は起こさないでくださいよ。以前、わざと女湯に入った輩がいて、その方はまだ出てきません。まったく、困ったものです。
さ、ここでお召しのものを脱いで、少々大仰な引き戸を開ければ、お風呂場でございます。
入ってすぐ目の前、一番大きな湯船が、当銭湯名物「馬の湯」です。
この湯には不思議な性質がありまして、浸っていると頭の中を占めている順番に、出来事が鮮やかに思い出されます。色も、音も、香りまでもはっきりと。悩みというのは、まず正確に掴むことが肝要です。体を流したら、最初にこのお湯に浸かることをおすすめします。
前回、あなたは上司に怒鳴られたセリフが一言一句蘇ったと嘆かれておりましたね。今回はどんな場面が出て来るでしょうか。
さて、こちらは「草の湯」。
いわゆる超音波ブロのようなものでございます。肩まで浸かれば、細かな振動が全身を包み込み、ひとつの考えに集中できなくなります。そして思い出が脈絡なく湧いてきます。人とは面白いもので、忘れたくない記憶にもときどき蓋をする方がおります。この湯に入ると、その蓋が緩むようですね。
意外なところに、悩みの根っこはつながっているものでございます。煮詰まったらお入りください。
つづいて当銭湯、もうひとつの名物「サウナ・燦(さん)」。
このサウナに使われる薪は特別でして、感情が何倍にも膨れます。喜びも、怒りも、哀しみも、自分でも驚くほど大きくなるのです。だから一人用。空室のサインが点いているときにお入りください。もし、前の方と入り口でかち合ったらご注意を。大変気が立っている場合もございます。イザとなったら、ほら、このボタンを押せば従業員が飛んでまいりますので。
最後は、水風呂です。
ええ、名前はございません。昔はあったみたいですが、みんな忘れちゃいました。この水はずいぶん深い地下水脈から汲んでおりまして、浴びれば汗と一緒に考え事も洗い流してくれます。一切合切さっぱりと。この爽快感はクセになりますよ。でもあまり長湯はおすすめしません。大切なことまで、忘れてしまいますからね。
これで説明はぜんぶです。……ああそうだ、出る方法もお伝えしないと。お風呂場に入ると、ドアは閉まり、中からは開けられません。でもご心配なく。あなたの悩みが消えたとき、心からの決断をしたとき、ドアは勝手に開きます。そのときが来れば、分かるでしょう。
え? アタシの名前? 銭湯の番頭の名前なんてどうでもいいことですが、気になるなら教えて差し上げます。アタシはクナ。ずいぶん長いこと、この直の湯の番頭を務めております。お見知り置きを。さ、アタシの話はもういいでしょう。これから湯の中で、あなたご自身に問う番でございます。それでは、どうぞ、ごゆっくり。
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