見出し画像

休職中の財源はヤフオクで。モノを減らしたら豊かになった僕のココロ。

仕事を休ませてください。


震える手で電話を掛けた。
声にならない声で上司に休職希望を伝えた。

2015年4月の終わり

ちょうどゴールデンウィークが始まる直前。
僕は初めて自分から仕事を放棄して逃げた。


この記事は僕が今まで書いた記事の中で一番長文です。
合計12,500文字を越えました。読むのにそこそこ時間がかかると思うので、興味の湧いた方はお時間あるときに読んでほしい。
いろんな気持ちを正直に書いたよ。


僕は今まで3回休職している。
1回目と2回目は上司から「休んだ方がいい」と言われて3~4ヶ月休職。
3回目はどうしようもなく辛くなって、それこそ死んでしまいたいとも思ってしまったから、、僕は逃げた。

病気の息子と仕事が辛いと思い込んでいた。
実際の鬱病の原因は違ったけど、辛い原因で逃げられるのは仕事しかないと思ったから、僕は仕事から逃げた。

逃げちゃったけど、やっぱり後悔が残った。
みんなごめんなさい、とそんな言葉ばかりが頭を反芻した。
かと言っては、いろんな人と自分を勝手に頭の中で比較して、とても落ち込んだ。

僕はダメ人間だ。。
落ち込んで落ち込んで落ち込んだ。

だけど、少し落ち着いてきて、ようやくいろいろと考えられるようになって心から思った。

変わりたい。変わらなければだめだ。
変われなければ会社を辞めるしかない。


2015年、実はプライベートもなかなか忙しくなりそうだった。

二人の息子たちの通う小学校のPTA役員が決まっていた。
自薦とか他薦とかそういったものではなくて、各町内持ち回りでこの年はうちの町内。今までPTAや子供会とか何かの役回りをやっていない家庭がターゲットになる。ちょうどうちがターゲットになった為、仕方なく引き受けたようなものだ。

その他にも町内では8班に分かれたグループ(隣近所で区切られている)があり、その班には「班長」「年行事」という役がある。今年やったら次はお隣さん、という具合でぐるぐる回ってくるわけだが、ちょうどこの年に「年行事」にあたっていた。
ちなみに「年行事」は町内にある神社関連のイベントや祭事の取り廻しを完全ボランティアで行う仕事なのだが、たまたま風邪を引いた僕の代わりに妻が参加した3月の顔合わせの時に、半ば強引に「年行事代表」なるものを押し付けられた。

今回語りたいことからは少々逸脱するため、この2つの役回りをどう乗り切ったのかはまた別の機会に語ろうと思うが、PTA役員も年行事もやらなければいけないため、休職中ということを隠して対応していて、まさに顔で笑って心で泣きながらやっていた。

それでも休み始めて1ヶ月程経ったときに自分が変わらなければだめだと、10年程放置していた患部を手術した。
そして2週間の入院中に25年間吸っていたタバコも禁煙してやめた。

3回目の休職にして初めて心療内科に併設されたデイケアという場所に通ってリハビリをし、集団カウンセリング、そこからの個人カウンセリングを受けた。

変わりたいと思って必死にやってきたが、実のところ休職前半なんてただただ焦っていただけで、根本原因も見つけられずに何も変わっていなかったから、一見元気そうに見えた僕に早期休職解除を許可しなかったカウンセラーさんには本当に感謝している。

僕はこのカウンセリングで自分を取り戻したわけだけど、とり戻す気づきができるようになった背景には、僕のある行動がきっかけとなって起こった心の変化が関係している。

今回はそんなお話。

・・・


5月は殆ど使っていなかった有給休暇扱いで休んでいた。
僕のお小遣い3万円は、毎月給料日に僕の個人の口座に振り込まれる。
5月の給料は6月に入金されるが、有休を使い切ったから6月分の給料支払いのある7月に給料はでず、僕の口座にはお小遣いは入金されなかった。

休職していたから、通常の生活費というか、僕の活動費に充てられるのは僕のへそくり10万円ちょっとだけだ。

この頃は、奥さんにお金の工面をお願いするのが、働けなくなった僕がお金が足りないって奥さんに言うのが本当にとても怖かった。

給料が入らないから、家族の生活費はこれまで貯めていた貯金しかない。
貯めていたといっても、子どものことでいろいろ使うからそんなにはないはずだ。奥さんも不安だっただろうけど。

さてさて、何はなくても日々ちょっとずつ目減りしていく活動費。

好きな服や靴は全く買えない。当たり前だ。
買い物依存症気味だった僕でも、それくらいはわかる。
たばこはやめた。あとはいかに食費を少なるするかということを考えた。

噂の丸亀製麺の野菜かき揚げ天丼も初めて食べた。
これで当時250~260円で食べられたのは驚きだ。

画像1

近所のスーパーのボリュームある250円の弁当も何度も食べた。

禁煙継続のために噛んでいたガムやおしゃぶり昆布代は結構使ったけど、なるべく節約しなくてはと、デイケアと集団カウンセリングが終了したくらいからは、復職に向けて毎日図書館通いだったから、時々自分で弁当を作って出かけた。

復職へのプログラムの中で、毎日8時間は必ず自宅の外にでて同じ場所に長時間いても問題ないようにしつつ、体力も続くようにしていくんだけど、西尾市の隣町にある幸田町という街の図書館には隣に町営のプールも併設されてたから時々プールにも行ったし、西尾市総合体育館には月に2,000円の定期券で通えるジムがあったから、夕方に行っては体を鍛えていた。

今思うと、働けてはいなかったけど人生で一番本を読んでいた時期だし、人生で一番体を鍛えていた時期だし、人生で一番自分を見直していた時期だし、人生で一番思い悩んでいた時期かもしれない。


・・・


ここで話を続ける前に、僕自身のことをお話したい。

僕は幼少期に太っていて、特にいじめられていたわけではないけど、おどけた性格もあって時々いじられていたし、やっぱり女の子にモテなかった。
思春期になってモテたくて一生懸命ダイエットして、痩せてきてから多少は自信がでてきたけど、やっぱり見た目はもって生まれたものと、特に自分がかっこいいと思わなかったから、なんとかかっこよく見せるために服とか靴とか身につけるモノをカッコよくして着飾ることで、自分をかっこよく見せようとしていった。

僕はちょうどバブル終わりに青春を過ごしてきたのだけど、ハイブランドには興味はなかったし、大学の時に稼いだバイト代も流行りの服というよりも、大好きなアメカジ(いまでも通じる?アメリカンカジュアル)な感じのブランドを如何に安く買うかを考えていたし、お店を巡ってたまたま見つけたセール品とかを財布にお金があれば買っちゃっていた。それがそこまで好みじゃなくても、自分がとても得した気になってしまっていた。

働き始めてまとまったお金、といっても給料自体はそんなに高いものでもなかったけど、忙しかったから残業残業また残業、深夜残業やら休日出勤で稼いでいた。
その当時はまだ如何に沢山働いた方が頑張っている感じに思えたし、営業職で沢山注文をとるために必死で頑張ったお金を手にしたら、どんどん自分をよく見せようと服や靴や時計を沢山買ってしまっていた。

そのころ住まいは両親と一番下の弟が仕事の都合で福井県に引っ越した後の実家暮らし。すぐ下の弟と2人で住んでて家賃もいらなかったので、今の奥さんと付き合っていたから、将来の結婚のためにちょっとはお金を貯めていたけど、収入のほとんどを服飾代に費やした。

インターネットが発達してボタンを押せば簡単に服が届くようになって、しかも生活圏から遠く離れたネット店舗は、近所の服屋と変わらないものをとても安く売っていたから、よさげな服が安く販売されてたらどうにもほしいという衝動に駆られて、たくさんたくさんいろんなものを買ってしまっていた。服とか靴とか時計とか、どんどんどんどん増えていった。

かと言って、ちょっと身につけたら次に出かけるときには違うものを身につけないと「同じものしか着てない」と思われる気がして、たくさんある自分の持ち物に満足ができず、もっとほしい、違うものを買わなきゃって、どんどん買った。

もちろん自分の給料の範囲内だし、借金までしてなんてことはないけれど、多分そのころ買い物依存にもなりかけていたのかもしれない。

服はクローゼットや箪笥にぎゅうぎゅう詰めになるほどあったし、靴はmax40~50足あったし、時計は20本とか。

僕はいったいどんだけたくさんの体と、どんだけたくさんの足と、どんだけたくさんの腕があると思っていたのだろうか。

ヴィトンとかグッチとか所謂ハイブランドには興味がなかったから、持っている物はそんなに高価なものではないけれど、自分の持ち物にステータスをかんじていたのはもっぱら時計だった。

当時持っていたもののほとんどは高くても2~3万程度だけど、自慢したい時計が1つだけあった。

今の会社に転職をして以前の会社と比べて収入があがった矢先に、ある雑誌でとてもかっこいい四角くて存在感のある時計を見つけて一目惚れしてしまった。

タグホイヤーのMONACOというモデルで、蘊蓄を語りだすときりがないんだけど、もともと1970年代に販売されていたモデル(人気俳優が映画で使って大人気に)で、1998年に世界5,000本限定で復刻販売されたものだ。

画像2

値段は25万円。

今高級時計ってアホ程値段が上がってしまってとても買えるものではないけど、20年前の当時がんばってお金をためればなんとかなる金額だったこともあり、自分の腕につけることを夢みてちょっとずつお金をためながら探していた。

さすがに値段も値段なのでネットで購入するのは嫌だったし、ちゃんと正規販売店で購入したかったから、デートの合間や営業先からの移動の途中で目についた時計屋さんに寄ったりして探していたけど、限定販売品ということもあって全然見つからなかった。

探して探して見つからず、、一目惚れしてから2年くらい過ぎたころに、デートの途中でたまたま通りがかった名古屋市港区のちっちゃな時計屋さんのショーウィンドウに、あの四角くて凛々しいMONACOが飾られていたのを発見した。

「なんでこんなとこにあんねん!?」っていうちっちゃなお店(店主さんごめんなさい)のショーウィンドウに堂々と、ひときわ異彩を放って光り輝いていた時計を見つけてとても興奮した。

目をギラギラ輝かせてお店の中に入り、店主に「あの時計見せてください!!」って、店内に響くほど大きな声でお願いしてしまった。

革のブレスレッドだからしっかりと腕にとめることはしなかったけど、くるっと腕に巻いた憧れの時計を見ながら、この時計との出会いやがんばってお金をためながら探し回っていたことを、彼女といることもすっかり忘れて熱く熱く情熱をもって店主さんに語ってしまった。

ふと我に帰って値段を聞くと

この時計、僕も大好きでね。本当は誰にも売らずにずっと飾っておこうと思っていたんだ

え、売ってもらえないの?
2年もかけて探してやっと見つけて、喜んでいたのに?

でも、お客さんがめちゃくちゃ熱い思いをぶつけてくれたから、本当に買われるのなら定価の10%値引きして225,000円でお売りますよ。

といってくれたのだ。

興奮した。
たとえそれが営業トークだろうと。
二つ返事で買う意思を伝えてすぐに、お店近くの銀行に行って貯金を下ろした。こんな大きな金額の買い物、車以外では初めてだ。しかも車はローンだったけどこの時計は現金一括払い。
緊張した。銀行でおろした23万円を肌身離さず落とさないように細心の注意をしながらお店に戻り、お願いしますとお金を店主さんに渡した。

このちっちゃいお店(重ね重ねすいません)は正規販売店なので、購入者の登録に個人情報をちゃんと記入して、後日かっこいいライセンスカードが届いた。

今まで時計は沢山あったけど、当時から流行っていたG-SHOCKとかSWATCHとか電池で動く安い時計しかなかったから、自慢げに自動巻きの四角くて大きい高級時計をつけて仕事をした。
同僚やお客さんに時計を褒められるととてもうれしかった。
外観にホレて買ったから、必要もないのにしょっちゅう時計を眺めた。
時計を見てるときに「加藤さん、今何時?」って聞かれても、「あ、ちょっとまって。。〇〇時です」って時間を見直して答えていた。
「今時間見てたじゃん」
。。。いや「時計」を見てたのだ。「時間」など見てなかったのだ。


・・・


持ち物の中で一番高いのはこの時計だったけど、それ以外にもいろんなものを買いためた。仕事でやなことがあったら服を買い、ボーナスが入ったら靴を買い、ちょっと高いライターやカバンやらなんやらかんやら、いろんなものが増えていった。

長男の病気がわかってから奥さんの変化にうまく対処できず僕の買い物はさらに加速した。
どんどん失われる自信を埋めるために、その頃の僕にはモノという鎧が必要だった。
まだこの頃は営業職で立て替えの出張旅費とかが給料とは別に自分の口座に入ることになっていたから、バレにくいように買うようになっていった。

クローゼットや下駄箱はいつのまにかぎゅうぎゅう詰め。
テレビとかでみるような「ゴミ屋敷」ではなかったが、ものを探したり出したりするのも苦労したし、たくさんのものの中から何を着ようか、何をつけようか選んで悩んで、選んで悩んで、、。

沢山あるのに「着るものがない、付けるモノがない。もっと買わなきゃ」っていう思考になっていった。

だんだん自分の持ち物の中から選ぶことができなくっていったし、更にたちの悪いのは僕が自分の持ち物にとても執着するようになっていたことだ。

買ったものを手放すことができない。
俺のものは俺のもの。

以前は本当に着なくなった服や使わなくなったものをヤフーオークションで売って、売れたお金を軍資金の一部にして新しいものを買ったりしたけれど、ヤフオクすらできないようになっていた。
とにかく自分の持ち物を手放したくないって思ってしまっていた。

手放したら、僕の鎧がどんどん剥がれてしまうかもしれないって思ってしまっていた。


・・・


そんな状況で休職し、お小遣いも入らなくなってヘソクリも底が見え始めた時に、ふと自分の持ち物を整理しようと思った。

復職のプログラムで日々自分を見つめなおすようになっていて、使っていないものを整理しようと思ってきていたのだ。
図書館で読んだ「人生がときめく 片づけの魔法(こんまり)」の影響も大きかったと思う。

僕はまずクローゼットにぎゅうぎゅうに詰まった服を、ときめくかどうかはよくわからなかったけど、「もう本当にこれは着ない」と思ったものを出していった。
少し大きめの紙袋3~4袋程あっただろうか、クローゼットにはまだたくさん残っていたけど、近所の中古服買取店に行って換金した。

僕は「そんなに高くはないけど、そこそこ名前が通っている人気のあるアメカジブランド」のものを沢山もって行った。
その3~4袋の着なくなった服たちは5千円位になった。

「そんなに高くない」けど沢山集めた3~4袋は、買った値段の合計は結構高い。僕はその「5千円」が実はあまりうれしくなかった。
クローゼットの中が少しだけ減ったことはうれしかったけど、この値段はうれしくなかった。

中古品でもヤフオクでほしい人が争ってくれたら、けっこういい値段で売れていくのを知っていたから、この「5千円」に価値を見出せなかった。
なんだか僕の選んだものが否定された気持ちにもなり、この中古服買取店に売ったことをちょっと後悔した。
ヤフオクで売っていたらもしかしたら合計2万円位になっていたかもしれないって思った。

そこから僕の気持ちに火が付いた。
日々の生活(復職プログラム中)の中でも出番の減ってきたモノたちをヤフオクに出品していった。

少しずつ減っていく持ち物。
いつしかもっと持ち物を少なくしたいって思い始めていた。
ちょっといけなかったのは自宅で使っていなかったものを勝手に売ったりしたのを見つかって奥さんと喧嘩したこともあったけど、基本は自分の持ち物を沢山出品した。

服や時計やカバンや靴、ライターに人形に。。。。とにかくいろんなもの。

本当に使うもの・今後も使いたいと思えるものだけを残し、気に入って買ったけど、鏡に映してみた時にちょっと似合ってないんじゃないかと思うものも、自分のクローゼットや下駄箱や持ち物入れから出していった。

いつしかぎゅうぎゅう詰めのクローゼットに隙間ができるようになった。向きを変えながら窮屈そうに1枠に2足入っていた下駄箱は1枠1足で事足りるようになってきた。

すっきりしていくことがだんだん気持ちよくなってきて、ランナーズハイならぬ「捨てハイ」にもなってきていた。

沢山自分の持ち物と対峙した。
大げさだけど、たくさんの持ち物と話し合った。

そしていつしか一番大切にしていたあの時計とも話し合いを始めた。

上述の通り一目惚れから2年も探して、やっと出会えた恋人のような存在である。小さな時計屋の店主さんにまるで「娘さんを僕にください!!」っていうかの如く熱く語って、手に入れたとっておきの一品。

だけど、実は休職していたころにはあまり使わなくなってしまっていたのだ。

自動巻きの高級時計はその維持費に結構なお金が掛かる。

3年から5年に一回しなくてはいけないオーバーホールと言われる時計内部の掃除で4万円、革のブレスレットは2万円。
6万円あればいろんなものが買えるし、おいしいものをたらふく食べられるし、安宿であれば家族でちょっとした小旅行にも行ける。

僕のホイヤー MONACOを維持するのにはお金が要る。
最初4年目と2回目の12年目にオーバーホールをしたけど、2回目のオーバーホールの時にはそのお金のかかる恋人を身につけるのが辛くなってきて、購入当初の毎日つけていたのが週に2日になり、1ヶ月に2回になり。。。いつしか棚の飾り物のようになっていた。

僕は時計と対話をした。

「お前は俺にとって必要なものか?」
「お前と一緒にいたら俺はうれしいか?」
「俺は、お前とこれからも一緒に生きたいか?」

一生懸命会話した。
最後は「自分がどうしたいか?」に変わっていった。
そして僕は気が付く。

お前を維持するのに必要なお金をためるのが辛い。
5年に1回必要な6万円は、もっと他に俺の人生を楽しく過ごせるお金に使いたい。

とうとう僕はあれだけ気に入って探して熱い思いを語って手に入れた「ホイヤー MONACO」を手放すことにした。

ロレックスでもない限り、中古の時計は値段がとてつもなく下がる。
近所の時計店に持っていっても「よく出せて8万円」と言われた。

ヤフオクに出すかどうかはとても迷った。
販売した後にクレームをいわれてしまう可能性があるからだ。
とくに値段の高いものだけに、購入者がどのような人間かわからないと、詐欺に遭ったりする心配もある。

だけどあれだけの思いで手に入れたものの値段が少ないと、気持ちが離れられないと思った。

結局僕は「198,000円」の値段をつけて出品した。
正規販売店で買ったし、世界限定品だし、結構きれいに使っていたし、オーバーホールもちゃんとしているし、革のブレスレットも交換している。
なにより僕がこの子とお別れするのに強気の値段を設定した。

いろんな人が値段交渉をしてきた。
「高い、高すぎる」って何度もいわれた。
「こんな値段じゃ買い手はつかない」とも言われた。
でもこの子だけは値段交渉を譲らなかった。僕の気持ちが値段交渉を許さなかった。


・・・


最終的にこの時計が落札されるまでには2ヶ月くらいかかったのだが、この時計を出品した時点で僕の気持ちにはある変化がはっきりとわかるようになってきた。

自分のモノに対する執着がとても減っていたのだ。
むしろ、使われなくなったモノたちに同情するようになっていた。

お前たちは折角いろんな人が一生懸命作ったモノたちなのに、こんなところで真っ暗な場所にぎゅうぎゅう詰めになって使われていないなんて。
ごめん、ほんとうにごめん。
こんなとこにいるよりも他に必要な人のところに行った方がお前たちも幸せだよな。

なんだかとても切なくなってきた。
仕事ができなくなって休んでいる自分にもちょっと重ねてしまった。

もちろん大切なものは大切にする。
ほんとうに使うものを残す。
残したものはちゃんと使う。

でも

僕が使わないものは、僕以外の人がきっと大切に使ってくれる。
僕の家にいるよりもその方がこの子たちも僕も幸せになれると思うようになった。


・・・


モノに対する執着が日に日に減っていった。
同時にいろいろなことに対する執着も減っていった。

固定観念がやわらいできた。
「こうでなければいけない。こうすべきだ。」って思っていたいろんなことが「こうでもいいんじゃないか?」になってきた。

今まで全力で我慢していたけれど、自分が何に辛いかがわかって、その辛い場所から離れた方が僕は幸せになれるんじゃないかと思った。

そしてカウンセラーさんのおかげもあって、僕はとうとう気が付く。
僕の鬱病の原因がなにか、ということを。全部全部とてもつらくて、僕はこのままだと絶対に不幸になると思った。

僕の人生がなんで自分以外の人の影響で辛くならなければいけないんだ。
なんで僕はこんだけ辛くて、病気になるほど辛かったのに、我慢してたんだ?

なんで?なんで?なんで?

僕は泣いた。嗚咽して泣いた。声をあげて号泣した。
ずっと感情を押し殺していた僕が、この何十年と泣けなかった僕が泣いた。

このままではいけない。僕はこのままでは不幸になる。
僕の人生は僕のものだ。僕が主役なんだ。

僕は幸せになりたい。幸せになりたいんだ。
感情があふれ出していた。今まで押し殺していた分、めちゃくちゃ感情があふれ出した。とにかく自分の気持ちを正直にぶつけた。
そこにはいつものフィルターなんて全くなくて、自分の気持ちを全くろ過しないでぶつけた。ぶつけまくった。奥さんはすごくびっくりしたと思う。電話でさんざん言いたいことを沢山言って言って言いまくって電話を切った。

全く怖くなかった。だから今までのことをひっくるめてたくさんたくさんの感情をぶつけた。

ロボットだった僕は感情をとりもどした。
いや、めちゃめちゃ感情が豊かになった。

イヤなことはイヤって言っていいんだ。
泣きたいときに泣けばいいんだ。
面白いときはたくさん笑って、
やりたいことをやっていいんだ。
嬉しいときによろこんで、
悲しいときはしょげていい。
これは僕がスキなものって言っていいんだ。
これは僕がキライなことって言っていいんだ。

やっとわかった。
ぼくはどうしたら幸せになれるのか、やっとわかった。

そしてこれを機にどんどん元気になった僕は、2016年2月に上司と産業医の先生から「元気すぎて心配」のお墨付きをもらって無事に復職した。

いろんな執着が今までの僕を邪魔していたけど、モノを減らして執着が減ってきたら僕の感情が豊かになって、とても幸せになれたっていうお話でした。


・・・

この辺りで1万文字を越えたけどもうちょっと続きます。エヘ。

・・・


買い物依存に足を突っ込んでいた僕は、いろんなものを無くしていって持ち物を6割ほど減らした。

厳密にいうと4割減らして、残りの2割はお別れ待ちの待機中。
お別れしにくいモノも見えるところからちょっと離して、何カ月も使わないでいると、お別れしやすくなりますよ。

僕はこの年自分の持ち物を減らしまくった。
休職中で時間もあったからほとんどをヤフオクで売った。

おかげでこの年にヤフオクでの売り上げは多分50万円位になった。
50万円っていっても、もともとは自分で買った値段は全然高いんだけど。。
時計が無事に198,000円で売れた。その売り上げのおかげで収入のなかった僕の半年分くらいの活動費と、これから副業パン屋をやるための一部を担うヘソクリになった。

興味がないかもだけど減らしたモノたちの一部(多少満足いく値段でうれたもの)を紹介します。

◆ホイヤーMONACO 19.8万円

画像3

◆時計たくさん売りました。

全部気に入って買ったけど、時計本来の時間の視認性(何時かすぐに分かる)を重視するようになった。
max20本→5本になりました。

画像4

画像5

画像6

◆カバンとか

3番目のグッチは義理のお母さんからの貰い物。だけどハイブランドはあまり好きではないし興味もないから、使っていて疲れちゃったからお別れ。

画像7

画像8

画像9

◆服とか靴とか

この靴は売って少し後悔したけど、修理ができる革靴しか買わないと決めた。

画像10

画像11

画像12

◆ライターやアクセサリーや

ZIPPOは大学の時に付き合ってたモトカノ(英文科)が短期アメリカ留学で買ってきてくれて僕にプレゼントしてくれたもの。タバコやめたしね。めちゃくちゃ気に入ってたけどお別れ。

画像13

画像14

画像15

画像16

◆人形や古いゲームまで

Lee人形は2万円で購入。ステキと思って買ったけど飾っててちょっと怖かった。。。

画像17

画像18


モノを減らしてクローゼットや下駄箱は割とすっきりしてきました。
以前はほんとうにぎゅうぎゅうだった。カゴもなくて棚板の上にTシャツやらトレーナーやらぎゅうぎゅう詰め。カゴは100均で買ったもの。とても重宝している。

画像19

画像20

下駄箱も以前はぎゅうぎゅう。。靴たちはきつかっただろうね。
max40~50足→14足へ。
今では厳選して長く付き合えるものしかないし、当面買わなくてOK。

画像21

2015年当時から若干増えたけど、モノを買うのに慎重になったし、あんまり増えなくなった。どっちかいうと服飾品への物欲が料理道具へと移ったけどね。。ミニマリストになろうなんて思っていないけど、本当に残したいものだけ残した。

安売り品見つけて「ウヒョー」ってすることもなくなったし、吟味して本当に必要なものしか買わなくなった。
昔は早く買わなきゃ他の人のものになっちゃうって焦ったけど、今は先に売れたらそれはしょうがないね、ってさわやかに?諦められるようになった。

基本的にちゃんとしたつくりか、信用できるメーカーかをじっくり下調べする。長く使えそうかどうか何日も考える。それでも欲しければ買うし、やっぱりやめたと買わずにいられるようになった。


・・・


大量生産、大量消費に疑問をもつようになった。
といっても会社へ出勤するときのシャツやポロシャツはユニクロだけど。
だけどモノ自体がたくさんあっても幸せになれない、モノを沢山持つことが幸せということではないって思った。

パン作りと出会った。
褒めてくれなかった奥さんがパン教室で作った僕のパンを褒めてくれたことではまって、酵母を起こしてパンを作りだしてた。

画像22

画像23

画像24

石窯でつくるパンと出会って、僕も石窯でパンを作りたいって思った。
いろいろとネットで調べているうちに、noteでわざわざの平田さんの記事を見つけた。衝撃をうけた。

過去の平田さんのブログをたくさん読んだ。とても影響を受けた。
Facebookの過去記事を追うのはしんどいし、僕はいまのところ個人事業主で副業パン屋をやりたいから、法人化してからの過去記事は読めていないけど、とても衝撃をうけた僕は今では自宅で週3回はパンを作るようになって、2年もそれを継続していたら、ずっと副業を反対していた奥さんが、自宅のガレージの一部を使って副業パン屋をやることを認めてくれた。

あくまでも、本業のサラリーマンをやめたら絶対ダメなんだけど、それでも今までまったく聞く耳持ってくれなかった奥さんが首を縦に振ってくれた。

石窯をつくるおやっさんのところへも何度も遊びに行って熱い思いを語っていたら、まだ契約もしてないのに石窯のイメージデッサンを書いてくれた。

画像25

僕はわざわざの石窯のように、ロケットストーブの石窯を作って、その石窯でパン屋をやりたい。

そう、ロケットストーブ型の石窯って、わざわざの平田さんが初めてつくったもの。その考え方にとても共感した。

緊急事態宣言が解除されて、6月の頭に3カ月ぶりに石窯のおやっさんのところに遊びに行った。

つい前日まで四国で石窯を作っていたらしい。
来週から長野に石窯を作りに行くって言っていた。
御年70歳。めちゃくちゃ元気でめちゃくちゃバイタリティーがある。リーマンの後も3.11の後も一時的に忙しかった。不安定になると石窯づくりが忙しくなるんだって笑っていた。

はやくこのおやっさんに僕の石窯を作ってほしい。
一応今年の12月~来年の2月くらいを目標に設定した。

このコロナ禍の影響で今後の開業スケジュールをどうしようか悩んでいるけど、それでも前にすすまなければ始まらないから、一歩一歩足を前に進めていこうと思う。


・・・


僕がnoteで最初に記事を公開したのが2019年6月17日 0時1分。
本当は6月16日の父の日に公開しようと思ったけど、公開のボタンを押すのを迷って迷って、公開しなくて後悔しちゃだめだ(あ、うまいこと言ったつもりはありませんよ)って思ってボタンを押したら父の日の翌日になっちゃったっていう、そんな感じ。

ひふみ×noteで、投稿コンテスト「#ゆたかさって何だろう」っていうコンテストを見つけて、見本記事を平田さんが書いている。そしてそのコンテストの締め切りが6月17日。

安直だけど運命って思った。
この記事を1年の締めくくりとして応募しよう。

そして2020年の6月17日 0時1分に公開ボタンを押すつもり。ボタン押し待ちの状態にしておこう。

そして公開ボタンをおした僕に言ってあげるんだ。

note始めて1周年おめでとう!

って。


豊かさってなんだろう。
もう、たくさんのものに囲まれることが豊かではないと思う。

モノを減らしたら、僕はこんなにも感情が豊かになって幸せになったよ。

(2020.08.01追記)
諸事情があり一部表現を修正しました。サポート&オススメしていただいたみなさんには大変恐縮ですがご了承をお願いいたします。

#ゆたかさって何だろう
#選択のあとに
#分岐点話

いいなと思ったら応援しよう!