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生命の起源の出発点:自然の正しい理解

生物はどのようにして無生物から生み出されたのでしょうか。それを考えることが、生命の起源の探求です。

私たちは生命の起源について考えるとき、生物と無生物の違いに過度に焦点を当ててしまいます。無生物と生物が本質的に異なる性質を持っているという側面に焦点を当てると、生命の起源には何か特別な原理や奇跡的な偶然が必要だと思うようになります。

一方で、無生物と生物が共通の性質を持つことに焦点を当て、それが時間と共に複雑な秩序を生み出していく様子が説明できれば、生命の起源は自然な流れに従った結果だと考えることができます。

このため重要なのは、生物と無生物の共通の性質を解き明かすことです。生物の性質に過度に着目するのではなく、無生物の性質について正しく理解する必要があるのです。これは自然を正しく理解する、ということです。

例えば、アメーバと鳥と人間を、全く異なる本質を持っていると見ている限り、おそらく進化論を思いつくことはできなかったでしょう。これらが共通の性質を持っていることに着目し、それを正しく理解することで、進化という現象を把握することができるのです。

これと同じように、無生物と生物の共通点に焦点を当て、それを理解することで、生命の起源に対する理解が大きく変化します。その理解の下では、既存の理論が説明しようとしている局所的な特別な場所を探したり、無生物から生物に転換する単一の特別な仕組みを説明しようとしたりする試みが、上手く行かない理由がよくわかります。

この記事では、無生物と生物が持つ共通の性質として、他の要素から独立した直線的な単純化と、相互作用による複雑化という考え方を説明していきます。そして、特に相互作用による複雑化という観点から捉えることで、無生物と生物は別々のものではなく自然な流れの中で連続した存在であることを示していきます。

このように自然を正しく理解することで、生命の起源の探求の出発点に立つことができるようになります。これが、この記事の目的です。

■自然の正しい理解と認識の偏り

他の要素から独立した直線的な時間変化による静的な単純化と、他の要素と相互作用することによる複合的な時間変化による動的な複雑化の、2つの側面を持っているというのが自然の正しい理解です。無生物も生物も、この2つの側面を持っています。

そして、特に後者の性質により、無生物であっても徐々に動的な複雑化が進行することがあります。その結果として生物が生み出されることは、ごく自然な流れとして理解できます。

しかし、多くの人はこの自然の性質のうち、前者に焦点を強く当ててしまうのです。これは自然の性質ではなく、自然について考える私たちの認識の偏りです。

この認識の偏りが根強いのは、直線的な時間変化による静的な単純化という自然の理解が、これまで多くの成功を収めてきたためです。あまりにその成功体験が強すぎるため、多くの人は後者の性質を無視してしまい、前者の理解だけで全てを理解できると無意識のうちに思い込んでいるのです。

そうなると、無生物と生物は全く異なる性質を持っているという見方につながります。生物は複雑な秩序を形成しますが、無生物は直線的で単調な振る舞いしかしないという誤った見方です。

なお、この認識の偏りは、成功体験と認識の仕方という2つの要素の相互作用の結果と言えます。つまり、こうした科学における思考自体にも、相互作用による動的な複雑さという自然の性質が現れています。これを直線的で必然的な認識方法であると捉えてしまうと、認識の偏りに気がつくことができません。

従って、私たちの認識の方法という主観的な側面と、客観的な対象物である自然の両方に対して、相互作用による複雑化という性質があることを見落とさないようにすることが重要です。

■動的な構造の維持と増殖

生物は生きている間は肉体を維持できますが、死んでしまうとその形を維持できず、崩れていきます。これは人や生物が作った構造物についても同じことが言えます。建物や巣も、手入れする人や動物がいなくなれば、自然に風化していきます。

このように無生物は風化や崩壊をする性質があるという前提を、私たちは無意識に持っています。しかし、宇宙の塵やガスが集まって星を形成するように、風化や崩壊は無生物の性質ではありません。

そうは言っても、星の形成のように無生物が形成するものは静的で固定的なものに思えます。しかしそれも誤解です。恒星の周りを惑星が周回するように、無生物も動的な構造を形成します。

さらにこの周回は多少の外界からの力が加わっても、復元することができます。動的な自己維持の性質は、生物に固有の特性ではありません。

では自己複製はどうでしょうか。これも無生物でも持ち得る性質です。振り子の同期は自己複製のように同じ動的な構造を増殖させる現象の代表例です。この他にも、磁力により砂鉄が整列する場合、個々の砂鉄は同じ方向にS極とN極が生じるという形で自己複製に似た振る舞いを見せます。

このように整理していくと、無生物について私たちは無意識の誤解をしており、生物の持つ特別な性質は、無生物には無いと思い込んでいることに気がつきます。

むしろ、生物の特性だと私たちが直感的に捉えているこれらの性質は、無生物にも共通しているのです。

■エントロピーの自然な増加

また、生物が自己維持をしたり、秩序立った構造を形成することは、熱力学におけるエントロピー増加の法則に逆らっているかのように議論されることがあります。

特に、生物は部分的にはエントロピーを減少させつつも、全体的にはエントロピーが増加することで法則は破られていないという誤った説明がなされることがよくあります。

しかし、生物の多くの振る舞いには、局所的であってもエントロピーの減少を伴いません。純粋にエントロピーを増加させている場合が多くあります。

エントロピーは複数のエネルギーの入れ物の間でエネルギーが安定するように分散していくということだけを述べているに過ぎません。乱雑な状態から秩序が形成されたとしても、エネルギーの入れ物の間でエネルギーが安定するようなバランスを保てば、エントロピーは増加します。

恒星を周回する惑星という構図は、秩序を形成していますが、位置エネルギーと運動エネルギーがバランス良く分散した結果です。振り子の同期現象も秩序を形成しますが、そこでも位置エネルギーと運動エネルギーの安定した分布が見られます。

このように、生物がエントロピーに対して特別な存在ではなく、局所的にも全体的にもエントロピーは増加していくという自然な流れに沿っています。

つまり、無生物も生物も、単純にエントロピーの増加に向かっています。その際に、単調で散逸的に見える場合と、複雑な秩序が形成される場合があるに過ぎません。

■相互作用による安定性の獲得

生物は他の生物と相互作用することで、安定性を獲得しています。他の生物がいない状況では、生物は自己を維持することも増殖することもできません。

一方で、無生物は物理法則や化学的な性質に従って安定化するという単調な性質のみを持っているという誤解があります。

星の形成や分子の形成など、安定した構造が獲得されるのは、その構造を形成している物質独自の性質によるものだと考えられています。この場合は、他の星や分子とは独立して安定性が獲得されます。

例えば、原子が適切な温度と適切な圧力の中にあると、個々の原子同士が引き合って分子が形成されます。この時、その空間内の原子は、全て個々の性質によって分子を形成します。基本的な分子はこのように他の分子との相互作用なしに形成され、存続することができます。

しかし、無生物においても生物と同様の状況は起こり得ます。素材となる物質だけで独立している状態では構造が形成されず、周辺の物質からの影響があるからこそ安定した構造を持つことがあるのです。

では、素粒子から原子が形成される時はどうでしょうか。量子場から素粒子が形成される時はどうでしょうか。私たちは無意識に、これらについても基本的な分子と同様に、個々の要素群が環境とは独立して振る舞い、合成されると考えてしまいがちです。

しかし、量子場の特定の組み合わせが素粒子を形成し、その素粒子が別の素粒子の形成の触媒になっているという可能性も考えられます。そのようにして自己複製に似た現象が起きたことで、特定の素粒子群だけが宇宙に広まった可能性はあります。

これは、反物質が存在することはできても長時間は維持できない理由を説明します。通常の素粒子が、通常の素粒子を触媒して増殖させる性質があるため、反物質はこの作用によりごく短い時間で消失してしまうのです。

同様に、生物を形成する複雑な有機化合物は、基本的な分子のように独立して形成されたり維持されることはないでしょう。有機化合物同士の相互作用により、複雑な有機化合物が形成され、維持されるはずです。

これは、複雑な有機化合物が稀に生じる奇跡的な出来事に頼って形成されるのではなく、環境全体に広がった有機化合物同士が相互作用することで形成され、存続することを示しています。

■自然な流れに逆らうという誤解

ここまでに説明した誤解と、正しい自然の姿の理解を、水の流れを例にして説明します。

水は高いところから低いところに流れますが、水の流れ同士がぶつかって一時的に重力に逆らって高い部分ができることがあります。生物を誤解に基づいて考えた場合、このような現象のように捉えてしまいます。

無生物は基本的に自然な流れに沿っていますが、例外的にその流れに反する場合があり、それが奇跡的な偶然が重なって複雑化したものが生物であるという見方です。なぜなら、生物は無生物とは異なって自然の流れに逆らう特別な性質があるという誤解があるためです。

このように考えてしまうと、生物が自然の流れに逆らい続ける仕組みを維持していることになります。こうなると生物の誕生には奇跡的な偶然の重なりと、特別な性質が必要であるように思えます。また、進化によってさらに高度化していく非常に特殊な現象に見えます。

■自然な流れとしての生物

自然を正しく理解して、このような誤解を解く必要があります。

水はまっすぐに流れ落ちることもありますが、渦を巻きながら流れることもあります。

原子から基本的な分子が形成されるように無生物が単調に見えるときは、水がまっすぐに流れる様子と同じです。それぞれ他の部分から独立して流れているに過ぎません。

一方で、無生物が相互作用しながら複雑で動的な構造を形成する現象や、生物の代謝や自己複製は、渦を巻きながら水が流れる様子と同じです。

これは自然な流れに逆らっているわけではありません。自然な流れに従っています。その流れの中で、他の部分と相互作用して複雑で動的な構造を形成しているに過ぎません。

自然な流れに逆らっているわけではないため、これらの動的な構造は、長い時間維持されることがあります。そして、一度できた動的な構造を触媒にして他の動的な構造が形成されたり、同期や整列により秩序を形成したりすることも可能です。

そうして形成された動的な構造同士が、お互いの存続にプラスに働くことで、さらに長い時間、安定して存続することができるようになります。

従って、他の要素から独立した直線的な単純化と、他の要素との相互作用による動的な複雑化という、2つの側面を無生物も生物も持っています。

これが私たちが無生物と生物を見るときの正しい見方です。

条件が揃えば、無生物でも自然な流れに沿って相互作用により複雑化します。そして、その延長線上に生物が誕生することも自然な流れです。さらに、生物が自己維持と自己複製を繰り返し、より複雑で高度な構造へと進化することも、全て自然な流れです。

■さいごに

直線的な単純化と相互作用による複雑化という2つの側面を持つ自然の姿を正しく理解することは、無生物と生物を本質的に異なるものであるという認識から、同じ性質を持つ連続した存在という認識への移行を促します。

そして、冒頭でも説明したように、この認識を持つことは、生命の起源における既存の仮説が試みている、局所的な特別な場所や、特別なメカニズムを探し当てること自体が、不必要なことだとわかります。

地球は、水の循環やエネルギーの流れを全地球的な規模で持っています。この中で有機化合物が相互作用して複雑化してくことができる環境であることは明らかです。従って、局所的な場所だけで生命が誕生したのではなく、全地球的な有機化合物の相互作用による複雑化が生命の起源であることが自然な理解となります。

また、有機化合物が段階的に徐々に複雑化していく中で、代謝や、遺伝情報の複製や、区画化のような作用が並列に生じ、それらが徐々に複雑化して高度化されていくことで、やがて生物の持つ代謝、遺伝情報の複製、区画化へとつながっていったと考えられます。そしてこれらが一つにまとまって機能することで、最初の細胞が登場したと考えることができます。

重要なことは、具体的な化学物質や反応経路を明らかにしていくことよりもずっと手前にあるのです。私たちがどのように考えるか、ということです。そして、特殊なアイデアやまだ明らかになっていない原理を見つけ出すことではなく、既に観察されてよく知られている自然の姿を、正しく理解することにあります。

また、自然の理解と相互作用は、観察対象としての自然だけでなく、私たち自身の考え方についても同様です。私たちは自然状態では、過去の成功体験によるフィードバックを受けて、その成功体験に沿ったバイアスを持って物事を捉えてしまう性質があります。このことを理解することで、問題にぶつかった時に、自らの考え方の問題である可能性にも目を向けることができます。

直線的な単純化と相互作用による複雑化という2つの側面を自然は持っています。そして、私たちは直線的な単純化という見方を好むバイアスがあります。この自然の正しい姿を理解することで、私たちは改めて相互作用による複雑化という性質から、生命の起源について考え直すことの必要性に気がつくことができます。

そして、この視点から見ることで、私たちはようやく、生命の起源について考える正しい出発点に立つことができるのです。

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katoshi
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