「腹黒のジレンマ」を読んで自分の24年間を振り返る
はじめに
こんばんは。セリナです。
鹿児島の大学に通う大学4年生です。
本日6月15日に24歳の誕生日を迎え、将来の仕事を考えたり、その上でいまなにができるか自分がなにをしたいのか考えたりすることが増えました。
なにがしたいかを考える上で今までの自分を振り返るのはひとつの手ではないかと思っていたときに、私の好きなYoutuberでもあるパオパオチャンネル(現在活動休止中)のぶんけいさんの本を読みました。
同世代の人の25年の人生に触れ、そのクリエイティブな挑戦をやめないぶんけいさんに感銘を受けたので私もそれに後押しされ、自分の24年間を振り返りたいと思います。
自分についてもどういう人なのかを改めて考え、この機に自分と向き合ってみようと思います。
私が読んだ本はこちらです。読んでない方はぜひ。
そしてこの本の最後に、
ただつらつらとぼくのことばかりを書いてしまった。ぼくは今、「クソッ!ぼくだけ、25年間をこんなに見せてしまった!」と思っています。みんなのも見せてほしい。
という文章もあったのでぶんけいさんにこれが届くかはわかりませんが、私の24年間もぶんけいさんに見せようと思います。
やりたいマンの誕生
ぶんけいさんは本で小さい頃からなんでも「なんで?」を聞いてしまうなんでマンだったと書いてあった。
私は誰にでも来るなぜなぜ期は平均的に過ごしてきた気がする。
ぶんけいさんのなんでマンに対して自分はなんだったんだろう?と考えると、一番に浮かんだのが「なんでもやりたいマン」だった。
私は1996年6月15日福岡県福岡市に生まれた。
福岡市のまんなか!というわけでもなかったので、都会すぎず田舎すぎず、とても過ごしやすい街だった。
2歳とか3歳とかで引っ越してしまったので記憶にはほぼないが、おばあちゃんおじいちゃん家が近くてよくおじいちゃんが朝方まだ寝てる時間に「ピンポーン!せりなー!あそびにいくぞー!」とたたき起こされ公園へ連れて行ってくれていた。
2個下に弟ができて両親もそっちの面倒を見なければならずおじいちゃんが私にかまってくれていたのだとおもう。
当時の私。かわいい。
ついでにこっちも。かわいい。福岡県民向けに言うとこれ小戸公園だな。
幼稚園時代は熊本に引っ越した。
私は全然覚えていないけれど,、幼稚園を決めるとき、何個か幼稚園を回って私が「ここがいい!」と言ったところがあったらしくその幼稚園に入園した。
ここがいい!と3歳の私が言ったわりにはとても厳しい幼稚園だった。
園長先生がとても怖くて、なにか怒られると平手ビンタがとんできていた。
今考えると問題になりそうな幼稚園だなと思うけれど当時はほかの幼稚園がなにしているのかも知らずその世界だけが自分の知っている世界だった。
楽しくなかったわけではない。
先生は教育熱心で、幼稚園のあいだにひらがな、カタカナ、1年生の漢字、足し算引き算掛け算割り算まで習っていたし、授業としてバイオリンをやっていたり、木琴をやったり、バトンをしたり、習字をしたりなんかよくわかんないけどいろいろしていた。
なんでもやりたいマンなのでとても楽しんでやってたと思う。
クリスマスには英語の劇をしたり、
バイオリンの発表会に出たり、
ハロウィンパーティーをしたり、
運動会ではフラフープをしたり、
マンションの目の前が公園でよく遊んでいた。
卒園までは熊本にいたが、小学校は福岡に戻ってきた。
小学生時代は習字、バレエ、英会話、塾、子供会を始めて放課後は毎日習い事をしていた。
やらされていたものは一つもなくて、全部私がやりたいと言ったものだった。
小学校低学年は教室で絵を描いているようなかわいい女の子だった(自分で言う)
ほら、かわいい。
一つ覚えているのは小学校1年生のとき、ダンスが得意な友達が”世界に一つだけの花”の振り付けを半コピー半自己流くらいで教えてくれて、昼休みに発表会をしますと先生と友達に言いまわったらなんと校長先生が見に来てくれた。
そのころから人前に立つのはわりと好きで、目立ちたかったんだと思う。
小学3,4年生になるころには何が起こったのか、教室で絵を描いているようなかわいいせりなちゃんは消え、男子に一人混じって運動場でハンドボールとかドッジボールとかしていた。
男子もみんな仲良くしてくれていたけれど女子としては見られていなかったと思う。笑
その一方で習っていたバレエでは役をもらって私だけの色の衣装を着て発表会に出ていた。
最近の私を知っている人からは「意外」としか言われないバレリーナ姿がこちら。
そのころは男子だけでなく女子も含めてクラスみんなと仲良くしていた。
普段から友達と遊ぶとなると友達に家にいくより自分の家に呼んでいた人だったが、自分の家でクリスマスパーティーをしますと言ってクラス40人のうち20人超えが私の家に来たことがある。
1か月前くらいから計画を練り、分刻みのプログラムまで用意して、当日の流れが書いたしおりまで作っていた。
我が家では毎年恒例で作っていた”画用紙を2枚同じ形に切って毛糸で編んだ靴下”をみんなで作った。
画用紙の色と毛糸を選ぶところから始まり、それにシールを貼ったり絵をかいたり自由にでこった。(でこるって最近聞かないけど死語かな)
なかなかいい企画をしていたな、自分。
お母さんのおかげだけど。
自分の用意したものでみんなが喜んでくれるのがうれしかったし、なによりみんなが喜んでくれるかなって準備してるのが楽しかった。
小学校高学年になるころには毎年代表委員というクラス委員みたいなものをしていた。
とりあえず目立ちたかったしなんでもやってみたいの精神からリーダーもやりたいやりたいと手を挙げていた。
このころは毎年夏休みに海外に旅行に行くというたぶん普通ではない経験をしていたが、ご覧の通り眼鏡をかけ前髪がなくなり1年生のかわいいせりなちゃんはいづこへ。
ちなみに小学校の時は勉強もそこそこできて運動もそこそこできて友達もそこそこ多かったしとても充実していたと思う。
可愛かったのは1年生のときまでだったけど。
あれ、これこの調子で語ると24年追いつくのまだまだかかりそうだな、大丈夫か?
繰り返しの日々で冷めていた中学時代
中学校にあがるとき、また隣街に引っ越した。
小学校のときの友達は自転車で会いに行ける距離だったけどみんなばいばいした。
いや、みんなでもなかったや。
私の通っていた小学校は福岡一のマンモス校で全校生徒で1000人を超えていた。
私の学年は5クラスだったけどその下は7クラス8クラスと増えていった。
私が5年生に上がるとき、隣町に新しい小学校をつくることになり、私の学校含め周りの学校2つから生徒を3分の1ずつ移すことになった。
その学校へ移ることになりばいばいした友達は、中学校になるときに私が引っ越したことで2年ぶりの再会をした人もいた。
それだけでも変な経歴を持ってるなと思う。
中学校は親の影響もありソフトテニス部に入った。
毎日朝練と放課後練に行き、土日も欠かさず練習があった。
これも話せばとても長くなるけど学年24人の女子たちとの部活生活は人間関係の難しさを初めてもろに感じた3年間だったと思う。
定期的に部内戦でランクがつけられ、それがプライベートにもかなり影響していた。
6人が一つのチームだったのでABCDまでのチームに分けられていた。
私はだいたいBだったけどAの子が引っ越したことでAにいきなり抜擢されたこともあれば不調の時はCのときもあった。
Bチームという準レギュラー期が多くて最後もBで終わったけど他の学校の準レギュラーよりは強かったし、さほど区大会上位常連でもなければ他の学校のAに勝つこともあった。
最後の大会中体連では雨が降らなければ予備日に準レギュラー大会をするという決まりがあって、各学校の準レギュラーだけが参加できる団体戦があり、私のレシーブが前衛の脇を見事にすり抜け、優勝したのを覚えている。
その大会はとてもいい思い出として残っているけれどレギュラーに実力で入れなかったことはずっと根に持っていた。
実はAの子が引っ越したときに穴埋めでAに昇格し1番手を務めていたときもあったが、実力で勝ち取った枠じゃないというのがずっと納得いってなかった。
ペアの子が強すぎたのでお前はここだけ守ってればいいと1コースだけを守る壁前衛で半分思考停止の非バランスペアプレイをしていた。
その何が楽しいのかわからなくなった私はコーチに数か月相談していたが、結局自らレギュラーを降りたいですと言いにいった。
自分が楽しめないことやっている意味がないなと判断して夢の1番手生活も幕を閉じた。
なんかとりあえずいろいろあった。
その一方クラスでは少しおとなしい生徒になっていたと思う。
といってもクラス20人家に呼ぶなんてことはなくなったというだけで普通な生徒になったくらいだと思う。
学校にはギャルみたいな人もいたし学校に不定期にしかこない子もいたけど幅広く接していたと思う。
そんな私を見ていい人だと思ったのかなんなのか知らないけどせりなファンクラブみたいなのをつくられて特定の女子にやけに慕われていた記憶がある。
ちょっと問題ありっぽい感じの生徒に好かれていた。
学校にたまにしか来ない子だったりちょっといじめられていたりそんな子にも変わらず接してたからかもしれない。
その一方で私は私でぶくぶく太りはじめ、ぽっちゃり体型となり、クラスの口悪いヤンキー男子にデブだの豚だの言われていた。
別に日常的にいじめられていたわけではなく、そういうことを誰にでもいうようなデリカシーのなさすぎる男子にすれ違いざまに言われていたくらいだったと思う。
「人に暴言を吐くことでしか楽しめないようなそんなつまらない人間かわいそうだな」とその人自体のことは特に気にしてはなかったけど、そのころから自分に自信がなくなり、男子が怖くなった。
たまたま一人で学校から帰ってる日に体育館のあいている窓から「豚足!無視すんな!お前のことやぞ!」と叫ばれたこともある。
「一生忘れねえからな今言ったこと」と思いながらも相手は1週間もすれば忘れるんだろうなと理不尽さを感じていた。
そんな毎日が、いろいろあって大変だった毎日が、それでもどこか毎日同じことが繰り返されているなという感覚があった。
2年生のころにはその生活にはもう完全に飽きていていつこの生活は終わるんだろうか?毎日同じ部活と授業と塾の繰り返しでいつまでするんだろうか?と思っていた。
お母さんが中学生の頃の友達は今は一人しかやり取りをしていないとかいうからそれをめちゃくちゃ信じて、今の友達は中学っきりだと思っていたしわりと冷めた考えを持っていた中学生だったと思う。
嵐は大好きだったけど。
そんな繰り返しの日々の生きがいのすべては嵐だった。
いろいろあった、でもたんたんと繰り返される日々の希望でしかなかった。
私の芸能界好きの始まりだった。
当時の私はこんな感じ。なんかもさい。
充実と挑戦の高校時代
高校生の頃は絶対受かるといわれた地元のトップ公立校に落ち、私立の高校に通っていた。
暴言はいてくるような男子や番手争い、人間関係に疲れる部活、繰り返される毎日だった中学校とは一変、みんなとてもいい人でとても充実した高校生活を送っていたと思う。
いきなりぶんけいさんの話に戻るけど、ぶんけいさんは「人が好きという気持ちが強い」と言っていた。
私も基本的に人が好きなんだなって高校生のときに気づいた。
嫌いな、というか合わないなという人はもちろんいたけれどそれでも嫌いという感じではなく、自分とは違うその人の思考は気になる、自分と違うタイプの人間という一種の興味はあった。
たぶん私とは合わないのでそれ以上親友とかになることはないけどね、とは思っていたけど。
だから内心得意じゃないなあと思っていてもそんなにあからさまに態度は変わらなかったと思う。
部活は硬式テニス部に入って同学年は12人と、中学の頃より半分になったけどそれでも歴代最高人数だったらしい。
高校テニス部時代の私。なかなかかっこいい。
中学とは打って変わって休日は12人全員で遊びに行く約束をするような仲の良い部活だった。
喧嘩なんてほぼなかった(と記憶されている)し、卒業旅行も12人で仲良くハウステンボスに行った。
卒業したのに制服なんてきてね。
ディズニーかのように写真撮ってますがハウステンボスです。
12人で歴代最高人数だったと書いたけれど、後輩にいっぱい入ってきてほしいという思いで、2年生になるとき初めて動画編集にチャレンジし部活動紹介を作った。
いわゆるバカっこいい映像というもので100回とか箱の中にボールを投げて偶然入るのを狙うようなバカだけどかっこいい日常ムービーを作ろうとした。
結果的にはとても好評だったしそれを見た後輩が18人も入ってきた。
部活動紹介を見て入ったと言ってくれる子も多く、またもや自分の作ったもので喜んでもらえた、だれかに影響したというのが嬉しかった。
部活だけでなくクラスのほうもみんな仲良くて、特に2,3年は先生が良くてみんなに慕われている先生が担任だった。
姐さん姐さんとみんな呼んでいて卒業式の黒板も安定の姐さんだ
スポーツフェスティバルとかいう運動会もどきもクラスが優勝しようというよりは姐さん(先生)に優勝を捧げるんだ!と一致団結していた。
当時の写真を見返すと写真部の子がいい写真をいっぱい撮ってくれていて青春すぎて泣きそう。
クラスでも、文化祭では動画作品を出そうということになり、私の経験からバカっこいい映像をまたすることになり、編集はすべて私が受け持った。
それしか動画を作ったことがなかったのでわからなかったが、バカっこいい映像は撮影時間がとてつもなくかかるのはもちろん、ハプニング的な面白いシーンを集めるためにすべての動画を一回見ていたので編集もとても時間がかかった。
なんでもやりたいマンのせりなさんは同時にダンスにも出たいと参加し、放課後はテニス部の練習、日が暮れるとダンスの練習、学校が閉まると動画の編集というめちゃくちゃ忙しい文化祭前の生活を送っていた。
ダンスは部活の友達や親も見に来てくれて、自分が踊ることでキラキラした笑顔で手を振ってくれる友達がステージから見えてとても嬉しかったしなにより楽しかった。
そのころは嵐だけでなくHKT48にはまり、アイドルが大好きだったけれど、自分が可愛くてもっともっと痩せてればアイドルにだってなりたかった。
っていま初めて言ったけど。
HKTの1stシングルは1000円で2ショットが撮れるという今考えれば激安特典があったのだけどそのときの指原さんがこれ。8年前かな?
なぜ「コピー」で顔を隠しているかわからないが元データが前の携帯に入っていて現状手元にあるのはこれです。
最近、というか前からだけど裏方の仕事をすることが多くて「表より裏がしたい人なんでしょ?」とこの間言われたけどたぶん違う。
表に立つ人間に憧れを抱いてずっと生きてきたけど太ったっていうコンプレックスで自信がなくなり、表に立つ人間にどうにか関わりたくて裏方の仕事をしていた。
裏方は裏方で楽しかったし、動画編集を担ったクラス作品も手ごたえを感じていた。
当日は200人くらい入る教室ぱんぱんになるくらいのお客さんの前で上映を4回くらいしたしみんなの拍手はとても暖かかった。
私の多忙な準備期間と直前の徹夜は無駄じゃなかった。
3年の頃には文化祭の準備の負担が一人に偏りすぎていたのもあったのでみんなでできることをしようと階段の装飾を担当することになった。
みんなに慕われていた姐さん(先生)が化学の先生だったんだけど、クラスの文化祭案が出てなくて行き詰ってるときに「うちの高校の二重らせん階段でいつかDNA構造を作るのが私の夢なの!」って言っていて即決した。
みんなで姐さんの夢を叶えるぞとばかりにまた一致団結し、私は材料の買い出しの他にも塩基の色や形など表現方法を考えたり、床に貼る草の絵を描いたりと軽くデザインみたいなことを担当していた。
化学と生物の先生監修なのでこのボールの色と配置もちゃんと合わせた。
理系特別クラスの意地。笑
とても楽しかったな。好きだったな、あのクラス。
黒歴史なリアルとヲタ活へ逃避の浪人時代
大学は九州大学の芸術工学部にとても憧れていた。
絵はうまくなかったから芸術才能があるとは思ってなかったけれど、芸術工学部には人間が使いやすい形をデザインしたり、メディア表現をしたりということも含まれていて、おもしろそう!と思っていた。
それまで数学とか物理とかだけが勉強で学部もそういうのから選ぶと思っていた私が、メディアも学部になるし勉強になる、職業になるって知って芸能界好きの私はそれしかないと思っていた。
芸能界好きなので東京にいつか行きたいとずっと思っていたけど大学で東京に行くのはなんか現実味がなく、生活範囲的に手に届く距離での一番の芸能界への近道がそれだと思っていた。
結果的に学力が全然手が届かなかった。
頭は悪いほうではなかったけれど2年生から特別クラスに入りどんどん勉強がわからなくなって1回だけクラス最下位を取ったことがある。
赤点も2個くらいとってた。
化学と世界史でカタカナがどうしても覚えられなくて赤点を取った。
なんか一定数いるよね、カタカナ苦手な人。
外国人の名前と高分子化合物が一切覚えられなかった。
わりとなんでも挑戦して平均以上にはできてきた器用な人間だと自分でも思っていたけどたまになんでみたいなところで全然できなかったりする。
結局センターの点が悪くて一つランク下の九州工業大学の情報工学部を受けるもそこにも届かず、浪人することを決めた。
このとき福岡大学の工学部も受かっていたけど九州大を目指す自分のプライドが許さず浪人した。
浪人時代は駿台予備校に通っていた。
友達は一人もできなかった。
そもそも予備校なんて友達を作る場所ではないでしょと友達に言われたけれど。
予備校は200人超えの大きい教室に押し詰められているような窮屈な環境だった。
隣の席の人の名前を知る機会すらなかった。
そんな環境で3人机にぎゅうぎゅうに座らされ、男子恐怖症が残っている私は両端の肩が当たりそうな距離の、両隣の男子に挟まれるのも嫌だった。
九州大クラスにいたもののA-EのDでめちゃくちゃ努力して奇跡でも起きないかぎり受からないだろうなって感じのクラスだったと思う。
私が一個下レベルの九州工業でさえ落ちてるからね。
結局夏休みには授業が何を言ってるのかさっぱり理解できず、ただ予備校に行って時間が過ぎるのを待って帰るというだけのまた繰り返しの日々が始まった。
テキストを開いてみるもその前の内容からわからないし、200人もいれば気軽に質問できる雰囲気でもないし、何がわからないのかもわからない、宿題を提出するとかもほぼなかったから私がどのくらい理解しているか把握してくれる人もいなかった。
これは通ってても本当に無駄だな、今からでもやめて自分に合う勉強をしたほうがいいなと一時期めちゃくちゃ考えた。
でも学費はもう1年分払っていたのと、部活時代は最後までやり通すことが大事だと教わっていたし最後までやり通してみようと思って最後まで行っていた。
結局最後までほぼ得られるものはなかったしセンターは100点下がった。
九州大どころか昨年受けた九州工業を受ける点数でもなく、地方大だって奇跡が起きないかぎり無理だろうという点数だった。
佐賀大学に地域デザイン学部というその年からできる新しい学部があるのを聞いて、そこを受けることにした。
そこの二次試験は白紙一枚に町おこしのイベントの企画内容を書くという特殊なものだったので二次試験の学力関係ないしわんちゃんの奇跡が起きないか願った。
センターが終わってからはそんな特殊な二次試験の対策をする授業はもちろん予備校にはなく、家でひきこもっていた。
何を勉強したらいいかもわからず、そもそも勉強する気すらわかず、毎日家から一歩も出ずにテトリスを6時間してマインスイーパーを4時間してとか結構やばいひきこもりニート生活(受験生)を送っていた。
1か月先も2か月先も予定が何も入っていない状況に絶望し、誰にも必要とされてない、私の行動がだれにも影響を与えていない、この社会と隔離されていることを実感していた。
そんな生活になってしまった裏にはヲタ活のことも影響していたと思う。
推しメンのせいにするわけではないけれど、そんな暗い予備校生活の裏ではTwitter無双のツイ廃と化し、一日600ツイートしていた。
友達がいない予備校に対してTwitterでは3600人のフォロワーがいた。
完全に現実逃避だった。
HKT48の梅本泉ちゃんという子にはまり、同じ推しの人と仲良くなって、40前後の男の人とかに交じって飲み会にいったこともあれば同い年女子と仲良くしてたこともあった。
リアル世界がうまくいかないなか、アイドルは私の希望だったし心の救いだった。
あれ、中学と同じこと言ってるな。
その梅本さんがが12月でアイドルを辞めた。
忘れもしない2015年12月16日。
センターまであと1か月。
予備校が終わりバスに乗ってTwitterを見たら私の唯一の希望が消えるお知らせ。
いや、どこかに生きてはいるので消えるとは言ってはいけないな。
でも本当に支えてもらっていた存在がいなくなるという知らせを見てフリーズした。
そのころは劇場が予備校と家のちょうど間にあって、今劇場に行けば3600人のフォロワーのだれかはいるかもしれないと思って劇場に向かった。
もうほとんどみんな帰っていて20人くらいしかヲタクは残っていなかったけど知り合いがいてとりあえず頭が真っ白な私を慰めてくれた記憶がある。
そして10日後に卒業とかいうスピード卒業だったためにヲタク界隈も悲しむ暇もなく卒業公演への準備にとりかかった。
次の日にヲタクの臨時集会に呼ばれ、卒業公演での担当を決めた。
アイドルヲタクでもなければなんの担当かと思う人もいるかもしれないが、そういうAKBなどのアイドルには生誕委員、卒業委員と呼ばれるヲタクの有志の委員がある。
卒業公演でのフラワースランドやペンライトを用意したり、掛け声を決めたり、卒業メッセージを集めたりする。
私はセンター1か月前とかいう自分の都合をすべて投げ捨て、10日間梅本さんのために準備することにした。
バカやん笑、って思う人も多いと思うけど私の希望のすべてだったし梅本さんがいなくなるという現実がある状態で勉強なんかどうせ手につかないと思った。
梅本さんのためにできることは今動くしかないと思ってできることを担当した。
3,40前後の男性ヲタクも多かったのでそこでも若い女子のセンスを買われ、卒業公演で配るミサンガにつけるタグを作って500人分印刷して切手タグ入れしてっていうのを12月25日クリスマスの夜に天神のサイゼリヤでヲタクとしていた。
劇場付近で動ける人がいなかったのもあり、それに加えてメンバーへプレゼント用の袋を50枚買いに行ったり、ペンライトこれ使っていいですかと運営の人に確認にいったりもしていた。
我ながらセンターまで1か月切りながら何してんだろと思っていたけれど、それが推しのためにできる精いっぱいだったし後悔はしていなかった。
そのミサンガは卒業公演に入ったり、劇場に来ていたヲタク500人に配られた。
みんなが大切にしていることを願う。
その数日前に行われた福岡最後の握手会で最前に座らせてもらって恐縮。
(右側の赤いうちわが私です。)
委員としてはその前にも生誕委員をしていてその時はヲタクからの生誕メッセージを入れるアルバムの表紙を作っていた。
ちなみにこれは本人のブログでの写真にしっかり載りました。
やっぱりなにか作って喜んでもらうのが好きだったんだと思う。
で、その推しメンの卒業タイミングも重なり、センターの点は大暴落、やる気も失い、結局佐賀大にも落ちた。
そしてまたぶんけいさんの話を出すけれど、立命館大学の映像学部に行っていたと書いてあったが私もそのタイミングで同じ学部を受けてはいた。
それも落ちたけど。
ぶんけいさんの2個下+一浪だったので3年あとかな。
受かっていればぶんけいさんの後輩になっていたかもしれない。
なれなかったけど。
必死で焦りしかなかった短大生活
結局3月後半になっても受けられるという福岡工業大学の短大、情報メディア学科に最後の最後ですべりこみで合格し通うことになった。
短大から国公立への編入という道もあるよとお母さんに教えられた。
最初から違う大学へ編入するつもりで短大に入った。
受験はめっちゃくちゃ簡単な数Ⅰだけで勉強しないでも100点取れた。
おかげで全額免除だった。
だけどわりといいくらいの私立に通っていてクラス半分が九州大を受けるようなところだったので短大に通う人なんていなかったし、かなり落ちこぼれたなという自覚はあった。
でもそのときも国公立の一定レベルのところに行きたいとは思っていたし、短大から編入という道があると聞いて、最初から編入目当てで短大に入った。
浪人も含めて2年間の受験勉強がやっと終わったのにまた受験生になった。
ネットで調べても偏差値70とか出てくるような高校から偏差値35の短大に入学した。
まあ70は言い過ぎな気はするけど普段の模試から見ても65くらいはあったと思う。
まあとりあえず35とかいうところにきて、落ちこぼれの私以上に勉強できない人ももちろんいっぱいいて、世界はひろいなあ()と思った。
みんなが頭悪いとかではなく、その分野だけ好きみたいな人が多かった気がする。
情報学科だったのでパソコンが好きな人が多かったんだけど、私はパソコン自体に詳しいわけではなかったのでCPUがどうたらとか自作パソコンがどうたらとか話している人にはついていけなかった。
私はその短大からプログラミングを始めたし、それまでにしていた人の話はもちろん理解できなかった。
短大はJava,Cといったプログラミングの基礎やWebサイトの作り方、セキュリティなどの授業はもちろん、選択でCG・映像・サウンドコースをとっていたのでPhotoshopやIllustrator、AfterEffectsなどの編集ソフトの使いかたも学んでいた。
(本名でネット検索するとそのコース代表で大学HPに載っている写真が一番に出てくるのいつまで続くんだろうか、ちょっとやめてほしい)
当時はPhotoshopも初耳だったし、今回の授業はそのソフトを使うんだーとしか思ってなかったけれど、今おもえばちゃんと習得しておけばよかったと思う。
Adobeがそもそも有料なのも知らなかったし、授業までやってくれて授業外でも自由に使えるその環境はありがたかったなと卒業後に思った。
遅い。
プライベートでは梅本さんに次ぐ第二の推しメンを当時好きだった2人から決めれず2人推しでヲタ活を続けていた。
正直、前の推しが一番だった気持ちは最後までぬぐえなかったけれど、ちょうどバイトも始めて、福袋特典で数か月劇場通い放題権利(お金はいるけどすべて当選扱い)を手にして週4とかで劇場に通っていた。
嵐もだけどやっぱりアイドルは現場があるからこそのエンターテイメントだと思ったし、同じ趣味同じものを好きになった同じ感覚の人たちがその空間に一同に会している現場が好きだった。
その週4の劇場代を稼ぐべく、レストランでバイトも頑張っていた。
初めて働くという経験をして、接客もして、働くこととはみたいなところから教えてもらって感謝している。
だけど平日はお客さんも少なく、「この店黒字なのか?」と不安になるレベルの日も多かった。
その一方で人は足りておらず、バイトでも週5,6はデフォで社員は週6当たり前、自分が社会人になったときはこうはなりたくはないと思った。
しかも時間帯も朝9時に出勤して夜11時くらいに店を出るような感じだった。
今考えると、こうはなりたくないというのは「8時間以上は働きたくない!!」ではなく、「好きなことでもないのにその時間拘束されるのはいやだな」だったと思う。
もしかしたら社員さんたちは好きでやっていたのかもしれないけど。
まあそれでも9時23時はやりすぎだとは思う。
そんなこんなで編入試験も近づいてきた。
編入試験は基本的に普通に大学入試よりかなり早く、特に国公立は5月6月にある。そのあと一旦落ち着いて私立も含め9月ごろにもまた一斉にある。
つまり入学してすぐにもう入試1年前。
編入がなにをするかもわからずとりあえず夕方の対策授業には顔を出し、昼休みは英語のリスニングに潰れていた。
でも特に計画的に勉強しているとか過去問を順番に解いて整理しているとかではなく授業やってるから参加しようだった。
その結果2,3か月前になって九州大にはいけないなってわかってはいたことを目の当たりにし、現役の頃に受けた九州工業なら先輩実績もあるしわんちゃんあるかもと思って専願志望した。
だけど過去問もまともに解いていなかったしなにより志望理由があやふやだった。
編入試験なのでこの大学に入って何をしたいのかという面接が一番の肝になるわけだけどそこがぶれていた。
芸能界に関わりたい、ステージに関わることをしたいということは決まっていても希望する先は知能情報学科で、分野として関わることはできてもどんぴしゃにその学科というわけではなかった。
面接の前に志望理由書を書いて受ける大学に提出しなければならなかった。
短大の先生に「そういうエンタメに関わりたいは少しずれているから志望校の研究室やテーマを見てその中からやりたいと思うものを選びなさい」と言われた。
HPをだーーーっと見て決めたのが車の自動運転だった。
単純に面白そうと思っていたし、話題だったし、なんも知らないけどすげえって思っていた。
何も知らないのはやばいのでネットで自動運転について調べてかき集めた知識で志望理由書を書いて提出した。
今考えれば1週間でやってきてねのレポートレベルだったと思う。
志望理由書を出したあとに編入担当の先生とは別の先生が面接練習をしてくれることになった。
そのときに「自動運転がしたいです」とでっちあげた志望理由を言ったらそれは本心なの?と見抜かれてしまった。
一旦面接練習は中断でいいから本心を聞かせてくれと言われた。
無理をしていたのは自分でもわかっていて、本当はステージ演出だったりテレビだったりエンタメに関わることがしたいことを伝えた。
自分のしたいことを素直に伝え始めたら涙が止まらなくなって、他に男子二人も一緒に面接練習をしていたけどおかまいなしに号泣しながらしたいことを伝えた。
そのときコンサートには行ったことがなかったけどPerfumeも好きで、ああいうのに関わりたいって言った。
そしたらあれはライゾマティクスというクリエイティブ集団が演出を担当していることを教えてくれた。
先生も好きだったらしい。
なんなら真鍋さんという人がライゾマで有名な人なんだけど知り合いの知り合い?らしくて会ったことがあるという話も聞いた。
ライゾマも真鍋さんも知らなかった私は本当に何も知らずにイメージだけでやりたいやりたいを言っていた。
そこからその先生は学科内容と少しずれていても本当のことを話したほうがいいと言ってくれた。
嘘をついてもしは入れても、その学科は私のやりたいことをサポートはしてくれないしやりたいことはできないよと言われた。
嘘をついて入る意味はないと言われた。
でも九州工業は車で出してしまったのでもうそれは仕方なく車で押し切るしかない。
他のところは志望理由が必要なかったのでありのままを言おうと決めた。
九州工業は結局口頭試問の数学が全く解けなくて、そのあとの論理回路は完ぺきだったけどあーこれもう落ちたなと思いながら答えていた。
その後志望理由だったけどそれもそもそも嘘だしこれも落ちたわと答えていた。
そこそこレベルある大学だし受かったらラッキーだと思っていたけど、嘘をついて入った大学でやりたいことをやれないと言われていたのでどうせ受かってもという気持ちも半分あった。
まあ悩む前に落ちたので悩んでも無駄だった。
そして他に山口大と鹿児島大を受けた。
その時は素直に情報技術とエンタメが関わるようなことをしたいと言った。
山口大は「それはこの学科ではないよね、この学科でないといけない理由はなに?」と厳しく聞かれ、私なりに答えても「いやだから、それはここでなくてもできるよね?」って3回くらい言われた。普通に落ちた。
そして今通っている鹿児島大学だけど、鹿大も少しずれていたはずなのに「きみ面白いね!」と肯定してくれた。
福岡から日帰りできなかったので前泊したのだが、小さめのキャリーケースを持って面接室に入ったらドアにぶつけてしまい、入室一発目で笑いをとった。
いや、笑いをとる場所ではない。私は大真面目。
ってかなんでロッカーに入れていかなかった?
それでも「大丈夫?どこから来たの?」と優しい口調で聞かれて、「福岡です!お願いします!」とかなりゆるやかな雰囲気で面接が始まったのを覚えている。
面接が始まる前に前の子がロボットのように完璧に台本を読み上げているような面接が聞こえてきて、人間味はなかったけれど志望理由も返答も完璧に練習してきました!って感じで「自分はそこまで完璧に言えないかもしれない、また落ちたかもしれない」と思っていた。
まあ結局受かったということはこれでよかったんだと思う。
私の少しずれている志望理由も面白いとプラスにとってくれた先生が鹿大にはいたのだ。
正直その試験で初めて鹿児島という街はこんななのかーと観光気分で来ていたし、そこに受かるという実感もなかったので住むことになるとは思っていなかった。
ついでなので新幹線の時間を遅らせてまで桜島に行こうと一人スーツ姿でフェリーに乗った。
初めての桜島はよく晴れていたな。
鹿大に拾ってもらえなかったら9月にどっかに私立を受けてるか、本当に映像とかメディアとかの専門学校にでも行っていたのかもしれない。
それはそれでありだったかもしれないけど国公立に行きたいという一つの目標は叶うことはなかっただろう。
中学高校大学と受験を失敗した私が唯一合格した瞬間だった。
そんなこんなで6月には受験が終わり、3月末まで路頭に迷っていた浪人時代とは反対に学年で一番早く進路が決まった。
それでも当時はとても焦っていて短大というぬるま湯にいて国公立についていけるのか不安でしかたなかった。
編入試験前からだったけど短大でできることはしなければと思って、海外へ短期留学に行ったり、資格の勉強をしたりしていた。
編入試験を受ける前は編入試験のネタにするためにも、なにか短大時代にやってきましたって言えたほうがいいと思って、経験づくりをしなきゃという義務感でしていた部分もあったと思う。
結局アメリカへ3週間の短期留学に行ったが結局面接では一切話していない。
編入試験後もあと約1年ある短大生活のうちでやれることをしようとTOEIC、秘書検3級2級、MOSのWord、Excelなど学内の資格センターでやれるだけやっていた。
今思えばせっかくプログラミングを学んだのだからなにかサービスでも作ればよかったのにって思うけど短大は軽く文法をやったくらいでそれがサービスにどうつながるのかシステムがどう作られているのか全く知らなかったし想像もつかなかった。
編入前にもなにかアプリをつくってコンテストに応募して賞をとればネタになるよなんて簡単に言われていたけれどそもそもアプリがどう作られているのかわからないし、その一歩としてまずどうすればいいのかからわかっていなかった。
2年間情報を学んだのに何もできないという劣等感だけが残っていた。
劣等感と焦りの短大生活も2年間という短い期間であっという間に終わった。
短大卒業式の私がこちら。かわいい。袴が。
知らない街、鹿児島
4月からは鹿児島で一人暮らしを始めた。
といっても親が引っ越しを手伝ってくれる3月の土日は全部コンサートで埋まっており、4月に入ってから引っ越しをすることになった。
4月2日にオリエンテーションがあると聞いたので、3月31日と4月1日に東京であった推しの生誕祭の帰りに鹿児島へ飛んだ。
そのときは委員とかではなく個人的にアルバムを作って送った。
ケーキ頑張った。
あ、言い忘れていたが梅本さんのあとに推していた二人推しはまたもや私の編入試験1か月前に二人同時に卒業発表をした。
そのときもアルバム作った。
私は受験すると推しが卒業する呪いがかかっているのかもしれない。
ちなみにこのあとHKTの1stアルバムが発売され、また指原さんと撮った。6年ぶりくらい?
あ、制服着てますが余裕で卒業後。
このままバスに乗り会場まで行って帰ってきた。
同級生に会わないことを心から願った。
そしてその編入試験前にやめた推しの一人は舞台女優になりたいと東京の事務所へ入り、単独の生誕祭を開いたということである。
この後5月7月と舞台を見に行き金欠に頭を抱えることになることはまだ知らない。
話がそれたが、福岡から東京へ行き、その帰りに鹿児島へよって、引っ越しが終わってないのでそのまま日帰りで福岡に帰ろうとしていた。
そしたらその次の日もまたその次の日もオリエンテーションがあるよと言われ福岡に帰れなくなった。
家は契約していたので急いでカギを受け取りに行き、数万親に振り込んでもらって自転車を買った。
服も買った。
っていうかなにもないので布団も買いに行った。
中央駅前のイオンで布団を買い、抱きかかえたまま市電に乗って帰ってきた。
なかなかやばい。
結局引っ越し予定の日もつぶれたので入学式は行かずに引っ越し作業をしに福岡へ戻った。
編入生は入学式にはほとんど来ないらしい。
全然歓迎されてないうける。
ちなみに単位の振り替えの関係で3年次編入ではなく2年次編入となった私は浪人と合わせて2個下の人たちと同級生になった。
弟と同じだな。
鹿児島に引っ越してきて1年は本当に友達がいなかった。
思ったより”すでに友達の輪ができている”という感じではなかった。
いや、むしろみんな赤の他人な雰囲気さえ感じた。
逆にそれが友達を作りにくかったのかもしれない。
言い訳だけど。
塾と派遣で試食バイトをしていたが夏休みもほとんど頻度を増やさずそのバイトだけの予定だったので平日昼はずっと寝ていた。
鹿児島に友達はほぼいなかったけど福岡から遊びにきてくれる友達はいた。
完全に知らない街での、誰にも知られていない自分をある意味楽しんではいたし別にそれでいいと思っていた。
あ、ちなみにコンサートには行き続けており、月1で福岡に帰っていた。
福岡がやっぱり地元で落ち着くし、鹿児島は1年たっても”知らない街”だった。
動き始めた大学3年
鹿児島に来て1年、3年生になったころ、少しずつ生活が変わり始めた。
先輩が所属する研究室が開催するゼミに3年生も来てよいという先生からの案内があり、機械学習ゼミに参加することにした。
授業とは別で受けていたし全く勉強したことがない機械学習の本を予習してプレゼンまでする、ということで大変な部分もあったけど3人で回していたので1か月に1回回ってくる程度だったし、それで友達も増えた。一人だけ。
でも前もって質問を用意して打ち合わせするくらいには真面目にやってた。
for文やif文といった基礎の文法しか習っていなかった私のプログラムの世界が広がったゼミだった。
基礎の文法でもいろいろ組み合わせれば手書き文字認識の自動分類ができるのを知った。
私たちが普段使っている機能やツールは魔法じゃなかった。
人工知能、AIは魔法ではない。
そして学部で就職する気でいた私は夏休みにインターンに行こうとマイナビリクナビを漁りに漁った。
IT、エンタメ、ゲームなどのジャンルのインターンを全社見た。
東京と大阪と福岡くらいで、交通費出してくれるところ、宿泊費もあわよくばで調べていたので条件のいいところを探して、結局1か月間東京に滞在し6社のインターンに行った。
そのうち4社は数万の交通費をくれたので結局儲かったくらいあったと思う。
本当はもっと大手のゲーム会社に出したりもした。行けなかったが。
インターンへ行くために志望理由などはいっぱい書いたけど誰にも見てもらわなかったし、作品やアプリなどなにも見せるものがなかった。
それでもとってくれた会社に回ったわけだけど、”東京で働きたい”という夢を少し体験できて、これが東京で働くことなんだといういい経験になった。
就業内容としては機械学習系の研究職にも行ったので4月からのゼミ参加がとても役に立っていたし、大学の内容は仕事に直結するのだと学んだ。
プライベートでも1か月間に5個くらいアイドルのライブに行き、3つの舞台を見に行き、好きなゲームであるアナザーエデンのコラボカフェには9回行った。
このときも誕生日ボードを作った。
そして元HKT48の推しとも2ショット撮ったりした。
東京最高だな?
コンテンツが溢れすぎている。
ネットが普及して地方にも問題なく情報は届くくらいにはなっているが、やはり現場の数が桁違いの東京はやはり芸能の中心だった。
東京に行きたいという気持ちと地方にもそのようなコンテンツに触れる機会がもっと増えてほしいなと思った。
そしてちょうど夏休み頃、それまで1つも入ってなかったサークルに2つ入った。
一つはエンジニアコミュニティで出会った人の紹介で入った。
6月ごろインターンの申し込みをするなかでWebサイトを作ってみたり、エンジニアコミュニティに参加したりと少しずつ自分のできることをしようと思っていた。
そのコミュニティから知り合いの輪が広がってサークルにも入ったし、単純に鹿児島に知り合いが増えた。
そこからエンジニアコミュニティは月1で開催され、ほぼ毎回参加するようになり、飲み友達もいなかった私の定期的な飲み会の場にもなった。
当時の私には衝撃的だったKADAI INFOとの出会い
エンジニアコミュニティに通い始め、インターンから帰ってきたころ、KADAI INFOという現役鹿大生が運営する学生団体のエンジニア部の人手が足りないという話が同級生から回ってきて同じ情報学科数名で見学に行った。
KADAI INFOはエンジニア部だけでなく、編集部、営業部、デザイン部、動画部と5つの部にわかれ、それぞれにメンバーが所属していた。
今までそういう会社のような組織の一員になったことはなかったので、大学生という立場にありながら、Webサイトを運営して記事を書き、外部からの広告や記事依頼の仕事を受け、各メディアに出演しているKADAI INFOは衝撃だった。
そういうことは就職してから経験するものと勝手に思っていたし、大学生の時点でそれが経験できるのではあれば社会勉強にもなるし、就職するより前に自分の適性を考えられるチャンスだと思った。
あと単純に友達ができると思った。
同じ学科でも友達がほぼいなかった私は先輩の知り合いも少なく、編入の生で共通教育を半分くらい受けていないものもあり他学科の友達など皆無だった。
自分が入ってから何をするのか、エンジニア部に入って何ができるのかは正直あまり想像がついていなかった。
でもメリットのほうが大きいしまたもややってみたい精神が働き、面接を受けて合格連絡がきたので後期の始まる10月ごろにKADAI INFOの一員となった。
内部ではINFO、INFOというので以下INFOと書く。
入ってからすぐに私専用のメンターがついて新人教育をしてくれた。
同学年の編入生の女の子というとても状況の近いメンバーがメンターとなりさっそく友達が一人増えた。
新人研修の資料もしっかり作られていてINFOの歴史や目的などを説明してもらった。
見学でも一通り説明されていたけれど、より詳しく聞くことができた。
そして各ツールの登録も新人研修で教えてもらった。
SlackやGoogleドライブ、Googleドキュメント、Wordpressなど今となっては当たり前に使っているツールであり、INFOの仕事には欠かせないものだったが、入った当時はほとんど知らなかった。
Slackはエンジニアコミュニティで登録をして携帯にも入れていたが、毎日活発に動いているというわけではなかったし、使いこなしているわけではなかった。
これを読んでいる人にも知らない人がいるかもしれないが、Slackというのは携帯アプリやWebブラウザでも使えるチャットツールである。
LINEだと一つグループを作るとトーク画面が一つだが、Slackでは一つのグループにいくつもトークスペースをたてることができる。
定例ミーティングに関することを話すチャンネル、エンジニア部のことを話すチャンネル、Twitterのことを話すチャンネルなど話題ごとにトークルームがわかれていてとてもわかりやすい。
半年以上使ってみて思うのはSlackに慣れるとLINEが不便、というか少しいらいらする。笑
SlackはTwitterのリプのように一つの発言に派生して会話できるので会話が流れにくいのも利点だし、いいねのようにその発言にスタンプが押せる。
LINEのスタンプはクリエイターズスタンプとかもあるので嫌いではないが会話が流れるし画面に大きく出すぎるので少し勇気がいる。
話がそれたが、Slackが便利だと気付いたのはINFOのおかげだった。
その後、他のサークルやバイト先でもSlackを使うことになるがINFOのおかげで何の問題もなく使い始めることができた。
あ、ちなみにグループごとに名前やアイコンを変えることができるのもSlackのいい点である。
LINEはその点統一されているので、ネットでも生きていた私は非常に本名にしにくい。
そしてGoogleドキュメントも今は当たり前のように使っているがその時は知らなかった。
ミーティングに見学に行ったとき、みんながパソコンで同じシートを見て同時編集していて画面に勝手に文字が打たれているのを見て「え!?きもちわる!?」って思った記憶がある。「なんだそれ!?」って。
これも知らない人もいるかもしれないがすごく簡単に言うとWordファイルをブラウザでみんなで共有して同時に編集できるものである。
ミーティングの書記となった人がリアルタイムで議事録を書き、それをおのおのがパソコンを開いて確認しながらミーティングを進めていた。
そもそも”ミーティング”と呼ばれるようなものに参加する経験もなかったのでなんかすげえ、しかもこれ大学生だけでしてるんかすげえ、となっていた。
そんな私がエンジニア部という技術部門に入って大丈夫なのかという不安は大きかった。
しかもエンジニア部の先輩にはほとんど会えておらず、しかも今年で卒業、12月でメンバーが退部になるINFOではもう退部間近だった。
そんな中、私の最初の仕事は12月に毎年行われるINFOの一大イベント、美男美女の個人ページに毎日写真を2枚追加するという仕事だった。
鹿大にはミスコンがない。
かわりにINFOが企画し、候補者を募り、各候補者のWEBページを作り公開することでそのPV数を競ってミスコンのようなものをしていた。
今年からはINFOのアプリも出ていたので鹿大生はアプリからログインし、投票することもできたため、その総数での順位決めとなった。
12月のはじめに男女24人ずつ全員の個人ページが公開されるが、毎日男女一人ずつ、一人2枚の写真を追加することで継続的なサイトへのアクセスを狙っていた。
それに合わせてTwitterでの告知もし、全員を紹介していた。
その2枚追加するという仕事が私の担当だった。
そもそもKADAI INFOの誘いがくるまで、INFOの存在を申し訳ないが全く知らず、美男美女なる一大企画が鹿大にあることを知らなかったので、美男美女のサイトを初めてそのときに見た。
「このサイトに画像追加してって言っただけでできる?」と軽く聞かれ、「た、たぶん、、、」となんの自信もない返事をしたのを覚えている。
Wordpressでできているページだったが、そもそもWordpressに触れたことがなかった。
そのサイトがどこに書かれているのかというところからで、HTMLを見てここにimageタグを加えれば追加できそうというのを探し、埋め込んだら埋め込んだらで全体のデザインが崩れて修正するということを繰り返し、スムーズではなかったがなんとか初仕事をこなすことができた。
今考えるとエンジニア的には大したことやってないし、そのときも難しくないから大丈夫!と言われていた。
でも初めて外に出るコンテンツに触れさせてもらえたし、写真を追加するだけだったけどそれを見てくれる人がいるというのも嬉しかった。
ステップアップの最初の一つ目としてはよかったと思う。
その時はINFOのミーティングにも毎週参加していたがINFOとして他になんの仕事があるのか全く把握できておらず、毎回なんの話してるんだろとさえ思っていた。
毎週ミーティングに行くたびに新しい聞いたことがない話が出てきていた気がする。
意見を出す前に「それはなんですか」という感じだった。
年末まではそんな感じだった。
右も左もわからない3か月目で幹部就任
って書くとなんかすごいことをしているみたいだけど、12月で先輩が引退した年明けのエンジニア部には、次期代表の先輩と、同時期に入った同級生含め3人しかいなかった。
INFOに入って約3か月の二人がエンジニア長と副エンジニア長に就任し、今まで参加していた全体ミーティングとは別に幹部ミーティングに参加することになった。
先ほども書いたがまだこのときも各部が何をしているのか把握できているわけでもなく、幹部とはなんなのかも完全に理解しているわけでもなく、副エンジニア長とかいう立派そうな名前の役についたがエンジニア部が1年を通してなにをしているのか理解しているわけでもなかった。
そのときエンジニア部としては、Androidアプリをリリースすることを目標にしていた。
美男美女企画で使っていたアプリというのはiPhoneアプリだけで、Androidアプリの開発に時間がかかりリリースができていなかった。
私のパソコンがWindowsだったことからAndroid開発チームに入ることになった。
ちなみにそのときに同学科の先輩が二人エンジニア部に入り、エンジニア部は5人になった。
結論から言うと私はAndroidアプリはほとんど関わらずにリリースまでの開発が終わり、無事公開された。
なにがあった、間とばしすぎでは?って感じだと思うが、私の体感もそんな感じだったのでだいたいあっている。
もちろんしようとはした。
本も借りてサイトをいろいろ見て、自分のパソコンに環境構築してみたが、HelloWorldですでに重くてパソコン内で起動した仮想画面がほとんど動かず、使い物にならなかった。
そのころ、研究室にも配属され研究室のパソコンも使えたのでそっちでも環境構築して動かそうとしたが自分のパソコンよりも重くてそもそも立ち上がらなかった。
あーこれは新しいパソコンでも買わないと無理だなと試行錯誤しているうちに後期テスト期間に差し掛かり、できないできないとなっている間にアプリはできていた。
もちろん先輩はいろいろとアドバイスはくれたし、こういうつくりにしようという打ち合わせもいろいろしていた。
結果的には個人的にはあまりうまくいかなかったけど自分のパソコンじゃ限界があることはわかったし、AndroidStudioで作るっていうのも知らなかったくらいなのでこうすればできるんだなみたいなほんとにざっくりとしたイメージには触れることができた。
私は私なりになにかできることはないかなとは考えていて、リリースとほぼ同時期に「さくらじまハウス」というエンジニアの技術カンファレンスに参加し、LT枠で登壇してINFOのエンジニア部の取り組みについて紹介した。
それはエンジニア部のテックブログに書いたので詳しくはこちらをご覧いただきたい。
LTというのは5分程度のプレゼンのことである。
技術カンファレンス自体は県内外問わず多くのゲストが1時間半ほどのセッションで対談をしたり技術を紹介したりというもので、その1つのセッションとしてLTセッションが設けられていた。
LTセッションは1時間くらい枠があったが一人5分の約10人が次々に発表するというものだった。
東京の現役エンジニアの人もいれば鹿児島のエンジニア、エンジニアへの転職を目指す人、同じく大学生という立場の人もいた。
約100人のエンジニアの前で話すのはとても緊張した。
そしてこれは言い訳なんだけどその日が期末テストの最終日で準備期間とテスト週間がもろ被り、2,3日前からバタバタで作っていた記憶がある。
INFOの先輩にもチェックしてたくさんアドバイスをもらって、半年前まで先輩の知り合いも少なくアドバイスをもらうこともそうそうなかったので先輩のありがたみを感じていた。
ちなみにその会場となったmarkMEIZANはそのようなエンジニアやデザイナーなど産業創出に関わるセミナーを開催したり、コワーキングスペースを提供している施設で、さくらじまハウスが開催された2月からバイトを始めることになった。
それまでしていた試食バイトはだらだら続けていたがこのタイミングでやめることにした。
時間拘束が長く、時間外労働も多かったので不満もあったが、知らない街だった鹿児島の各地へ行くことができし、各会社が売り出したいポイントとか、消費者の行動とかが見えて割と楽しかった。
試食なんて9割断られるとか無視なので心折れそうなときもあったけど人間観察するには飽きない職場だったのでわりと楽しんでいた。
そんなことはまあいい。
さくらじまハウスの運営をしていたり、登壇していたりする鹿児島の方がmark MEIZANの運営スタッフでもあったのでそこでバイトを始めることで鹿児島のエンジニア事情とかデザイナー事情とかを身近で聞くことができるようになった。
逆に大学生ということに興味を持ってくれて、今の大学はどんな感じなのかとか情報を学ぶ学生としてもどういうことをしているのかとか聞いてくれて雑談に近いような話もした。
いや、現在進行形なのでしている。
そのころから少しずつ視野が広がり始めたと思う。
まだ4ヶ月前のことだ。
ちなみにそれもアプリ開発サークルの先輩に紹介してもらったのだが、そのアプリ開発サークルを紹介してくれた先輩はエンジニアコミュニティで出会っているので本当にエンジニアコミュニティが鹿児島で知り合いが増えたおおもとのきっかけだったと思う。
INFOのほうも毎週幹部ミーティングにも参加して少しずつINFOが全体としてなんの仕事があるのかわかってきた時期だったように思う。
3月になるにはこれまたINFOの代表コンテンツであるサークルINFOの更新をすることになった。
鹿大のサークルを検索できるサークル一覧ページで、それを今年分の情報を集めて更新する作業だった。
鹿大には文化祭きっかけで各サークルの長が参加しているLINEがあるらしい。
そこでまずは情報更新をお願いし、その情報と写真が集まり次第、Wordpressのページを今年版に更新した。
そのときに使ったのがGAS(Google Apps Script)だった。
またもやエンジニア部のくせにGASを知らず、サイトが作られるまでにどういう作業が必要だったのか何も知らなかった。
ちなみに毎月参加していたエンジニアコミュニティが1週間前に開催されていたが、この月は大森靖子ちゃんという私が好きなシンガーソングライターの47都道府県ツアー鹿児島開催の日であり、参加できていなかった。
そしてそのときの内容がGASのハンズオン講座だった。
なんというニアミス。
その時に思ったのだがGitハンズオンをやったときもその翌週くらいからAndroidアプリ開発でGitを使うことになって個人的にはとてもナイスタイミングだった。
結局Android開発をフェードアウトしたので使いこなすまでにならなかったが。
サークルINFOはGASを使っていることを知り、調べ、アンケートからサイトができるまでの流れをつかんでからはこのコンテンツがよりよくなるためにはどうすればいいかを考えるようになった。
情報を集めるのはほかのメンバーがやってくれてもサイトには「このページを書いた人」として私の名前が載るのがわかっていたので変なのを出したくないという気持ちもあった。
誤字脱字チェックをしたり、回答者によって異なる言い回しを揃えたりした。
もちろん回答者本人のテンションはできるだけ変えずに。
そして、文化祭に参加していないサークルには連絡がいっていないようだったので去年の連絡先から連絡が行ってないサークルへ一斉メールをすることにした。
それから3か月、各サークルとのメールのやりとりに追われることになる。
LINEとメール合わせて100件以上のサークルとのやり取りをし、約半分をメールで担当した。
そもそもサークルに入るタイミングを逃し1年半どこのサークルにも所属していなかった私は、なんのサークルがあるかも全く知らなかった。
みんなが知ってるようなサークルだったり、大学生同士の会話によくあるような「あのサークルは飲みサーらしい」とかいうサークルも何も知らなかった。
そんな日常会話をする人もいなかったので。
鹿大のサークル数十件とメールのやりとりをし、約百件のサークル情報のサイトを作って誤字脱字をチェックしてたら鹿大生として平均以上にサークルに詳しくなった気がする。
いや、それだけしてればかなり詳しくなったはずだ。当たり前だ。
去年は意見を出す前になにをしているかわからなかったと書いたが、このころにはこのコンテンツをよくするにはもっとこうしたほうがいいという自分の意見が言えるようになっていた。
むしろ主張がうるさかったかもしれない。ごめん。
「更新したサークルにはちゃんと更新しましたってお知らせメールを送ったほうがいい」
コロナ影響で新歓の予定が変更しまくる年でもあったので「更新したサークルにも再度最新情報の提供をお願いしたほうがいい」
「更新されてもどこにも通知されていなかったのでTwitterで一個ずつ紹介したほうがいい」
と自分が気づいたところはいろいろ意見出していた。
というか自分が全部するのでやらせてください、というスタンスだった。
このスタンスで2か月INFOを続けた結果、手が回らなくなり始めてるのでよくない。
でも浪人時代の何も予定がない絶望を経験しているので、だれからも必要とされないくらいなら毎日休みなく忙しいくらいのほうが幸せだと思っていた。
でもそれが「手が回らない、自分の首を絞め始めてるのか?」と気づくのに2か月かかったし、このころはまだ「絶対これもやったほうがいいでしょ」というただの意見主張強いマンだった気がする。
そう思われていたかそうでもなかったかはわからないが、そう捉えられてもしかたないだろうなと思いながら発言していた。
INFOの先輩に「せりちゃんの言いたいことはエンジニア部とか立場の近い人には伝わるかもしれないけど、文系の子など分野が違う人にはその言い方じゃ伝わらないよ」と言われたこともあったのでやっぱり強めで言っていたんだと思う。自覚あり。
ほんとに言いたいことを自由に言っていた。
この頃はとか書いているがたった3ヶ月前の話である。
1か月で終わると思っていたサークル紹介の更新はコロナでサークル自体ができなくなったのもあり、結局6月頭まで続いた。
長かった。
デザイン部への突然の人事異動
サークル紹介に追われている中、実はINFOのYoutubeチャンネルのアイコンとヘッダーを新しくしたいということでそのデザインを頼まれていた。
所属された研究室でも年報の表紙をデザインして短大卒業ぶりにAdobeソフトに触れた。
雑誌風の研究室年報。
結局Illustratorしか使わなかったが、それも短大時代に使っていたからこそ使いかたはわかっていたものでまるまる2年間遠のいていたが大した作品も作れなかったあの頃の経験も無駄じゃなかったんだなと思った。
年報は今年の研究室の雰囲気を出したくて、先輩の机の上にある特徴的なものをピックアップして線画を書いた。
短大時代にほんとに落書き程度の大したものを作れなかった私にしてはわりと形になったなと自画自賛していた。
先輩や先生にも好評だったので嬉しかった。
研究室は4月の正式配属前だったのに研究室の年報表紙なんていう重大なところを任せてもらえるチャンスがあって、それをわりと納得のいくレベルでできた。
そもそも表紙は毎年卒業式の写真一面どーんでだれかデザインというほどにしていたわけでもなかった。
あまりやりたい人もいなかったようだった。
周りは「せりなやるの!?」という感じだったらしいが、私にとっては間違いなくその後のINFOの活動なり、これからしたいことを考えるきっかけにはなっていた。
Youtubeのアイコンはごちゃごちゃしているものがいいというリクエストのもと、サイトに載っているKADAI INFOのカラフルなロゴとは全く別物を作った。
これは公開されているものなので貼っておこう。
ほんとは元ネタ、というかイメージを伝えられたものがあるんだけどまあ伏せておこう。
わかる人にはわかるかもしれない。
あまり絵をかくのもうまくはないので、しろくまのかきごおりとかわりとそれっぽくできて自分が一番テンション上がってた。
研究室のパソコンで研究をするわけでもなくIllustratorとにらめっこして、できたできた!と研究室の同級生と先輩にテンション高めに報告していた。
研究進めろ?
そして5月になった頃、3月でデザイン長が辞めて空白になっていたその席を私が務めることになった。
デザイン部でもないのにいきなり長。
しかも「やってみる?どうかな?」というよりも「今日からお願いします。ぜひ。」という感じだった。
もちろん断ろうと思えば断れたと思うし、やりたくなければエンジニア部にそのままいることもできたと思う。
だけどそのときはデザインに興味が出始めていたのは本当だったし、これはつけたしだけどエンジニア部はアプリ開発から抜けている状態で他のできることをしている状態だったので、ストレートに言えばエンジニア部としては中途半端になっていたと思う。
私がやりたいことはエンジニアなのか?とも少し思い始めていた。
サークルINFOは続けていたし、それとはまた別でイベント企画関連で大きな仕事が来てプロジェクトリーダーなんかも任されていた。
それはエンジニア関係ないけど。
デザイン部の長が抜けている状態が1か月続いているのは事実だったし、その上で私がいいのではないかと決めてくれたんだろうと思うので引き受けることにした。
もちろん情報学科でデザイン専攻でもないので専門というわけではないし、絵が得意なわけでもない。
別にデザインをする人がみな絵がうまくなければいけないわけではないが、描けるに越したことはない。
デザイン部に異動です!しかも長です!と言われても何をしていいかわからないしデザイン部の人との交流もほとんどなかったので一人ずつ挨拶もかねてデザイン部が何をしているかあなたは何をしたいのか聞き取りすることにした。
長としてみんながしたいことはサポートするべきだと思ったし、それをINFO全体に言う必要があるなら私の役目だとも思った。
一週目はそれをして、正直言うと体制が整っていないように見えた。
今までの作品が見れるところがないようだったのでこれからはデザイン部の作品が見れる場所を作りたいと思っている。
いわゆるポートフォリオサイト。
正直デザイン部の活動は今は外からでは見えにくくなっていると思う。
そもそもガツガツ外に出したいわけではなかったのかもしれないけれど、私は出せるものは出したほうがいいと思ったのでみんなにそれを伝えていま作る方向で動いている。
現状は今までの作品もバラバラにあるようなので集めるところをしている。
もう少しかかりそうだが、近日公開予定ということで。
そして今デザイン部がメインで動いているのはフリーペーパーの作成である。
ちょうど1年前から第1弾、第2弾とデザイン部はフリーペーパーを2冊出している。
デザイン部がメインとなって企画、編集、デザインを行い、鹿大生またはオープンキャンパスに来た高校生に配っている。
もちろんすべて学生のみで制作している。
第1弾に関してはINFOにはまだいなかったし、第2弾も関わっていなかったので出来上がったものをもらって初めて知った。
前回までのフリーペーパーに関わってすらなかった私が今回はデザイン長としてフリーペーパーの全体をまとめる役になった。
markMEIZANの人と話してて知ったけどそういうのディレクションっていうんですかね?
すみません、まだまだ経験不足なことも多くそういうレベルですが、企画してだいたいは内容が決まったので今週来週中に各ページの現役鹿大生向けのアンケートを実施し、その内容をもとに紙面をつくっていく予定です。
アンケートはTwitterにも貼ると思うのでぜひ鹿大生が見ていたらご協力を。
そして今回は企業様の広告も載せたいと考えています。
(いきなり営業か?え?はい、そうです)
今回の第3弾は毎年8月に開催される鹿大のオープンキャンパスで、来場した高校生への配布を予定しています。
他にも鹿大の中に置いたり、markMEIZANのギャラリー展示なんかもできたらなと思っています。
第2弾は学プラや図書館へ置かれている(いまから置かれる?)ので見つけた方はぜひ。
今回のフリーペーパーに広告を出してくださる企業様いましたらぜひご連絡ください。
大中小と大きめ広告からお手頃価格まで用意してますのでお気軽にお問合せいただければと思います。
TwitterでもINFO公式HPの問い合わせでも。
まあ営業はこのくらいにしておこう。
自分のやり方とは?
フリーペーパーもだし、先ほどちらっと書いたイベント関連のプロジェクトリーダーもだけど、他の学部の人や年も3,4つ下?の人とも一緒に仕事をすることが増え、伝え方にはより気を付けなければならないなと意識しはじめた。
言いたいことをがんがん強めに言ってた時代と同じことをしていてはいけないなと、相手の意見を聞き、それは尊重したうえで自分の意見も出すということを頑張ろうと思っている。
今年の目標、謙虚な気持ち。俯瞰的な視線。
自分は自分のやり方があるしと思っていたけれどそれが周りにうまくいっていないのであればその回に関しては意味がない。
毎回やってみてなんか違うなと思って自分のやり方を修正し続けてるのだと思う。
一回謙虚になろうというのが今のステップで、また違うと思ったらまた少しずつ戻ることもこの先あるかもしれない。
謙虚に言っても意見を言えない人は一定数いるし、意見は言えという環境にいたことが多かったので言わないより言ったほうがいいだろうっていう根本の考えがあった。
一番強くそう感じたのは短大時代の2回の短期留学だと思う。
時系列順に書いてきたこの記事が一回時系列が戻るが、今になって思うことなのでこのタイミングでもう一回振り返る。
アメリカとフィリピンに3週間ずつ短期留学に行ったが、どちらとも”私の意見”というのをどこに言っても求められた。
何を決めるにも”セリナはどうしたい?""セリナはどう思う?""なぜそう思う?"というのを違和感を感じるくらい聞かれた。
そういう文化なんだと理解した。
アメリカでは姉妹校の大学、フィリピンでは語学学校で授業を受けていて、語学研修なのでもちろん英語なのだが、英語で意見を伝える前に自分に意見がないことを思い知らされた。
日本とはどういうところなのか?それに対してどう思うのか?なぜそう思うのか?
海外に行くとそういうことを伝える場面は必ず出てくる。
3週間もいて多くの人と出会えば1回どころではない。
君の学校はどういうところなのか?楽しいか?どういうところがなぜ楽しいか?
とりあえずめちゃくちゃ私のことを知ろうとしてくる。
私が知っている以上に知ろうとしてくる。
別に私だけに興味があるわけではないんだと思う。
文化としてそういう国だ。
この国では意見がないやつは人権がなくなるとさえ思った。
日本のことを知っておかなければアメリカのことも聞けないし、日本のことを普段生活している以上に知り、渡航する前に準備していかなくてはならないというのはすでに海外に6回行った経験から知っていた。
それで日本の国のことはある程度こらえられても授業内容として社会問題の討論を扱うことも多く、しばしば意見を求められた。
覚えているのは「核家族についてどう思うか?」とか「薬物についてどう思うか?」とか単なる英語の授業ではなく、まじめな社会問題の解決策会議みたいなものが英語で始まったりしていた。
普段まじめに考えたことがあるわけでもないものに関しては「いいと思う」「だめだと思う」くらいしか意見が出てこない。
短大時代の視野と意識と英語力ではそれが限界で、「いいと思う」と答えても「なぜ?」と絶対に返ってきて、30秒くらい考えて「こう思うから」と簡単に答えても「僕の考えはこうだがこれは違うか?どう思う?」とまた意見を求められる。
今思えば議論をしたかったのだろうし、それでいいのかもしれないけれど、そのたびに「私はどう思うんだ??」と脳内を検索しまくるもヒットせず、考える癖がないことを思い知ったのである。
自分の意見ははっきり主張しなければ生きていけない国での経験があってから、より強く自分には意見があるかと日頃から考えるようになり、ちゃんとある場合には主張するようになったんだと思う。
でも日本では曖昧にする表現やそれこそ謙虚な気持ちというのが美とされ、意見の強い主張は逆効果な場合もある。
結局相手のやり方というのもあるのだろうし、難しいなと思い始め、一周して謙虚な気持ちを大切にしようというところに戻ってきた。
もちろん意見が言える人が重宝されることは日本でも多くの場面であるし、仕事をする上ではよりそうなのかもしれない。
まだ正解がわかっていないがいろいろ試して修正してをこれからも繰り返していくのだと思う。
でもぶんけいさんのいうように私が主張した意見をめんどくさがって「じゃあAでいいですよ」と流れるのは危険であると思う。私が意見を主張しているときはどうしても押し通したいのではなくBたる理由を強く説明してほしいだけである。
ぶんけいさんがそう書いていて、とてもわかる。となった。
私はさらに伝え方が悪いのかもしれないが。
と、いろんなことを考えていたがフィリピンは海もきれいで最高だった。
テンション上がって自撮りなんかしちゃったりして。
いましたいこと
最近はINFOの仕事や研究、バイトなどが少しずつ忙しくなり、”なんかいろいろ活動してる人”と認識してくれる人も出てくるようになった。
でもこれを読めばわかるようにそうなったのはここ1年、いや1年もないくらいである。
INFOのおかげで少しずつ視野が広くなったり、考えることもあったり、将来何がしたいのか前より具体的に考えられるようになった。
それもここ半年くらいである。
年始めはわりと何もわかってなかった。
ちょうど大学でも研究テーマを考えるタイミングとなり、将来のことも考えるタイミングとなり、今何がしたいか考える上で思うのは個人で挑戦できる時代をもっと利用すべきだなということである。
ぶんけいさんも言っていたが、SNSの普及やYoutubeの浸透でだれでも個人の活動をアピールするチャンスができる時代になっていると思う。
歌手になりたいなら自分の歌をどこかにアップしたらもしかしたらファンがついて有名になるかもしれないし、映画監督になりたいならまずは自分で撮ってみて世の中に公開することもできる時代だ。
ネットはこのようなテキストで伝えると情報量が減って誤解されることもあるし、匿名性を悪い方向に使ってしまう人もいるが、そもそもは離れた場所に住む人同士をつなぐとても便利なものであり、それは1対1に限らず1対多数の場合もある。
ぶんけいさんがいうように効率よく多くの人と交流できる場にもなりうる。
誰にでもチャンスあるということはまだ若い世代と言われる私たちでさえ平等にアピールチャンスがあり、挑戦できる場があるということである。
(24歳という大人な数字を見ていつまで若い世代と言われるのかすでに不安になっているが)
そう考えるとまだまだやりたいことやれることがいっぱいある。
最近はぶんけいさんも含めYoutubeにもはまってて、私もやりたいなあという気持ちもある。
一旦INFO仕事や研究を落ち着かせないとできない気はしているが。
それが言い訳にならないよう、少しずつ挑戦できる場を手に入れたい。
まずはピントが壊れているiPhoneSE第一世代を新しいのに変えるところからかなと思っている。
カメラもないし、iPhone11とかでYoutube撮ってる人も多いと聞くのでとりあえずそれでいいのかなと思っている。素人目。
あとはパソコンは動画編集ぎりぎりな気がするのでそれもどうにかしたい。
なんか最近のMacbookはいいと聞くがどうなんだろうか?
そもそもWindows勢だったのでMacのほうがいいのか?という話からだが。
情報学科だけどパソコンのスペックとかにはたいして詳しいわけではないのでだれか教えてほしい。
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動画編集だけじゃなくてプログラムも書きたいしデザインソフトも使いたいや。
やりたいことが渋滞してるな。
最近はそうやってわりと幅広く経験してプロジェクトリーダーもしていて、企画を考えるほうもいいのでは?と思い始めた。
プログラム書くとかデザインを実際にソフトでするとかも楽しいんだけど企画側ディレクション側もやりがいを感じているのでそういう道もありなのかもしれない。
まだ迷いのさなかではあるが。
幸いそれを一回経験できる環境にいるのでとりあえずやってみようと思う。
研究テーマも決めなければいけないが、やはり情報技術とエンタメが交わるようなことをしたいと思う。
単語にすればインタラクティブなものということなんだろうか、デジタルアートなのか3次元が絡んでいるものなんだろうなとどうにかこうにか私の中にあるイメージを言語化しようとしている。
一昨日チームラボのインターン説明会をオンラインで受け、「私が言いたいのはこういうことだ」となる部分がたくさんあった。
チームラボ コンセプトと調べたら私の言語化されていないイメージが言語化されてそこにあってやっぱりこういうことがしたいなあと改めて感じた。
情報学科内にいるとイメージが伝わらないことも多いがやはりデジタル技術は人間のアートを変え、関係性を変え、生活を変えるものであると思う。
作品は見るだけでなく感じることができるものになり、鑑賞者は作品に参加できるようになる。
参加することで作品の中に自分の存在を感じ、他者の存在をも感じる。
それが私のイメージだったのだが、ほぼそのまま書いてあった。
とても素敵なコンセプトである。
ぶんけいさんのジレンマと私のジレンマ
ここまで自分の人生を振り返ってきた。
もうちょっとぶんけいさんの本の内容にも絡む形で書こうとしていたのが、あまり思い通りにはいかなかったな。
生まれたころから24歳になるまでのいろんなエピソード書いて話があっちこっちだったかもしれないが、全部今の私を作っている経験だと思う。
こんだけ私のことを知れば、間違いなく私のことを一番知っているのはあなたです。
おめでとう。笑
大学での私だけを知っている人もいればヲタクな私だけを知ってる人もいる。
時期によっては孤独な私を知ってる人もいれば活動的な私も知ってる人もいる。
全部私なんだけどその一部だけを見てこういう人なんだと言ってくる人が最近多い気がしてなんかもやもやすることもあるけど、こういう人なんだってカテゴライズする必要なんてそもそもないんだろうな。
ぶんけいさんもそういういろんな面をもつ自分に対してそれをとる側の印象はまた違ったりということを本のタイトルにもなっているジレンマとあらわしているのだと捉えた。
私はほかのだれでもなく、せりなとして存在していて、せりなとしてみてほしいなあなんて思ったり。
でもぶんけいさんの本を読んでわりと同じ種類の人間かもなあなんて思ったりもするんだけどね。
私もそうだなあわかるなあと共感したものとして、人が好き、というか人に興味があるというのが根本にあって、言いたいことをわりと言ってきたことだったり、でもそれは突き通したいのではなく相手の意見の理由が聞きたいだけだったり、クラスの中でもわりとだれとでも仲良くしていた幅広い立場にいたり、立命館大学の映像学部を受けていたり、なんかいろいろ近いものを感じてしまった。
そして最近の私はやるべきことがいっぱいで夜遅くまで研究室に入り浸り、作業をしていることが多いのだが、パフォーマンスはやはり落ちるし、周りとのコミュニケーション時間がずれていく。
同じことをぶんけいさんも書いていて、ぶんけいさんのいうように「今日はここまで」と決めることは大事だなと。
130万人も登録者がいてこれだけいろいろと挑戦しているぶんけいさんと同じ部類というとなんかおこがましい気がしてしまうけれど、種類として遠くはない立場にいると思っていて、でも私なんかよりもっと広く世界が見えているし何歩も先を歩いているような印象を受けた。
自分の人生を振り返っても、中学よりは高校、高校より短大、短大より鹿大にきて、サークル入る前より入った後とどんどん視野は広くなっていると思うし、考えられる想像できるものが多くなってきたと思う。
だけどぶんけいさんはその何歩も先にいるイメージ。
Youtuber対談コーナーが本の中にもあったがクリエイティブを語る人としてYoutuberはかなりキラキラして見える。
もちろんその裏には大変なこともあったと思うし、全員が全員成功するわけでもないだろう。
でもそれに挑戦し、新しいことをし続けようとしている人たちはとてもかっこよくみえる。
結局ここまでの人生を振り返ってわりと私も昔からクリエイティブなことをしていたのではないか?と思い始めたし、これからもなにかを生み出していく人でありたいと思う。
実は去年東京へインターンへ行き、内定をもらった会社もあった。
でもメーカーの研究職であったことから向こうの社員さんからもせりなさんがやりたそうなクリエイティブな仕事とは少し違うがいいか?と心配され、結局辞退し、大学院に進むことにした。
ぶんけいさんは大学をやめるという選択をしていたが私はむしろ院へ行く選択をした。
研究テーマがまだ決まっていない状態でもあるので研究がもっとしたい!というよりはもっと自分のやりたいことを考えたいという気持ちが大きかった。
現在大学4年生であり、浪人と2年次編入で2個下がっている私は、すでに社会人として働いている同級生も多い。
すでに社会に出るのが遅れているという認識がないこともない。
院まで行ったら26歳だしね。
いつまで悩んでいるのだろうか。
将来何になりたいの?と小さい頃はよく聞かれるのはあるあるだと思うが、小さい頃は選択肢を知らな過ぎたしそれが実際にどういう仕事なのかを知ることが少なく、想像が全く及んでいなかったと思う。
情報学科に入ってエンジニアですかね~と言っていたのは半分思考停止で答えていたものだったし、この学科の人はこうなるんだって先生が言っていたから私もそうなるのだと思っていた。
もちろん本当にエンジニアになっているかもしれない。
だけどそうやって先生の言うことを聞くのは必ずしも正解ではないし、その結果24にもなって本当は何がしたいんだろうかと悩んでいる。
いま思えばその思考停止期間が長かった。
今は塾の先生をしていて小中学生という未来ある世代と関わることも多いが好きなことは思い切りすればいいと思うし、大人にならないとできないではなくできることからやってみればいいのだと思う。
結局それに勉強が必要だと思えば勉強を頑張る理由にもなると思うし、小中学生とは違い今の勉強が何につながるのか少しずつわかりはじめた大学生からのメッセージがどのくらい伝わっているのだろうか。
「中学校の時の塾の先生がそう言ってくれたからこれをしようと思った」なんて思い返すと後押しになったのは私だったなくらいなれば私はとても嬉しい。
そういう先生スイッチが入っているときはなおさらだと思うが、振り返ると普段からわりとなんでもできる人だと思われることが多かったように思う。
確かに自分で言うのもなんだが周りより飲み込みが早いことは多かったし器用な人間だったとは思う。
だけどそのハードルが高いと苦手なことがあるときにすぐ落胆される。
弱点を見せてはいけないという気にすらなる。
ぶんけいさんの本にもぶんけいさんが苦手なものに挑戦というコーナーがあるが、基本的に私も家事全般は苦手である。
掃除、洗濯、料理は苦手だなあとまず気持ちが下がってしまうし、テンション上がって今日は頑張ってみよう!と思っても思い通りにいかないことが多い。
そのできそうにみえてできないのに落胆するのではなく「抜け感」としてみてほしいというような文章が書いてあり、それもとてもわかる。となった。
完璧な人より抜けてる人のほうが親近感湧くものでしょ?
そのくらいゆるい人くらいで思ってくれたほうが私が楽だ。
なんでもできるお姉さんくらいでとらえられてると結構きつい。
最近は最初から期待度高めの人とそういうのをわかってくれている友達との差がすごい。笑
「なんでもできるよね!くらいな人」と「結構なんもできないよね笑」くらいある。
私の苦手も抜け感ということで以後捉えてくださるとうれしい。
そしてぶんけいさんは恋愛が苦手だと書いていたが私もそうだろうな。
何でもかんでも私もそうとか書くのもこれまたおこがましいと思うが、これに関しては太ったことで見た目に自信がなくなった部分が大きい。
自分から告白したこともないのでなおさらなのかもしれない。
でもそれに加えその期待に対して実はいろいろできないみたいなのをなんか違ったと捉えられることもあるし、私自身がいわゆる世間の恋愛の正解みたいなのをしようとしてこなかったからというのもあるかもしれない。
そもそも恋愛だって人との関わりだと思うし、彼氏とか彼女とか一つの枠にあてはめて、彼氏にはこう接するものという意見は正直よくわからないし、この人にはこう、この人にはこうってだけだと思っている。
私たちには私たちの関係があっていいと思うし、私たちには私たちにしかできない会話ができればいいと思う。
ぶんけいさんも言っていてとても共感した。
だけど私も子供を育てるという経験を人生に一回はしてみたいと思っている。
その何にも代えがたいだろう経験が一回はしたい。
26歳まで院に行ってそのあとどうなるんだろうね。笑
バリバリに働きたいってなってるんだろうな。
家族は好きになっても家事は苦手だしな。
あ、なんか心が痛い。
そういえば、男性恐怖症はHKTアイドルヲタク時代に男ヲタクと絡んでいて治ったと思う。
むしろ仲良くなっていたと思う。
そして私も男女の友情はある派だし、友達から発展することも全然あるんじゃないの派。
そんなの聞いてないって?
いや、そんなこと言いだしたら最初から私が勝手に話してるだけのコンテンツなの根本から崩すことになるな。
友達でも恋愛でも、信頼できる人、尊敬できる人という一つの基準があるので友達から相手を知って信頼尊敬できれば発展することも全然あると思う。
ぶんけいさんも言ってた、私もそうだといろいろ書いたけど少し違ったのはヲタ活の経験だと思う。
一つにはまる経験が今までなかったと書いたが私は上に書いたように嵐とHKT48にめちゃくちゃはまっていた。
まあでも今は好きな芸能人もコンテンツも増え、どっぷり派ではなくなってしまったかもしれない。
最近はその一つとしてすとぷりというネット配信者アイドルにはまっていて、彼らの人間性とその顔出しせずネットで活動する新しいメディアの形、みんなの居場所になりうるその活動にこれからも期待したい。
コロナでナゴヤドームも東京ドームも流れてしまったが。
好きなことはたくさんあるし、そのことを話し出すととまらなくなってしまうので普段私の話がとまらないなあと思っている関係各位、大変申し訳ございません。
おしゃべりスイッチが入ると止まらなくなってしまうんだけど飲み会のあととかに「しゃべりすぎたな、私ばっかり話してしまった、相手は委縮していたらどうしよう」と一人脳内反省会を開いていたりする。
その時間は楽しい余韻に使っていることもあるので飲み会はすきだったりするんだけど最近のZoom飲み会はその余韻なくブチ切りで家なのでとても違和感。
なんかいっぱいぶんけいさんとの共通点を見つけられてハッピー!なただの一ファンだけど、違うところももちろんあって私は私なんだなあ!と思いました。
さいごに
ぶんけいさんが本を書いてくれたおかげで、ぶんけいさんの25年間を見せてもらったおかげで、この記事を書くことにつながりました。
感謝申し上げます。
これからも、私は私らしく、20代なのにとか女子なのにとか大学生なのにとか太ってるのにとか全部とっぱらって一個人せりなとして認めてもらえるように、私も人間相手の発信を続けたいと思います。
自分の発信もそうだし、相手のことも尊重して、わからない相手にも会って、でもそれを楽しんで、これからも人間していきます。
これからの人生もいろんなことがあると思うけれど、2年スパンくらいで住む場所が違う、所属が違うレベルで回りの環境が変わっているのでまた2年後には新しい未来が待っていると思うし、性格や考え方は半年ごとくらいにアップデートされていると思うのでまた今年が終わるころにはもう一歩成長した自分になっていますように。
まだまだ楽しみな未来が待っている。
と信じている。
最後に。ここまで読んでくださった読者の皆様に感謝申しあげます。
3万字超えという私のブログ史上最高の長さになりました。
少しでも面白い人間だと思っていただけたらぜひこれからも絡んでいただけたらと思います。
基本人間好きなので。
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これどこからタイトル設定するの?初心者すぎて。
あ、フリーペーパーの広告も出してくださる方いたらぜひお願いします。笑
noteはこの記事をきっかけに始めましたがこれからも気が向いたときに書きたいと思います。
おすすめのYoutuber5選とかして勝手に趣味を押し付けたい。笑
これからも仲良くしてね。
私事ですが24歳も毎日がわくわくで今よりもっと成長して素敵な女性へ近づけるような1年になりますように!
読んでくれてありがとうございました。
あ、スキも押していってね❤↓