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もしかしたら宿命解説【源頼朝編】⑦
こんにちは。
「もしかしたら宿命解説」頼朝編7回目です。
今回も勝手にこじつけて鑑定してみようと思います。
さて、今回は頼朝が挙兵する辺りの後天運の解説に入りますね。
治承4年、1180年夏。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第4話では、くじ引きで8月17日が挙兵の日を決めたとなっておりましたが、史実、この日に頼朝は挙兵したようです。
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この年
は「庚子」年。頼朝にとって守護神が回ってくる年ですので、自身の生き様にあっていればとても良い年です。守護神がやってくる年は良くも悪くも目立つ時期とされておりますので、頼朝がいくら身を潜めて籠っていようとも、どうしたってやり玉に遭う年でもありそうです。ドラマに描かれたように、頼朝自身が「挙兵はとりやめじゃ!」と言い放ちその通りになったとしても、戦は始まったかもしれません。どうせ戦うなら襲われる側より攻める側に回った方がいいですよね(私観)。
最初の挙兵で平兼隆(山木兼隆)を討った後、石橋山の戦いで惨敗する頼朝ですが、ここで負けてよかったのです。子年で申月の挙兵ですので、どこかで刑を消化しなければなりません(子-卯の刑、巳-申の刑)。その後、支合となりますから(巳-申の支合、子-丑の支合)、先にトラブルを乗り越え、のちに自分の意図する方向へ流れを持っていけたのは運が良いと思います。
この年の頼朝がまとっていた雰囲気は、大運「辛丑」年運「庚子」ですから、干支双連の様相となります。チーム頼朝が一蓮托生となり、結果を残して行く年です。石橋山で負けた頼朝軍は、土井実平の進言を受け、一度散り散りになり難を逃れます。その後、頼朝は安房の国へ逃れ、一大勢力となって約束の地、「鎌倉」へ入ります。鎌倉に入ったのは酉月。日支、月支と三合金局となる月です。違う価値観のツワモノ共が、戦う目的を同じくして一気に結果を生み出せるタイミングです。そして仕掛けるは戌月。年支の卯と支合の月です。このタイミングで始めたことはじっくりではありますが目的遂行のために前進できます。治承4年10月20日。富士川の戦いで勝利した頼朝は、打倒平家の地盤を盤石なものに仕上げていくのです。
治承4年の出来事はとても濃いので、おそらく大河ドラマではいくつかに渡って物語を形成していかれると思いますが、この「庚子年」での出来事は、確実に頼朝の人生を決定づける1年となってますね。
次回は「律音」を通してその理由をこじつけて行きますね。
それでは、今回の「もしかしたら宿命解説は」この辺で。
香取大介