IYP home comings

昨晩はベッシ―ホールにて、IYP先輩のナイスイベントでした。

トリオプスからマドラスまで皆素晴らしい演奏でありました。

我々林ズも良い演奏ができたかな、と思います。コロナでハコがなくなったりイベント自体が減少するなかでサンクルでばっかライブをしていたので、違うハコでどう鳴らすのか、鳴らせるのかの緊張がありましたが、結果緊張がプラスに転じたかな、という感じ。

ベッシ―でやること自体5年ぶりで、今回セッティングシート事前に出してなくて、ハッチさんにチクりとやられたのもなんか身が引き締まってよかった…。笑

IYP先輩こと新保さんが企画するIN YOR POCKETは相当な歴史があり第1回が2000年初頭とのこと(第0回もあるらしい…笑)ですから、およそ20年の歴史がある。

それがまだ続いていて、新保さんもステージでギターを弾いてフィードバックを出し続けているっつーのはすごいことです。新保さんのギターが好き。


楽器を演奏して、自分の信条なりなんなりをわざわざ求められてもいないのに表現していくことというのは、人によっては全く価値のないものでもある。というか全人口の大半にとっては極めて不必要なもんだと思う。

しかしながら、聴くにとどまらず、自作自演で何か表現することの魅力を知った人間にとっては人間として生きる上で不可欠なものにもなりえる。翻って圧倒的な価値を持つものとなる訳である。自分は完全に後者である。抑えきれない業の肯定。自分を自分として認識できる極めて少ない機会。

音楽を表現するにあたり、いつもこの二律背反する視点が自分の中で首をもたげる。いつも最終的には社会性強めの前者は置いといて、後者を選択するわけなんだけども。

この二つの概念が常にモゾモゾしているのが、音楽とか表現活動を続けることを困難にしている一因であると思っている。

この二つが矛盾しない状態にするには、自分の活動が市民権を得ないといけないんだと思っている。つまり売れることである。

前者の表現活動を必要としない層を納得させるには明確な結果が必要になる。わかりやすく、マーケットにおいて金銭価値に互換可能な価値を提供することが求められる。

しかしながら表現は必ずしも経済性を孕まない。どっちかっていうとマーケットが勝手に価値を見出して、自然発生的に市場価値を持つもんであるべきだと思っている。元から市場をターゲットとした商業主義的なものもあるし、それは別に否定しないけど。

そこもまた表現と経済性で相反するものがある。これもまた続けるにあたりしんどい要素になるのかもしれない。一定のポジションまでいかないと直面しない問題かもだが。


何の話だったっけ。

続けること、か。

表現活動をしている私側から見れば続けているだけで、尊い訳ですが、それだけじゃないから更に感動がある。ただ続けてるんじゃねーな、この人。というのを感じられると、ひとしお素晴らしい感動がある。


表現に捉われて、書きまくって気付いたら続いてた。というのが最高。

そういう感覚を失いたくないな、と思った一夜でありました。



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