魂になった人との付き合い方

※大前提として、僕は自分で見たり経験したものは信じますが、それ以外のものは、信じないとは言いませんが基本的に疑ってから徹底的に調べるタイプです。

 オカルトもUFOも都市伝説もスピリチュアルなあれこれも大好きですが、ラーメンを「あの店美味しいよ」と言われて食べに行ったらガッカリだった、という他人とは違う自分の感覚や経験をとても大事にしています。


霊と会話できる人に聞いたことがあります。


霊と会話できる人、をカッコ付きにしなかった理由は、本当に会話できるかどうかを科学的に立証できたかどうかではなく、その人とは利害関係も何もなく、人物そのものが信用できる人だからです。

「体から離れると、最初のうちは近くをうろうろしているけど、そこから先はいつでもどこへでも行かれるので、それまで行きたくても行かれなかったところに遊びに行ったりする」のだそうです。

でも、「あらかた楽しんだ後は、元いたところに戻ってきて、もう一度会いたかった人たちの近くで過ごす」とのこと。

特に、「自分の写真があるところが戻りやすいので、その人の写真を持ち歩いていると側に来る可能性が高い」と。

さらに、「自分のことを楽しそうに話している場に戻ってくるのが好きで、悲しんでいる人の近くにはあまり近づきたくないみたい」と。

このお話は、喪った側にとって心が平安になることができる説明で、どんな宗教にも属さない独特なお話だな、と感じます。

実際、真一が呼吸と鼓動を止めてからというもの、「あ、そこにいる」とか「あ、あいつ、やりやがったな」と感じるしかないできごとが多数ありました。もちろんそれは思い込みだと言われればそれまでですが、「あいつがやった」と思った方が楽しいじゃないですか。

荻窪高校での「がん講座」の日、きっと真一は「なんだよ、おとーさん、僕のこと盛りすぎで話してるよ。恥ずかしーなー。その写真、みんなに見せんなよー。でも瓦田先生、関口先生、枝里先生、楽しそうだからいいか。後輩、みんながんばれー」みたいな感じでそこらへんをふわふわしてたんじゃないですかね。

今春、我が家の長男は家を出て都心で暮らし始めました。
今は、妻、娘と母の四人暮らしになりましたが、そこに確実に真一がいることを感じます。

先日の火事の時も、あいつが私たちを守ってくれたのだ、と確信しています。

なぜなら、火元近辺に置いてあった、あいつがお祭りの時に着ていた法被が燃え尽きていたのにその周辺や母の大切なアルバムは燃え残っていた、ということ。

体、いや、魂を張って守ってくれたんだと思うことにします、と普通なら書くと思いますが、僕は「思います」と断言します。

荻窪高校の先生方のように、こうして真一のことを思ってくださるみなさんのおかげで、あいつは今でも生き生きと魂生活を楽しんでくれているのではないでしょうか。

荻窪高校公式ツイッターアカウントからの「がん講座」に関する主ツイートと、そこに連なるリプライを、ぜひご覧ください。

https://twitter.com/ogikubokou/status/1549670380448923653


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