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元気症候群

 早いものでもう4月も終わり。
 言っても半ばまではスノボにでかけてたので、のんびりとした春を実感できたのはこの1,2週だ。
「春眠暁を覚えず」の言葉どおりに、とことん惰眠を貪りゴールデンウィークの始まりを迎える。

 冬の間は気分が重い日々が続き、「あ、これ鬱の始めっぽいな」と思ったので、注意しつつ過ごしていた。とはいえ、何をしても焼け石に水の感じがしていて、脱するのには時間がかかったのだけれど。何か楽しそうなものに手を出したり、気分が乗らないものを少しでも避けるようにしたり。それでもなかなか思うように上向きの気分になることがなかったから、焦りも少しあった。
 しかし同時に「こういう気分を味わうのも、必要な期間なんだなぁ」と受け止めもしていた。自分でできることをやっていてその結果ならば、徹底的に落ちる必要があってのことだ。きっとそのうち情報が入ってきて、よくなるようになるだろう。それまでは暗い気分を味わうべきなんだな。こう腹を決めると、少しだけ気が楽になったもんだ。

 自分が不調になってふと思ったが、世の中やたら元気であることを推している気がしている。不調になったら、なんらかのドリンクやら錠剤やらを飲んででも、復調させようとしているというか。何かに頼って元気を出すことがいけないと思っているわけではなくて、自分が溌剌としていて元気だと思っている状態をニュートラルと捉える必要が、果たしてあるのかな、と思う。

 「元に戻る」ことをつい考えがちになってしまうが、気力体力を以前のように戻したとしても、それによってまた心身をいじめてしまっては意味がない。元気がない状態だって、自身にとっては本当は受け止めるべき大切な反応だ。そこから無理に元気を追い求めてしまっても、同じことを繰り返してしまうだけだろう。
 そのうち年を経て、私も体や心を壊し、持病として残ってしまったり、障害を負うことになるしれない。そうなると、元気である状態とはずっと言えなくなってしまう。「元気」のアベレージを自分の中で引き下げる、じゃなくて、変えることができればいいけれど、そうでなければ「なぜこんなこともできなくなるんだ」と無意味に自分を責めてしまうことにつながるのではないか。

 「調子悪い」と言い続けるのも嫌になってきたので、「元気」な方を標準に考えたり、気分の変化を安易に良し悪しで評価するのをやめるようにしている。起こっていること、感じていることは全部全部必要なこと。そして「元気」になる必要があるときならば、きっとそうなるように行動できるようになる。「元気」なことは奇跡だ!とまで言うのは大袈裟かもしれないけれど、決して当たり前のことではないな、と自分の腹に落とし込むと、案外どうにかなったりする。もちろん、適切な処置が必要なくらい具合が悪いのならば別だが、元気になるためにやたらめったら何かを服用するほど信仰するのも、少し恐ろしいと思う。それにほら、元気だからって、なんでもできるとは限らないじゃない?

 元々私は栄養ドリンクを飲んでまで頑張るくらいなら、早々に寝た方がいいし、そのために社会的な地位を犠牲にするくらいなんでもないわ、と思うので、余計にこの元気を捻り出そうとする構造がわからんのです。そこまで寝てる割にやる気も出てないし、昼寝しすぎて夜眠れないのは逆効果じゃない?って声は聞こえません。聞こえませんよ。

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