時に負の感情に身を任せよ

なぜだか自分の中で段取りを組み上げ、それから外れてしまった!という気分になる(実際に外れているかは別)と苛立ってしまう、マゾなのかな?という精神状態に陥るときがある。
あれ、マゾだと語弊があるな。「ただ怒りたいだけなのか?」と後々冷静になってから、自分でツッコミを入れてしまうようなとき。
一度怒りにスイッチを入れてしまうと、次々と怒りが沸くようなことを吸収してしまう。
そういうときに限って、業務用の掃除機なんか?というくらいの吸引力を見せたりして。

対処法としては、呼吸をする。
浅くなった息をコントロールして、自分の中のリズムをゆっくりにする。怒りの原因から思考を切り離すようにして、頭の中をフラットにした後、エネルギーを下へ下へと持っていくように。

というのが理想の持っていき方だけれど、最近それを「やりたくない!」という思考が生まれることが増えてきた。
怒りだけではなく、悲しみも、焦りも、不安も、絶望も。
いわゆる負の感情って持っているのが疲れるし建設的ではないから手放したいのに、手放そうとするとそれはそれで気が向かない。ストップさせてしまう。

それではどうするか。

諦めるしかない(笑)

思いっきり、その負の感情を味わわせてあげる。

自分自身に投げやりになっているのではない。
結局「機嫌を直す方法をとろうとするとモヤモヤする!」となるのならば、どっぷり負の中に浸かるしかない。
それが必要だ、と自分の奥底で判断してるのだ。
何か上向きにしようとするのでなく、また別の手段として昇華させるのでもなく。
怒りが、悲しみが、不安が、絶望が、味わいたいのだ。

ある程度はやりたいことをやらせてあげる、というのは子どもをあやすことと同じかもしれない。
感情という、一番原始的な部分。
必要があって備わっているはずなのに。
本来はどんな感情だって、正や負だなんて判断はできないものであるはずなのに。
大事な大事なエネルギーだ。

ただ社会性がそれなりに必要な大人である私は、怒り方に工夫が必要になる。
それをいくつか見つけて、試して、自分のものにしいく。
決して抑えるでなく、かといって暴走させるでなく。
すぐにそれができれば苦労しないんだけどな。試行錯誤も骨だけど、自分のためにも、やるべきこと。

生きている理由はきっと、いろんなものを味わうため。
だったら人間社会の都合や常識から少し取っ払って、自分の感情を味わえばいい。
怒りも恐怖も絶望も、浸るべきときには浸ればいい。
何も変わらない、喜びや楽しさと同じ、エネルギーの一部なんだから。

だからね、今現在の私。
怒っていいから、変な引きずり方するなよ。
自己の都合でキレてるくせに、必要以上に他人のやり方が気になって、潔癖になるんだから。
しかも普段以上に清潔にしたがって、ちょっとでも自分が「汚い!」と思うやり方されたら、最高に頭の中沸騰させながら除菌スプレー持ち出して心の中でキーキー言ってるの、本当によくないと思うぞ。

気持ちに蓋をさせるのはよくない。
けど、もうちょっと自分がすっきりできて他人にも変な影響を与えないような持っていき方をしなくちゃ。
子供のときにきちんとやらなかったことのツケを払っている気はするけど、大事な訓練だもんね。

どんなエネルギーだって、使い方を見つければ、宝物。

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