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理想に溺れる”純粋病”

夜中に手短に。

最近振り返れば、私って理想が高いのか?と思うことがある。
えらく高い理想を設定し、そこに届かない私を、
「ほーら、やっぱり何もできないじゃない。だから今不幸なのは当たり前よねぇ?」と嬲っている状態、というか。
「仕事も家のことも何もできてない」「自分のやりたいことが突き詰められてない」「人に迷惑かけてしまっている」「容姿もよくないし、努力もできていない」などなど、自身でも驚くほどにバラエティ豊かに。

その「できていない状態」も、絶妙に手が届かない範囲であることがほとんどだ。
理想の設定の基準は人からの影響だったり、自分の大きな心の穴だったり。
それをポジティブに養分として自身の向上に使えればいいのだけれど、私の場合はまだまだ「ネガティブな気持ちになるように心を叩き、現状から動かさないようにしていく」ような使い方をしてしまっている。

数字だったり、人からの期待や評価、他人をも不幸に巻き込む過剰な承認欲求で行動を決めてしまうことは少しずつ減らせてきたように思うが、
自分自身という鏡に映したときに、冷静にふるまえていないな、と思うことも多い。

文章、というかその前段階の「自分の気持ちを言葉にする」ことも、もれなくそうなってしまっている。
自分と向き合い、いろいろ考えるも、心のどこかで「自分が納得できる、自分が紡ぎたい純粋な気持ちを常に100%を表現する」ことを大きく膨らませすぎて、
自分の純粋な言葉だと思えないものを残すのはよくない
という、心の澱として底に沈んでいて、言葉そのものが出てこなくなる。

「別にいいじゃん」のひとことが、言えない。
「理想からはずれていても、私は私だよ」が、言えない。

なぜにここまで”自由”がわからず、「自分に対して純粋な気持ちでいる」ということすら曲解してしまうのかはわからない。
あまりにも傷つくのを恐れ、人の顔を伺い、都合のいい言葉を紡ぎ続け、はずれていた自分を自身でなじることを、当たり前にする時間が長すぎたのか。

自分をいじめるくらいなら、理想で作られた美しい「純粋」は捨ててしまわなくては。
どれだけ私の停滞を望むエゴが、暴れまわろうとも。
同じ便利な道具とはいえ、人間を切り回るのではなく、人間の幸せを作り出すように使わなくては。
たとえそれが、私自身へ向けていたとしても。

役に立たなくても、美しくいられなくても、それが私。
何度揺れて落ち込んでも、心の底からそれを赦せる私でいなくては。

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