『木洩れ日に泳ぐ魚』恩田陸 文春文庫

 引越しの準備の終わったアパートの一室。別れを目前にした男女。夜が明けたら別々の道を進む2人が過ごす最後の夜。彼らはお互いに相手に対して確かめなければならないことがあった。朝の光と共にもたらされる真実い向け、相手の一挙手一投足、一言一言に神経を張り巡らす濃密な心理戦を繰り広げる。

 とてつもない緊迫感のある即興劇のようだった。
 冒頭、お互いが引き出そうとしているのが、ある人物についての死の真相であることが明かされる。さらに両者が目の前の人物を疑っていることも。これについていかにして相手に口を割らせるか。この設定が、最初から平静ではいさせてはくれない胸騒ぎを呼ぶ。ただの別れ話ではない。最悪、口封じのために殺されてしまうかもしれないのだ。
 この目的のため、2人とって終わりの始まりになったその日の出来事を解き明かそうと、共有しているはずの記憶をすり合わせていくのだが、ここに微妙なズレが生じていく。この誤差を埋めようとすればするほど、その日以前の記憶にも一致しないところがあることが分かっていく。ここで生じる違和感、焦り、苛立ちもリアルに読者に伝わってくる。

 お互いの出方や発言から、次の一手を模索し続ける。最低限の小さな舞台から飛び出すことも無く、ピンスポを当てられた登場人物はたった2人とは思えないほど、スリリングな展開に喉が渇く思いだった。
 ただこれだけの素材が、これほどの奥行きを生み出したのは、2人が動き回っていたのがお互いの頭や心の中という無限の広がりのある場所だったからだろう。
 どれだけ掘っても掘り尽くせない、時として本人すら把握していなかったものが姿を現すブラックボックス、2人は覚悟を決めてそこに踏み込んだのだ。
 引き返せない場所に踏み込んでみたら、そこは予想していたものと全く違う場所だった。目的地までの道を指し示してくるはずだった目印は、ことごとく期待を裏切っていく。
 そして2人と読者を、思いも寄らないゴールへと導いていく。
 非常に刺激的な読書体験だった。 

 解き明かされていくのは真相だけでなく、2人の内側にある考えや感情も俎上に上げられていた。
 長い時間を共に過ごし、深いところまで知り尽くし理解している2人だったが、様々なことが積み重なり、行き止まりに突き当たらざるを得なくなった、その苦痛や苦悩が痛いほどに伝わってくる。
 その中で、行き止まりの夜だからこその感情が沸き起こり、許せていたことが許せなくなり、言わずにいたことを相手に向けて残酷に突きつけたり、自分の中の目をそらしていたことに向き合ったりする。その最中にありながら、ふとしたきっかけで愛おしさを思い出したりもする。お互いの一言で、視線で、仕草で、様々が感情が揺さぶられて揺り動かされる。
 この描写が真に迫っている。特別な夜であるという意識がかもし出す非日常の空気の中、むき出しの心を素手でつかみ合うような応酬が、ひりつくような緊張感を生み出している。
 それは彼らにとってはもちろん、読んでいるこちらにとっても特別な体験ではあったが、露にされる感情自体は、認めたくは無いが身近なものでもあった。

 特に自分は男なので、女性に射すくめられながら一枚ずつ化けの皮をはがされていくような感覚は非常に怖ろしく、いつか自分もこういう舞台に放り込まれるのではないかと奇妙な感覚に陥ってしまった。男であれば身に覚えがありそうなことが後半になるにつれ畳み掛けられるので、そこは彼らとは別の意味で覚悟しておいた方がいいかもしれない。


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