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皆で一段ずつ階段を登っていく方がチームとして結束力が高い

お店をマンパワーで引っ張るより、皆で一段ずつ階段を登っていく方がチームとしての結束力が高いと気づいたんです。ー
だから僕らは、それぞれに目標を掲げながらも、皆が互いの目指すゴールをリスペクトし合っています。

皆で一段ずつ階段を登っていくというのは、皆が自分で階段を登っていることを自覚させることだと思う。
その結果、個々のレベルが上がって結束力が高まっていくのではないか

高校バスケ部のコーチをしていた時、生徒たちの“やらされてる感”をどうするかが大きな課題だった。
練習は誰のためにあるのかといえば、生徒自身であるのだけど、どうしてもそう思ってくれない人もいる。
自分もそうだったなあと思いつつ、なぜ自分はあの時“やらされて”いたのかを考えてみる。

それはたぶん自分が試合に出ているイメージができていなかったのだと思う。
あの場面でこれができたら、あれができたら勝てた。だから今これを練習しているんだ。
そういう感覚がまるでなかった。
練習は本番のように、本番は練習のようにとは言うけれど、練習が練習のままでしかなかったのだ。

具体的にイメージさせるには、実践を経験してもうしかほかない。
ただ、実践には限りがあるし、勝たなければいけないと思うと、どうしてもうまい人のプレイ時間が多くなって、皆の“階段を登らせる”時間が少なくなってしまう。まさにジレンマだった。

今思えば、そもそも全て勝とうと思っていたことが間違いだったなと思う。
最後にどこで勝ちたいかと言えば、やっぱり高校総体
そこに合わせて、たとえそれまでの試合を“皆の階段を登らせる”ことにして仮に負けてしまっても、最後の試合で勝てればそれでよかったのだ。
一戦一戦の勝ち負けを気にしてしまったのがいけなかった
強い選手が集まる学校ではなくて、ましてや進学校だったこのチームは、まさに皆で階段をあがることに時間を割くべきだったと思う

それぞれが自分で階段を登っていくことを自覚したとき、初めて周りが見えてくるのかもしれない。それでチームとしても結束力(相手の欠点を補う力)が高まるのではないか。

マンパワーで引っ張っていくと、最初は忠誠心であったり、憧れであったりでついていくのだけれど、必ずどこかで気持ちが薄れ、なぜ自分がこんなことしているのだろうと“やらされている”ような気持ちになってしまう。
自分にフォーカスすることで周りのことを考えられなくなってしまうからチームとしてはボロボロだ。
“自分が自分が”となってしまうために、チームとしての欠点が欠点のままで、その穴が埋まらずバランスが悪くなってしまう
自分の階段が見えることで周りの人が今どこを登っているのかがわかる。
自分のところまで登ってくるにはあとどれくらいかかるだろうか、自分にできることはないだろうかと考える。

それが“想いやり”だったり“愛”なのではないだろうか


皆で一段ずつ階段を登っていくということは、チームを作っていく上で必要不可欠であるように僕は思う。

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