月光ソナタ
太陽の光は強烈なので、長い時間見つめることはできません。でも、月を見つめ続けることはできます。月は夜空に浮かぶ姿で見えるものです。もちろん、昼間の太陽だって「青空」という背景に浮かんでいるに違いないでしょう。ですが「青空の中に浮かび上がっている太陽」という姿で太陽をイメージする人は、あまりいないと思います。そういうイメージができるには、太陽はあまりにも眩しすぎるからです。
このことは、昼間に見える月の姿を考えてみると、よくわかると思います。昼間でも月が見えることがありますが、その存在感は夜空の月とは比較になりません。昼間の月は、空という配景のなかで「浮かび上がっている」とまでは、なかなか言えないからです。
黒い夜空に白く光る月という絵で、我々は月を見るということは、我々にとって「月」という天体のイメージは、常に夜空という背景の中に浮かび上がっているということを意味します。つまり、そこには「図と地」による認識があるわけです。
ゲシュタルト心理学では、〈図〉とは人の意識の中心に浮かび上がるもので、その背景にある無意識的なものが〈地〉です。例えば、白い紙の上に黒いインクのしみがある場合、我々はその「しみ」を中心的に知覚して、白紙の方は背景に沈み込むことが多い。しみが〈図〉であり、白紙が〈地〉というわけです。人間の知覚は、このような「図と地の分離」をほぼ無意識的に一瞬で行っています。そうすることで、本来は「図と地」の区別のない中に、図を浮かび上がらせるのです。
「図と地」という文脈でとりわけ興味深い現象は、いわゆる「図と地の反転」という現象です。この現象の説明には「ルビンの壺」が、よく使われます。
このような図を見たことがある人も多いと思います。これは黄色の部分を図と認識すれば壺に見えますが、そこを地だと思うと黒色の図に二つの顔のシルエットが浮かび上がるというものです。この二つの見方を同時にすることはできませんが、一方から他方へ反転させることは可能です。
それでは、同じようなことを「月と夜空」で実行することはできるでしょうか?月の方が背景で夜空の方が図として浮かび上がるということが自然にできるか?ということです。これはもちろん難しいと思います。しかし、もし
真っ白い夜空に浮かぶ真っ黒い月
とでも言えるものを想像してみたらどうでしょうか?これは図と地の反転ではありませんが、その「浮かび上がらせ方」が反転したものです。ここでは月は白地の紙の上のしみのような感じに浮かび上がります。
ベートーベンの月光ソナタ第1楽章の終わりに近い部分(60小節目から)で起こっていることは、まさに「白地の夜空に浮かび上がる真っ黒い月」なのではないか?と私は思っています。それを説明するには、この曲の最初から、説明していかなければならないでしょう。実際、ベートーベン・ピアノソナタ第14番(1801年)『月光』ほど、病理的なイメージに満ちた曲もないと思います。これは「死(第1楽章)→再生(第2楽章)」の後に続く、急激(で危険)な「退行(第3楽章)」のドラマだとも解釈できそうです。作曲の翌年の「ハイリゲンシュタットの遺書」まで、もうあと一歩という感じすらしてしまいます。
こんな曲を「書いてしまった」ベートーベンの心の深層は、どのようなものだったのでしょうか?
地(=背景)の描写から曲は始まります。いわば前覚醒状態、つまり意識「以前」の状態から始まるわけです。
5小節目4拍目、G♯音の付点音で「図(=意識)」が「発見」され、図(=光)と地(=闇)の分離という創世神話が静かに完成されていきます。
ここまでの顛末、いわばコスモロジーの成立が、第1楽章最初の9小節です。神が「光あれ」と言うタイミングと、5小節目4拍目のG♯付点音が出てくるタイミングは印象的なまでに一致しています。
しかし、その覚醒状態も、長くは続きません。この創世神話には、第2日目以降がないのです。早くも32小節目から無意識(=闇)の隆起にさらされることになります。
デクレッシェンドの後、42小節目の「光」は、いかにも弱々しい。
〈図〉の弱々しさは、図と地の関係の緊張状態を表しているようです。46小節目から始まる静かで緊張感のある推移は、図と地の力関係の微妙な交錯とも思われます。そして、57小節の小刻みな動きを経て…
…60小節目で、ついに意識と無意識の反転が完成します。
これはベートーベンの精神の危機を表しているのでしょうか。この曲を聴くたびに、音楽というのは恐ろしいものだと思います。220年以上もの時を超えて、言葉以上の言葉を語りかけているようです。