『不労のすすめ』⑤〜不労の為の錬金術〜
漫画家兼ロクデナシのカトーコーキがお送りする仕事論『不労のすすめ』の連載は第5回目となる今回で最後となる。
ここまで読んでくださった方には感謝の気持ちしかない。
そしてそんなあなたは立派なロクデナシだ!
ただ、このロクデナシという言葉、ボクは悪いものとして使っているわけではない。
むしろ、正直者であるという良いイメージすらボクは持っているし、それを自認している事を恥じてもいない。
あなたが立派なロクデナシとして自分の人生を歩んでいく事を決めるなら、ボクは最大の賛辞をもってあなたを讃えたい。
第4回は、〜不労の為のメンタル育成術〜として、「仕事」という言葉の持つ意味、メンタルの作り方、好きな事の見つけ方について話してきたが、今回は、お待たせしました!、皆大好き「お金」の話に深く切り込んでいきたいと思う。
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では、お楽しみいただきたい。
さて、ここからは、皆様お待ちかねの「金」問題だ。
今、ひきこもりやニートである人、またはこれから仕事を辞め自分の好きな事をやろうとしている人には、今後の生活をどうしていこう?という不安がある事だろう。
現時点では貯蓄などによって一時的に生活が成り立っているとしても、この先どれほどの期間この生活ができるか?という不安をお持ちの方もいるかもしれない。
これは大変お恥ずかしい話だが、ボクは大学を卒業して以降、社会人となってからもずっと親の金を頼りに生きてきた。
短期的に自分の稼ぎだけで暮らせた時はあったかもしれないが、大抵それはひと月とかふた月の話であり、長期的に見れば自分の稼ぎだけで暮らしてこれた時期は無い。
41歳のこの春までずっとそうしてきたのだ。
こんな歳にもなって恥ずかしいなと思う事は当然今までも多々あったし、もし自分の稼ぎだけで暮らせるようになれていれば、当たり前だが親の金力を頼る事はなかっただろう。
『しんさいニート』にもその様子を描いているのだが、
「お母さんが可哀想・・・。」
「どうして生活保護を受けないのか?」
などの感想もネット上には見受けられた。
確かに自分で自分の食いぶちを稼いできた人にとっては、ボクの行為は理解できないだろう。
稼げる仕事もせずに、親の金を当てにして、好きな事だけを続けようとするボクの姿を見て、
「社会をなめるな!」
という憤りを覚える人もいるだろうし、
「こいつは甘ったれているだけだ!」
と思う人もいるかもしれない。
それもわかる。
ボクもギッチギチに「常識」を刷り込まれた人間だから。
けれど、我慢して、金を得るためだけの仕事をしても、具合が悪くなり、生きていけなくなってしまうのである。
この状況をカウンセラーさんは、「仕返し」だと教えてくれた。
「仕返し」とはどういう意味なのか。
こういう状況は、親との関係にトラウマを植え付けられた人にはよく起こる事なのだそうで、仕返しの言葉通り、受けた苦しみの分、無意識に何らかの迷惑を親にかけるのだが、それがお金を出させる事になる場合も多いらしい(非行なんかも仕返しだと思われる)。
ボクの場合、もらえなかった「愛情」の代わりに「金」を出させる事で、無意識にその穴を埋めようとする行為なのだそうだ。
この話を聞いた時、合点がいった。
ボクは、父親によって心理的虐待を受け、苦しんでいたが、母親に手を差し伸べてもらえたという思いはないし、何なら、苦しんでいるボクを助けてくれなかった「父の共犯者」とすら思っていたのだ。
本当は母に助けて欲しかったし、愛して欲しかった。
その強い思いが招いた事だったのかもしれない。
そもそもボクは、人間の「性格」と呼ばれるものが生まれ持ったものだとはあまり思っていない。
勿論、運動能力が高いとか、知能が高いといった先天的なものはあると思うし、性格の傾向のようなものはあると思うのだが、性格の大部分は、生まれた後に親との関係性によって作られていくものだと思っている。
そしてこのような推論を立てた。
性格」とは「性質」のような生まれ持ったものというイメージのものではなく、親の子供への接し方に対する「反応」が固定化したようなものというイメージの方が正しいのではないかと。
この推論に従って考えれば、「働けない自分」を作ったのは、自分の甘えではなく、「親」という事になる。
愛着障害の治療においては、本人の治療ではなく、まず親の子に対する接し方を改善していくのがセオリーで、それによって本人の病状が改善するケースが多いと以前本で読んだ事がある。
この事を踏まえると、ボクの推論もあながち間違いではないのかな?と思える。
このような発言をすると、反論したい人もいるだろう。
実際、『しんさいニート』の感想にはこのようなものもあった。
「親のせいにするな!」
と。
しかし、カウンセラーさんの発した以下の言葉に、事実、ボクは救われた。
「こうなってしまったのはあなたがダメだからではないんですよ。
そのような事があったら、心を病むのは当たり前です。」
心を病む人の傾向として、「責任感」が強く「真面目」で、失敗を自分のせいにしてしまう、というものがある。
おそらく、厳しい親御さんの元で育ち、逃げる事も、他の何かのせいにする事も決して許されなかったという人が多いのではなかろうか。
ボクも「逃げる」事ができずに自分を苦しめ続けたし、人並みに生きていけない自分はダメな人間だと自分を責め続けてきた。
けれど、カウンセラーさんの言葉で、
「あぁ、ボクがダメだからこうなったんじゃないんだ。」
「こうなってしまったのはボクのせいじゃなく、環境のせいだったんだ。」
と、思う事ができ大分楽になった。
いい歳こいて、親の金を頼りにする生活をしている事には常に恥ずかしさ、情けなさを感じ続けていたけれど、そう言ってもらえた事で、
「今の自分を作ったのは親なのだから、親も一緒にボクの尻を拭くべきだ。」と半ば無理矢理にでも思う事ができたし、自分がしている事はその「仕返し」だと思えば、少しだけ自分の後ろめたさを誤魔化して、自身の行為を正当化する事ができた。
ボクの苦しい思いは、親に金を出し続けさせる事によってしか、解消できなかったものであり、自然の流れだった。
生活保護では意味がなかったのだ。
一部の方に猛烈な反感を買う覚悟で言うが、今現在苦しんでいる皆さんにはこう言いたい。
「あなたがそうなったのはあなたがダメだからじゃない。
状況や環境のせいにしていい。親のせいにしてもいい。
そしてもしお金に困っているなら、かじれる内は全力で親の脛をかじればいい。
それは決して恥ずかしいことではないし、人の道に外れた行為でもない。
場合によってはしゃぶり尽くしてやれ!」
と。
しかし、これも長年やっていると、何故だか段々と自分が疲れてくる。
親(ボクの場合父が他界しているので母)への恨みのような感情を武器に、金を無心し、自分の可能性を自らが否定し続けている状態に耐えられなくなってくるのだ。
親の脛をかじり続ける事に苦しみを覚えるのではない。
そこには、「自分がこうなってしまった原因の多くは親の育て方に問題があったからだ。」という免罪符があるし、これはいわゆる親に対する「仕返し」だという知識もある。
とにかく自分に期待できない状態、自分に期待しない状態に疲れてくるのだ。
ボクはこの9年カウンセリングを受けてきたのだが、自分が正常に戻ると言うよりは、新たな自分を再構築してきた感じだった。
その中で現実としては十分な金が稼げていないとしてもこのまま親に頼り続ける事で、自分が自分の足で立ち、理想の自分になる事を拒否しているのではないかと思い始めたのだ。
更にもう一つ、ボクは、援助を続けてもらう事によって、親と自分の関係を維持し続けようと、無意識にしていたのだ。
子供の頃に適切な愛情を注がれなかった事が招いた結果だと思っているが、カウンセリングを受け、自分が本当にやりたかった事を知り、少しづつであるが自分を再構築してきたし、少しづつ自信が持てるようになってきた。
そうなった時、もう親離れをして、しっかりと自分の足で立ってみたいと思うようになってきたのだ。
けれど、人間は変化を嫌う動物。
愛の代わりに金をもらう関係を絶つ事で、自分が正真正銘の独りぼっちになってしまう気がしたのかもしれない。
ボクはカウンセラーさんに出会った時が本当の自分が生まれた時だと考えている。初めてカウンセリングを受けたのは9年前なので、今、本当のボクは9歳という事になる。
わずか9歳の子供が、親から引き剥がされる時の恐怖を想像してほしい。
かなり恐ろしい事なのである。
42になろうとしているおっさんが何言ってるんだ?と思われるかもしれないが、これが酷い愛着障害の現実なのだと思う。
これらの事を考える発端となったのは、援助を打ち切りたいという母からの申し出があったからだが、それでもこれまではこんな風に考える事ができなかった。
実のところ、震災以降、援助を打ち切りたいという母からの申し出は何度かあったのだ。
けれどこれまでは、何だかんだと講釈を垂れて母の罪悪感に漬け込み、無理矢理に母を説得して援助の継続を勝ち取ってきた。
それが今回、前述のように考えられるようになった要因はもう一つある。
これらの事を全てボクから打ち明けられた上で、ボクを応援しよう、支えようとしてくれるパートナーの存在である。
彼女の存在と後押しがあったからこそ、ボクは今までの状態から一歩を踏み出し、自分の未来に対して自らが希望を持って新しい道を切り拓いて行く事を決意できたのだと思っている。
愛着障害によると思われるこのような問題は、自分一人の力で解決する事が難しいケースがほとんどだと聞く。
それ程までに解消、解決が難しく、人の心を縛り続ける強烈なものなのだ。
ボクはここまで親の金力を頼るのは恥ずかしいことではない、頼ればいいという旨の主張をしてきたが、親がいない、親に頼れるだけの金力がない等の理由で、頼る事ができない人もいるだろう。
そんな人は迷わず生活保護を受ければいいと思う。
こちらもまた恥ずかしい事ではない。
ボクは、母からの援助が無くなった後、生活が立ち行かなくなりそうになった事がある。
その際、生活保護を受ける事も視野に入れた。
しかし、車とPCを購入する為にローンを組んでしまっていた為、自分が生活保護の対象から外れている事を知った。
ローンを組めるという事は収入が安定していると見なされるからなのだろうか。
ローンがある状態では生活保護は受けられないので、ローンを完済するか、自己破産をして、ローンを無くさなければならない。
しかしこの自己破産がなかなかに曲者で、自己破産をしてしまえばしばらくはクレジットカードが作れないそうで、そうなればWEB上での決済ができなくなり、今利用しているサービスも使用できなくなる。
それはなかなかにキツいものがある。
これは、実際に生活保護の相談に行かなければわからない事なのだが、最悪、車の所持を許されない場合もある。
ボクが住んでいる地域は結構な田舎なので、車がなければ正直何もできない・・・。
というわけでボクの場合は、生活保護を受ける事は諦めたのだが、本当に困っている場合は迷わず相談に行ってほしい。
ただ、直接相談に行っても、なかなか受給させてもらえないという話を耳にした事もある。
なのでまずは、生活保護の相談を受け付けているNPO団体等に相談するといい。
さて、ボクのように「働けない」人の生活費をどう捻出していくべきかについて言及してきたが、ここからは「金」が人に及ぼす影響について話していこう。
これまでカウンセリングを受けてきた中で、カウンセラーさんは何度も訪れたボクの経済的ピンチに、アドバイスだけでなく、実際に母に掛け合うなどして、ボクの生活を守ってきてくれた。
生活費の捻出に対して、いろんな言葉をかけてもらったが、中でもよく覚えているものがある。
それは、心を病んでいる人が、何かをやり始めようとした時、金の心配があると心がそちらに向かってしまい、なかなか上手くいきにくい。といった趣旨の言葉だった。
そうなのである。
そもそも、生きづらさを抱えて困っている人、心を病んでいる人というのは不安が強く、明日の暮らしもわからないような状態に陥ると、その事ばかりに気がいってしまい、どんどんどんどん不安のループに飲み込まれていってしまいがちなのだ。
ボクがここまで何とか生きる事ができ、その上更に、自分の好きな事、やりたい事で、多少なりとも創作物を残し、実績を作る事ができたのは、ボクの生活が親の「金力」によって安定していたからだし、そうあるようにカウンセラーさんが尽力してくださったからだ。
「愛着障害」について書かれた本の中にしばしば出てくる言葉がある。
「安全基地」という言葉だ。
「愛着障害」と見られる人の心の問題を解決する時、必須とされるものが「安全基地」で、何をしても何を言っても、どんな状態で居ても責められる事なく安心して居られる精神的な場所、人を指す。
安全基地として一番相応しいのが「親」とされるが、様々な理由から親が安全基地になれない場合、その役割を医師やカウンセラーが担う事もあるという。
ボクは正にそのケースで、ボクの母にはボクの安全基地になろうという気概は無かった為、その役割をカウンセラーさんが担ってくれた。
実は、この「安全基地」という考え方が、ひきこもりやニート、これからやりたい事の為に仕事を減らしたり、辞めようとしている人にも通ずるものがあるのだ。
学生の頃励んでいた事を、社会人になっても続けている人はどれほどいるだろうか?
勿論、休日を使って続けているよ、という人も少なくないだろうが、単純に学生の頃にそれに向けられていた熱量、使っていた時間を維持している人はいないのではないだろうか?
何故、時間や熱量が減ってしまうのか?
それは、社会人が「仕事」に多くの時間を取られ、学生の頃に熱中していたものに時間を割けなくなってしまっているからだ。
では、何故人は、学生でなくなると、「仕事」に時間を奪われなければならないのか?
それは、生活の為に「金」を必要とするからだ。
考えてみてほしい、あなたが「仕事人」(何らかの仕事についている人)だとして、「生活の為」でなければ本当に今の「仕事」を続けるだろうか?
今の仕事が好きで、楽しくてやっているというのであればそれでいい。
それはとても幸せな事だから。
でももし、仕事をしなくても生活の安定を保障されている状態であれば、あえて今の仕事を選ぶ人はそういないのではないだろうか?
各々、これまで仕事に割いていた時間を、自分のやりたい事、好きな事に使い始めるのではないだろうか?
何もせずにのんびり過ごすのもいいだろう、陶芸をしたり、畑をやったり、小屋を建てるのもいいだろう。フィギュアを愛でるのもいいし、アイドルを追いかけるのもいい。
心を病んでいる人も同じなのだ。
心に不調をきたし「仕事」ができない状態の人にとって、時間が空いたからといって別の「仕事」を充てがってみたところで、同じ事の繰り返しになるだけだ。
大抵の場合、仕事とは別のところに問題の根本があり、それを解決しなければ心の状態を改善する事はできないのである(職場環境が本当の原因で心を病んでしまった場合はその限りではない。)。
心を病んで動けない人にとって必要なのは、仕事を充てがわれる事ではなく、金の心配の為に無理に仕事をせず、ゆっくりと休み、自分の心を溶かし、自分の好きな事・やりたい事を見つけ、自己肯定感を育む事だと思う。
その為に必要なのが「経済的な安全基地」なのだ。
それが、「親の脛」であろうが「生活保護」であろうが、「恋人からの援助」であろうが、「親戚からの借金」であろうが何でも構わない。
犯罪によって得た金でないならば、どんな手段で手に入れた金でも良いのだ。
「金」には「綺麗」も「汚い」も「恥ずかしい」もない。
自分で働いて得た金だろうが、親から援助してもらった金だろが、親戚から借りた金だろうが、どんな金であろうが、例えばスーパーでの支払いに使う際、同じ金額であれば同じ価値しか示さない。
そこには”優劣”も”美醜”もない。
「金」はただの紙に価値を与えられた道具に過ぎないのだ。
重く考える必要はない。
「自分で得た金」の方が「他者によってもたれされた金」より価値が高いなどという事は一切ないし、紙幣に「これは母から援助してもらった金です。」などと印字される事もありはしないのだ。
まずは自分の「経済的安全基地」を作ろう。
生活の為に仕事をしなくても、自分の生活が担保される状態を作り、その上でゆっくりと休み、自分と向き合い、好きな事を見つけ、自分を立て直していけばいい。
ただ、もし、脛をかじろうとしても親を説得できなかった場合、無理をして自分で交渉し続けるの事が状況の悪化を招いてしまうケースもある。
そんな時は”プロの第三者”の出番である。
カウンセラーさんや、医師などに間に入ってもらい、「経済的安全基地」の獲得を目指してほしい。
ちなみにボクの場合だが、この春めでたくというか、ようやくというか、母からの援助をもらう事なく、自分の力で生きていく暮らしを始めたところだが、早速危機的な状況に陥ってしまった。
どうしたものか色々と思案してみたものの、なかなか良い解決策を見つける事ができなかったのだが、秋口頃、一つの光明がさした。
今ボクが進めている、古民家のセルフリフォームプロジェクトにおいて、一時的にではあるが生活の足しになる金を得る事ができるようになったのだ。
ただ、これは一時的な事なので、いつまでも続くわけではない。
今の経済的安全基地がある内に、何とかその先の生活を成り立たせる為の術を生み出さなければならない。
文章によって自分の考えを伝えようというこの仕事も、その一つというわけなのだ。
金銭的にも精神的にも、母に依存していた状態には戻りたくはない。
なかなか10年、20年と食い続けられるような安定した食い扶持を見つける事は難しいかもしれないが、そうならないならそれは仕方がない。
それに対応していくのみである。
ともかく大切なのは「自分を諦めない事」だとボクは思っている。
自分から出る何かが「金」を生む可能性を絶対に否定しない事だ。
世の中には、常識では金になりそうもないと思われているものでも、思いもよらぬ方法や考え方で「金」にしている人達がいるものだ。
「経済的安全基地」についてここまで語ってきたが、ここからは、それを作る際、実際に何が必要なのか?について少し話していきたい。
まず、現状あなたが親の「金力」によって生活しており、「愛着障害」の可能性がある場合においては、自分が金銭感覚の欠如した人間かもしれない事を自覚してほしい。
というのも、「愛着障害」とされている人に多い傾向として、「金銭感覚」の欠如が挙げられている為だ。
ボクも正にその一人なのだが、これが結構厄介な問題で、長らく「親の金力」に頼った暮らしをしている事も相まって、普段どれだけ自分が金を使っているのか?自立した際、自分の「金力」がどれほどになるのか?その中でどうやりくりしていけば良いかが全くわからないのである。
ボクの場合、カードで買い物をし、自分の金力を超えてしまった場合は、親に補填してもらえばいいと、完全に思い込んでいて、それができなくなるであろう未来の現実には全く目が向かないという状態が長らく続いていた。
更に、ちょっと小銭が手に入ると、すぐに舞い上がって使い切ってしまう。
完全に金銭感覚が狂った状態でこの歳まで生きてきてしまっていたのだ。
そしていざ、母親からの援助が終了すると決まり、今後の生活設計を考えた時、自分の足で自分を立たせる事がボクにとってどれ程厳しいものなのかを目の当たりにし、目の前が真っ暗になった。
ボクにとっての母親からの「金」は、=「子供の頃に十分にもらえなかった愛情の代わり」であった為、援助の終了によって母親からの「愛情」(それが疑似的なものだとしても)をもらえなくなる事への恐怖も、正直かなりあったと思う。
ボクはいわゆるマザコンのテンプレのような人間ではないのだが、心を剥いていくと、そこには未だに「親の愛情」を求める子供の頃の自分が確かに存在しているのだ。
絶望しそうになったボクを支えてくれたのはパートナーで、彼女は冷静に、ボクの「最低限必要な生活費」を一緒に洗い出してくれ、「援助」が終わる事によって金銭的にも精神的にも自立しなければならない事に酷く怯えるボクの背中を押してくれた。
支えてくれる人がいる事も当然重要なのだが、最も重要な事は、自分の生活に必要不可欠な資金が毎月どれ程になるのかを洗い出し、一つ一つ書き出し、可視化する事だ。
「働かない」を決め込む場合、毎月の固定費は低いに越した事はない。
削れるものは削り、もっと安いものに移行できるものは移行し、できるだけタイトにまとめる事をお勧めする。
仮にあなたが一人暮らしをしている場合は、可能であれば実家に戻るなり、居候させてくれる友人を頼るなりするのが望ましい。
ボクは常々、土地を売買し、誰かの所有物と決め、借りる際は金を支払うというこの星のシステムには納得がいかないと話しているのだが、家や部屋の賃貸料金程馬鹿馬鹿しいものはないし、稼ぎが少ない状態の人にとっては出費の割合の大部分を占めてしまう事も多いと思うのだ。
実家に住まう事や、居候の場合には住居に関してほとんどの場合金はかからないだろうし、かかったとしても自分で借りるよりはずっと安く上がるだろう。
次に削りたくなるのが入院保険の類だが、ボクの場合、がん保険と入院保険に入っており(生前、父に入らされた)、月々合わせて1万円の出費になる。
しっかりと働いて収入を得ている人にとっては痛くも痒くもない金額だろうが、生活保護も検討するレベルの低収入であるボクにとっては、とても大きい金額なのだ。
しかし、この件をカウンセラーさんに相談したところ、「待った!」がかかった。
というのも、ボクのように「不安」が強く、何か起こると「不安」に支配され、「絶望」しやすい人間にとっては、この手の保険に入っている事が安心感に繋がると考えられたようなのだ。
というわけで、「不安」の強い方は、この手の保険の解約を一旦とどまってほしい。
信頼できるカウンセラーさん、お医者さんなどに相談した上で決めていただきたい。
では、ここでボクの月々の固定費を例として見ていただこう。
【カトーコーキの固定費/月】
・自動車ローン・・・・・・・・・10,000円
・自動車任意保険・・・・・・・・5,000円
・入院保険・・・・・・・・・・・10,000円
・健康保険料・・・・・・・・・・0円(震災の関係で免除)
・年金・・・・・・・・・・・・・0円(収入が少ないので免除してもらっている)
・PCローン・・・・・・・・・・・17,000円
・電話代(端末含め)・・・・・・6,000円
・食費・・・・・・・・・・・・・8,000円
・水道光熱費・・・・・・・・・・6,000円
・家賃・・・・・・・・・・・・・0円(パートナーの実家に居候中)
・風呂代・・・・・・・・・・・・2,000円(パートナーの実家への支払い)
・タバコ代・・・・・・・・・・・6,000円
計 70,000円
これはあくまで固定費で、この他、ガソリン代や、外食代、お菓子代、お出かけ費などがかかる事を考えると最低でも10万円は欲しいところだ。つまり固定費+3万円くらいは余裕を見ておいた方がいい。何か突発的な事にも対応できる多少の気休めにはなるだろう。
とはいえ10万円では、洋服や靴などを新調する事は難しいので、最近は購入していない。
贅沢しない状態でこの金額だと考えて欲しい。
また、これはあくまでもボクのケースの話なので、車を所有する必要のない地域に住んでいる人は車のローン+保険代15,000円はかからないだろうし、PCを必要としない人は17,000円が必要ない。
更にタバコ代6,000円が不要な人もいるだろう。
それらを差し引くと32,000となり、予備費30,000円を足しても62,000円となる。
つまり、大体、50,000~60,000円あれば、ギリギリの生活はできるという事だ。
そう聞くと、肩の荷がぐっと軽くなったようには感じないだろうか?
このくらいの額であれば、好きな事で稼げる可能性も十分に感じられるだろうし、親に頼るにせよ、生活保護を受けるせよ、何か別の方法で金策するにせよ、そこまでハードな事ではないだろう。
もう自分に嘘をついて、心に負担をかけながら生活の為に働く事はない。
生活をギリギリまで切り詰める事、その為の金策を励む事を怠らなければ、「働かない暮らし」は実現できるのである。
いかがだっただろうか?
少しは「働かない暮らし」が見えただろうか?
今回のこの文章が、「生き方」を見つめ直したい人、「やりたい事」をして生きていきたい人、「やりたい事」が見つからない人、「引きこもり」の人、「ニート」の人、「働きたくない」人等々にとっての何らかの助けになれば嬉しい。
AIの発展や様々な分野での科学技術の発展によって、多くの人が今の仕事を失う未来がやってくるかもしれないし、ベーシックインカムによって国民全員が最低限の暮らしを保証される日が来るかもしれない。
近頃、AIによって漫画が創られたり、キーワードを入力すれば絵を描いてくれるアプリが登場したりなど、漫画やイラストの界隈も騒がしくなってきた。
ボクが漫画家の端くれとして世の中に存在できなくなる日もいずれやってくるかもしれない。
更に、ある人の発言の傾向を学習させ、その人が言いそうな事を言ってくれるシステムも登場したので、タレントやYouTuberのみならず、評論家や、下手をすれば政治家すら必要としない時代が来るかもしれない。
だが、来るか来ないかもわからない未来を心配したり、期待したりして、今悩んだり、ただ待っていても仕方がない。
それなら今できる事は何なのかを考えて、できる事を一つずつ積み上げていく方がよっぽど有益だ。
とにかくボクは、「やりたくない事」から離れ、本当に「やりたい事」を自分の心に問うていきたい。
それが「瞬間」を幸せにし、積み重なった幸せの瞬間が「幸せな未来」への道を繋いでくれると信じている。
「人間」という生き物は実にややこしい。
「社会」というものは実にややこしい。
油断すればどこまででもややこしくこんがらがってしまうし、一度こんがらがってしまえば、そう簡単には解けず、苦しみをもたらしてしまう事もしばしばだ。
しかし、惑わされる事はない。
思うほど他人はあなたを見てはいない。
「社会」が何となくそう思い込んでる事や、「社会」はこう思うだろうというあなたの思い込みは、決してあなたを幸せにする責任は負ってはくれない。
とても無責任なものなのだ。
そんなものの為にあなたの人生を棒に振っていいのだろうか?
あなたを「幸せ」にできるのは「社会」や「常識」ではない、唯一あなただけだ。
「答え」は「社会」や「常識」の中にはない。
「答え」はいつだってあなたの中にあるのだ。
こんな事を言っているボクも修行中の身で、まだまだ自分の理想には程遠いし、日々悩んだりしている。
けれどボクはこの道を歩き続けていきたいと思っているし、同じように思う仲間と情報共有をしながら頑張っていきたいと思っている。
人間には現状維持を望む習性があるという。
子供の頃からずっと自分は「不幸」だと感じてきたボクは、「幸せ」に憧れながらも「幸せ」になる事へ、状態が変化する事を無意識に恐れ、「不幸」な場所にい続けようとしてきた。
けれどそれに気付き、「幸せ」な状態を目指そうと決めた。
父がボクに植え付けた「自分は幸せになってはいけない」という呪いは、非常に強固なものだったし、そこから「幸せ」な状態に転じる事は本当に大変な事だろう。
そして今もまだ、その闘いは終わってはいない。
ただ、ボクは思うのだ。
「人間は何の為に生まれてくるのだろうか?」
「それは幸せになる為なんじゃないのか?」
「誰しも幸せになっていいのだ、その権利を有しているのだ。」
と。
「ボクは幸せになっていい。」
「あなたも幸せになっていい。」
「働く」事があなたの「幸せ」を害するなら、「働く」事など捨ててしまえばいい。
恐れずに進もう。
自分を幸せにできるのは自分しかいないのだから。
完
あとがきのようなもの
今回『不労のすすめ』というタイトルでボクの仕事論をエッセイという形で発表したわけだが、この「不労」は「不労所得を得る」などの不労とは、違ったものとなっている。
ボクの提唱する「不労」は、「生活資金」の為に働く「仕事」から脱却し、例え金にならずとも、本当に自分のやりたい「仕事」をするという意味のものだ。
不幸せな状態を維持しながら「金」の為に働く事は、健康的ではない。
ボクは健康的に、幸せに、自分の人生を送っていきたい。
その中で少しずつでも、自分の好きな仕事で金を得られる力を育てていきたい。
そう考えている。
さて、購読料・応援の目標達成の行方についてだが、発表しよう。
目標は8万円だったが、連載時、リアルタイムでの入金は、
¥5,500(延人数9人)、という結果になった。
リアルタイムでの入金は目標金額の約7%にとどまったが(最終回分は集計できないので正確ではないが・・・)、ボクはこの結果を悲観してはいない。
今後、この記事を読んだ人が購読料を支払ってくれる可能性はあるし、何より、実験的に始めたこのシステムで、ボクのエッセイに価値を感じ、実際に入金してくださった方々がいた事が、本当に励みになった。
彼らはボクを物書きの「プロ」にしてくれたのであり、これはボクの中でとても大きな実績となるに違いない。
感謝したい。
チャレンジはしてみるものだと、本当に思った。
今後もボクは、金になるかわからない自分の「好き」を発表し続けていきたいと思っている。
それが漫画なのか、イラストなのか、音楽なのか、エッセイなのかはわからないが、自分の気持ちに従って、どんどんチャレンジしていくつもりだ。
またカトーが何か始めたぞ!とワクワク、ニヤニヤしながら見守っていただければ幸いだ。
カトーコーキ
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