『不労のすすめ』①〜父はコピー忍者〜
あなたは「仕事」をしたくないと思った事はないだろうか?
告白しよう。
何を隠そうボクは、物心がついてから42歳になろうとしている今に至るまで、 「仕事」をしたいと思った事がない。
残念ながら、ただの一度もである。
しかし、そんなボクが近頃、「仕事」の事をよく考えている。
というのも、ボクの今の経済的状況が、かつてない程にピンチに陥っている為である。
とはいえ、だ。ボクがずっと子供の頃から仕事の事を考えてきた事もまた事実だ。
という事で、ボクの「仕事論」を、それが培われた生い立ちに触れながら語っていきたいと思う。
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「まともに払って読んだ人が馬鹿を見るではないか!」
という声が聞こえてきそうだが、おっしゃる通りである。
しかし、例え読み逃げが発生して損をこいたとしても、せっかく書いたこのエッセイが、noteの有料設定がブロックとなり、多くの人の目に触れなくなってしまう事の方が、ボクにとってはマイナスになると判断し、この形を取る事にしたのだ。
それに読み逃げされたとしも、その人の人生のほんの短い一瞬だとしても暇つぶしになったのなら、その人の役に立った事になると考えると、そこまで悪い気もしない。
今、お金に余裕がない人も、いつか余裕が出た時に払ってくれればそれでかまわない。
この形には良い点もある。
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それではどうぞお楽しみあれ。
ボクが初めに「仕事」について意識し始めたのは、保育園児の頃だったと思う。
ジャケットを羽織り、まだ豊かだった頭髪をキメた父は毎朝、『ひらけ!ポンキッキ』に夢中なボクに怒声を浴びせ、歯磨きをさせ、保育園まで送り、その後「仕事」とやらへ向かっていった。
母は、居残り保育で見てもらっている子供たちの中で、最後まで残り、『はたらくくるま』の映像を楽しむボクを、「仕事」とやらを終えた後に迎えに来た。
そんな事から、ボクの中で「仕事」とは人をイライラさせるものであり、子供を寂しがらせてでも大事にしなければならない厄介な代物であり、子供の時分のボクにとっては専らの敵であった。
これ以前にも「仕事」をしている人には沢山会っていたはずだ。
「新聞の集金の人」、「近所の魚屋のおじさん・おばさん」、「たばこ屋のおじさん・おばさん」、「床屋のおじさん・おばさん」等々・・・。
わずか3~4歳の子供の、本当に小さな世界の中にも、これだけの「仕事人」達がいたわけなのだが、当時のボクは彼等がしている事を「仕事」とは認識していなかった。
単に、何かのサービス、又は商品を提供した者へ金銭を渡すという行為をする事が、この世界のルールであるらしいと考えており、彼等は自分を取り巻く小さな世界を彩るパーツの様なものだったのだと思う。
保育園のイベントに消防士が呼ばれ、大きな消防車に乗り、
梯子を伸ばしたり、放水してくれたこともあった。
白バイ隊の警察官が呼ばれ、走る姿を見せてくれたり、乗せてくれたこともあったが、やはり彼等を「仕事人」と認識する事は無かった。
彼等を見た時の意識はまるでウルトラマンや仮面ライダーを見る時と同じで、ヒーローに対する憧れの様なものがボクの心を支配していた。
それはとても輝いて見えたし、地味で小さなボクの世界には決して存在しない高嶺の花の様なものだったのだ。
では、ボクが最初になりたいと思った職業は何だったろうか?
白バイ隊員になりたいと思っていたこともあるし、ウルトラマンになりたいと思ったこともある、仮面ライダーやチェンジマンになりたいと思ったこともある。
しかしそれよりも前に、もっとなりたいと思っていたものがある気がするのだが・・・。
あ、
・・・・・・父親だ。
それは、何かの仕事に憧れるというのとは違うのかもしれない。
しかしボクは確かに、幼い頃、自分の父親に強く憧れていたし、父の様になりたいと思っていた。
ボクの著作『しんさいニート』や『そして父にならない』を読んで下さった方は衝撃を受けるかもしれないが、これは紛れもない事実なのだ。
憧れが強すぎた故に、その憧れが消えなかったが故に、後のボクは父との関係性に大いに苦しめられたのかもしれないが、それはもう過去の事であり、変える事はできないので仕方がない・・・。
確かに父は、常にイライラしおり、一度癇癪を起こすとなかなか機嫌の戻らない難しい人だった。
しかしその一方で、彼にはいくつかの素晴らしい能力があった。
その一つが文字の美しさだ。
父の文字は、繊細で傷付きやすく、実直で、美に対するこだわりが強かった彼の性格を、そのままに表したようなものだった。
機械が書いたかのように真っ直ぐでブレず、活字をほんの少しだけ縦に伸ばした様なスタイルで書かれた文字は、実にデザイン性が高く美しかった。
小一から書道教室に通わされていたボクは、手本をいかに忠実に再現できるかというところに魅力を感じ中三まで楽しく続け、大人になってから再開し、毛筆で高校生まで、硬筆で中学生まで教えられる師範免許を取るに至ったが、実生活で書く文字は酷く、普段から美しい文字を書いていた父のようには今以てなれていない。
そして彼は絵を描く事も得意だった。
ボクが保育園に持って行く事の多かったおやつ(おやつと言っていいかはわからないのだが、当時そういう位置付けだった)はゆで卵だったのだが、その殻に可愛い絵を描いてくれていたのは父だった。
時々、機嫌のいい時に、ウルトラマンの絵を描いてほしいなどとお願いすると、ウルトラマンの写真が載っている本を手本に、すらすらと描いてくれたものだった。
これは、文字とも通ずるものがあると思うのだが、目で見たものを脳で認識し、再現する為に手を動かすという一連の流れを、彼は得意としていたのではないかと思っている。
そこにあるのは確かな観察力と、確かな再現力であろうか。
彼の得意なものは他に、歌や工作、運動などがあるが、そのどれもが上記の能力に裏打ちされたものなのだと思う。
そう、彼は器用な人間だった。
いや、正確には小器用と言うべきだろうか。
しかし彼は、その能力を仕事に活かしていたのかもしれないが、それら自体を仕事にしていたというわけではなかった。
臨床検査技師であった彼は、職業を選ぶ上でどこかに諦めや打算があったのかもしれないし、早く一人前にならなければいけないという思いがあったのかもしれない。
自己否定感の強い人であったから好きな事や得意な事で飯を食っていけるはずはないと思っていたのかもしれない。
だが、父が亡くなっている今、残念ながらそれはもう確認のしようもない・・・。
ともかく、ボクはそんな父親に強い憧れを抱いていた。
面白い事に、父が器用な一方で、母はすこぶる不器用だった。
本人も自覚しているようだが、歌は鬼の様に下手であり、テレビから流れる懐メロに合わせて歌っていても一つも音階が合わぬまま歌い切ってしまえる、ある意味超人的な能力の持ち主であり、ボクもテレビに合わせて歌いたい時などは邪魔な事この上なかった。
また、残念な事に字も下手くそで、何とも言い難い微妙なバランスの悪さを醸し出す絶妙に格好の悪いものだった。
そして絵や運動、車の運転においてもそれは同じだった。
もしかしたら、そんな母がいた事で、父親のコピー能力がより一層輝いて見えていたのかもしれない。
その父のコピー能力は遺伝なのか、はたまた習得したものなのかはわからないが、僅かに受け継がれ、ボクは世の中において大して役にも立たない無駄な小器用おじさんになったというわけだ。
この「小器用」、物事の入り口においては多少他者をリードできたりする為、一見良い能力のように思えるのだが、継続できなければ技術は高まらないし深まらないのであまり意味がない。
ボクのような「自己否定感」の強い人間がこの能力を持ってしまうと、人より少し早く、少し上手くできる事で、他者からの評価を簡単に得られる事に味を占めてしまい、何事においてもそれを求めるようになり、やがてはそれだけに固執していく。
つまりだ、表面を取り繕って安い評価を得た事に気持ちよくなって、目先の評価だけを気にする小賢しい人間になってしまいがちなのだ。
このような人が(ボクもその一人)、何かの道を極める事はほぼ無いのではないだろうか。
さて、父親の様になりたいという思いが心の根底にはありつつも、表面的にはウルトラマン、仮面ライダー、チェンジマン、白バイ隊員になりたいなどと思っていた幼いボクであったが、保育園の年長さん辺りからは朧げながら漫画家というか絵を描く人になりたいという思いも芽生えてきた。
事の起こりはおそらくこうである。
TVでは毎日の様に何かしらのアニメが放送されていて、元々お絵描きが好きだったボクは、夢中で視ていたそれらを模写する様になっていった。
作品は、北斗の拳やドラゴンボール、聖闘士星矢、ウイングマン等が主だった。他にも沢山の名作漫画がアニメ化されていたが、ボクがよく模写したのはこの辺りだったと思う。
当時もアニメ関連のグッズは沢山あり(特にシールやカード類)、そんなものを見て模写したり、父が機嫌の良い時に買ってきてくれる週間少年ジャンプをバッチバチに開いて模写していた。
父の得意分野でも少し触れたが、書と同じくして、手本を真似て描くという事がボクは好きだったのだと思う。
この流れは中学生まで続き、模写する作品はドラゴンボールとスラムダンクへと変わっていった。
小学生の頃は、自由帳を切ってホチキスやセロハンテープで止め、オリジナルの漫画で単行本を作ったりもした。
確か内容は、冴えない少年がある日、押入れの中に仕舞われていたハイテクな鎧を見付けると、それが勝手に少年の身体に装着され、超人的なパワーを手に入れる。
そのパワーを使って悪と闘うという子供が好きそうな、且つ、何の捻りもない作品で、聖闘士星矢やウイングマンの影響をありありと感じさせるものだったと記憶している。
絵描きや漫画家に憧れる一方、他にも憧れるものがあった。それは、ミュージシャン(歌手)とサッカー選手である。
父は音楽が好きだった。
車に乗れば必ずカセットテープで音楽を聴いていた。それは例えば、オフコース、井上陽水、アリス、チューリップ、高橋真理子、中森明菜、桂銀淑、チェッカーズ等々・・・。
まあ、当時の流行りをある程度抑えた、ミーハーな田舎者のチョイスといったところかもしれない。
歌う事が好きな父の元で育ったボクも、歌う事が好きになり、兄と風呂に入っていた小学校低学年の頃にはよく、アニメ北斗の拳のオープニングテーマ『愛をとりもどせ‼︎』の高音パートを担当したものだった。
やがてボクは、オリコンチャートにしか影響を受けないミーハーな田舎の少年になり、CD爆売れの90年代前半から90年代後半に至るまで、カラオケ文化の加熱と低価格化の中で歌う事への愛を育んでいった。
そして線は同時にもう一本走っていた。
それがサッカーである。
小二の三学期に引っ越し、転校をしたボクは、兄の影響でサッカースポーツ少年団に入った。
はじめは単に兄の影響で始めたサッカーだったが、どんどん楽しくなっていった頃に事件は起こった。
確か天皇杯の決勝だっただろうか(気になったので調べてみたところ第71回天皇杯全日本サッカー選手権大会の決勝だった。)?
YOMIURIと書かれた緑色のユニフォームのチームと、NISSANと書かれた青のユニフォームのチームが激しい戦いがテレビ中継されており、たまたま観戦したのである。【読売クラブ(後のベルディ)と日産自動車(後のマリノス)】
何となしに視ていると、どうも実況、解説共に読売に肩入れしている感じがしたし、人気も知名度も読売の方が高い様子だった。
天邪鬼なボクは、ようし、それなら!と、日産自動車を応援する事にした。
試合は延長戦にもつれ込み、劇的な展開で日産自動車が勝利した。
ボクは一気に日産自動車のファンになった。下馬票を覆して勝利を手にした姿がとても格好良かったのだ。
そして、サッカー選手への憧れを抱き始めた。
さらに、1993年のJリーグ開幕を控え、野球のようにサッカーでもプロが生まれるという事実に少年のボクは興奮を覚えたのであった。
とまあこのような感じで、自分の中に三つの「好き」を走らせていたボクだが、その三本柱の一本、サッカーの柱には早々にヒビが入る事になる。
小器用だった為、周囲よりはスポーツも比較的できた方だったが、地区の選抜チームにおいては補欠の補欠だった。遠征に帯同はさせてもらったものの、ユニフォームはもらえなかったのだ。
選ばれなかった理由は、当時も何となくはわかっていた。
ボクは大変な「ビビり」だったのだ。
幼少の頃から、ずっと父に監視、管理され、怒られすぎていたボクは、自分で責任を負う事に強い恐れを抱いていたのだ。
これ上怒られたくなかった。
その恐怖心がプレーにも確実に現れているという自覚があった。
ボールを持たなければいけない場面でもすぐに人にあずけ、ゴール前でも自分で勝負をし、失敗する事を恐れてパスを選択、競り合いでは相手に遠慮をして思い切りぶつかれない・・・、これでは使い物になどなるはずがない。
今にして思えば、ボクはもう小学校高学年にして他人と争う事に疲れていたのかもしれない。
自分の価値観を押し付け、ボクを恐怖で支配した父親に認められる為に、父親の望むような自分を演じ続け、誰にも負ける事のないよう、常に一番を目指さなければならない状況がボクを疲れさせてしまった。
それに加え、人格を認められない事で生じる「自己否定感」が、失敗の可能性のあるチャレンジングなプレーを拒み、可もなく不可もないプレースタイルを生んでしまった。
さらに、「自己否定感」や「劣等感」によって他人との距離感が上手く掴めない状態のまま中学生になったところで、チームメイトとの間に不和が起こり、チームを去らざるを得なくなってしまった。
このようにしてサッカーの柱は早々に折れてしまったのであった。
おそらく、この様な心の状態で、どんなスポーツをやったとしても実を結ばなかったであろうが、せめてチームスポーツでなく、ボディーコンタクトが無く、同時に競わず、更に対人でない競技をやっておけば良かったかななどと思うのである。
例えば、弓道、アーチェリー、ダーツ、フィギュアスケート、射撃、ゴルフ、投擲競技、走り幅跳び、走り高跳び等々。
とはいえ、ボクの出身地は田舎なので前述のどのスポーツにおいても、子供時代から嗜める環境には無いので(ゴルフや幅跳び、高跳びあたりならいけたかな?)、文化方面に振るのが正解だったのかもしれないが、中学生当時、魅力的に思える文化部がなかった事もあり、次もボクはチームスポーツの部活を選んだのだった。
さあ、42歳のロクデナシ、カトーコーキがお送りする仕事論に関するエッセイ『不労のすすめ』の連載がめでたくスタートしたわけだが、今回はこの辺りでお開きとする。
幼少期のボクが「仕事」をどう捉えていたか、父の話、サッカーの道が早々に閉ざされてしまった話を読んで、これがどう「不労」に繋がるのか?と不安を抱いた方もいるだろう。
しかし安心してほしい。
サッカーの話の中に「自己否定感」、「劣等感」の文字が出てきたが、これはボクが「不労」を語る上において非常に重要なキーワードだ。
事細かに書いている全てが、結末では必ず「不労」と繋がり大きな意味を持ってくる。
楽しみにしていただければ幸いだ。
では、また次回。
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