『不労のすすめ』③〜プロになる方法〜
漫画家兼ロクデナシの仕事論エッセイ『不労のすすめ』の連載も3回目を迎えたわけだが、1回目から漏らさず読んで下さっているあなたは、もう立派な「ロクデナシ」だ。
というのは言い過ぎだが、「ロクデナシ」に片足を突っ込んでいるくらいにはなっているかもしれない。
こちらの世界へようこそ。
第3回目を読んで、益々「ロクデナシ」への理解を深め、するべき振る舞いを学んでいただきたい。
さて、第3回目の記事も、これまで同様”自己申告制”の有料記事としたい。
購読料は1記事ずつ、それぞれに500円。
これまで6名の方から、計4,000円の購読料と応援をいただいた。
誠にありがたい事である。
目標は80,000円なので、残りは76,000円となるが、連載中にこれが達成できずとも、後々この記事を読まれ、お支払いをいただく方もいるだろう事を考えれば、ゆくゆくこの目標を達成できればいいと思っている。
ただこの”自己申告制”のお支払い方法、初めてやってみたのだが非常に好感触だなというのがボクの印象だ。リアルタイムで既に6名の心を動かし、お代をいただけているのだから、なかなかのものである。
もし何らかの理由により購読料のお支払いに気が進まない方は、代わりにこの記事をSNSやブログなどでシェアしていただきたい。
その行為にボクが500円の価値をつける事で、購読料はチャラという事で。
というわけで購読料のお支払いはこちらからどうぞ。
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このシステムを採用し、購読料をいただいてみて、思い出した事がある。
ワーキングホリデーを利用し、ニュージーランドで過ごした経験のある友人の話だ。
彼は、ニュージーランドでは、プロだろうがアマチュアだろうが、音楽をやっていれば自らをミュージシャンと称するが、日本人はプロでないと自分をミュージシャンとは称さない事が不思議だ、と言っていた。
ボクは海外の事はよく知らないのだが、確かに日本においては、プロでなければミュージシャンとは名乗らない。
その背景にあるものを考えてみたのだが、日本では表現活動に対する一般的な評価が低すぎる事が原因なのではないだろうか?
どうにも表現者=ロクデナシのイメージが未だに根強い気がしてならない。
ボクが漫画を描いている事を知った人が気軽に、無償でイラストの依頼をしてくる事がある。
その人は、カレー屋さんが出すカレーには価値を感じ、800円を支払っているし、喫茶店で出るコーヒーには価値を感じ500円を支払うのに、ボクが3時間かけて描いたイラストには1円のお金も支払う気がないのだ。
これはとてもおかしな事だとは思わないだろうか?
これは依頼という名の「搾取」でしかない。
しかし残念な事に、漫画やイラストは(他の表現活動にも当てはまるものがあると思うが)、現状では評価の対象になりにくく、気軽にこんなおかしな依頼をされる事がままある。
まあそう行った場合大抵は、忙しいと言って断るが。
そんな中にあるからこそ、初回、2回目とお読みいただいた方々の中の6名が、購読料をお支払い下さったという事実がボクの中でいっそう輝いて見えるのだ。
彼等は、ボクをエッセイスト又はライターとして認めて下さったという事に他ならないのだから。
自分にその価値を付けていただいた事も嬉しいのだが、彼等のような人々もちゃんといるんだという事がとても励みになる。
少し前置きが長くなってしまったが、ここらで第二回の続きに参りたい。
前回は、ボクがどうやって仕事を選んできたか、どうして失敗という結果になってしまったのか、それを回避する為には何が必要だったのかについて語ってきた。
今回は「好きでもない仕事」を捨てて何をすべきなのか?
どう考えていけばよいのか?について語っていこう。
まず、ボクの「仕事とお金」の歴史を紐解いていこうと思う。
ボクが初めて就いた仕事、陶芸家・陶器屋の時代も、美容師の時代も、漫画家という肩書きを手に入れた今も、ひと月とかふた月とか、短期的な意味では何とかなった時もあるのだが、長期的に見れば、自分一人の金力(かねぢから:金を稼ぐ能力という意味のボクが考えた造語)で生きてこれた事は無い。
常識的な人から見れば、これはさぞかし異常な状態・人間に映るだろうし、恥ずかしい奴だと思われても仕方がない。
実はボク自身も恥ずかしい、情けない思いに苛まれ長らく苦しんできた。
何せボクは幼少の頃から、例の父親から、徹底的に常識を叩き込まれた人間であり、父親に作られた自分、仮面を付けた自分は非常に常識的なのだ(自分で言うのも何なのだが・・・)。
しかし、その「常識的な自分」が、「本当の自分」を苦しめ続けて来た事もまた事実で、いつだって常識から逸脱し、突拍子もない事をしたり、夢を追いかけたい気持ちを折られ、道を阻まれてきた。
そんな苦しみを抱えつつも、常にボクの中にあった気持ちは、「働きたくないなぁ」というものだった。
何を隠そうボクは、幼少の時分から、「働きたい」と思った事が一度も無いのだ。
大人達はいつも「仕事」に囚われ、幸せには見えなかった。
ボクの周りには幸せそうに働いている人など一人としていなっかった。
そんな様を見て、人を苦しめる諸悪の根源である「仕事」をする事に憧れる気持ちを抱けるだろうか?
残念ながらボクには、嫌な事をし続けなければならない意味が、心の底からわからないのである。
ボクは高校入学を控え、進路を決めなければならない時期に差しかかった時、高校進学をしない事を真剣に考え始めていた。
もう頑張りたくない、頑張れないと思っていたのだ。
そして、中学を卒業したら牧場に勤め、牧草地の上に寝転び、頭の後ろに手を組んで、少し長い葉っぱを咥え、流れていく雲をただ眺めて暮らしたいと考えた。
アニメなどのシーンとしてよく思い浮かべるアレであり、このエッセイのイメージイラストとして描いたあの感じである。
要するに何もしたくなかったのである。
読者の皆さんはこの考えのおかしさにお気づきだろう。
そう、牧場はそんなに甘い所ではない・・・。
ある日、牧場に勤める若者の1日を追ったテレビ番組をボクは視てしまった・・・。若者は朝4時頃に起床し、牛舎の掃除を始めると、朝飯や昼飯を挟みながら夕方までずっと働き通しのスーパーハードな日々を過ごしていたのだ。
ボクの夢は一瞬にして砕け散った・・・。
牧場勤務は、何もしたくないというボクのニーズに全く合わないれっきとした「仕事」だったのだ。
その時の衝撃ときたら、本当に凄まじいものだった。
何故なら、何もせずにのんべんだらりと生きる今後の道を、ズバッと断たれた気持ちになってしまったからである。
「あぁ、ボクの人生はもう終わった。」と、そう思った。大袈裟ではなく本当に・・・。
しかし、状況として「終わった」としても、命は「終わって」おらず、日々は続いていく。
だとするとのんべんだらりと生きていける別の手立てを考えなければならない。
そうしてボクが何とか絞り出した答えが「さすらいの芸術家」だった。
おそらくこれはテレビドラマになっていた「山下清」の生き方に触発されたものだと思われる。
金も無いのに旅をして、金も無いのに宿に泊まり、金も無いのに飯を食う、最後に絵を置いて姿を眩ますも、価値があると知り人々は大喜び。
最高ではないか。
そんな暮らしに憧れを強くし、ボクは中学の卒業文集の将来の夢の欄に「さすらいの芸術家」と書き、その状況を自分の手で獲得すべく、高校に進学する事にしたのだった。
この「さすらいの芸術家」にはどんな意味があるのだろうか?少し考えてみたい。
まず大前提としてあるのが、「のんべんだらり」と生きていきたいという思いだが、この言葉の裏には、「好きでもない仕事」を嫌々したくないという気持ちがあるのがわかる。
つまり、自分の好きな事を好きな時にやって、それによって金を得たいという事だ。
今ではどんな職業の人でも、「品行方正」を求められ、少しでも常識に沿わない事をすれば、すぐにSNSで叩かれる世になってしまったが、昔(明治・大正・昭和初期あたりかと思うが)はそれが許されていた職業もあったようだ。
ボクの知る所では、小説家や画家などがそれに当たる。
勿論、才能があったからこそ成立したのかもしれないが、彼らの中には、現代の常識で考えるところの「ロクデナシ」も多かったと聞く。
金のある家に居候を決め込み、仕事をするでもなく、ただ毎日本を読んだり、酒を飲んだり、討論したり、借金をしまくったり・・・。
またまた最高ではないか・・・。この形は、ボクにとっての理想形だ。
これらの人はこの時代、自分でパトロンを探したり、界隈の仲間に紹介してもらいながら、自分の居場所を確保してきたのだと推察されるが、こういう文化が無くなってしまった現代において、この形を目指す事はなかなか難しいだろう。
ある一定以上の成果を既に上げているのであれば、スポンサーになってくれる企業を探す事もできようが、ゼロの状態からだとほぼ不可能だと思われる。
しかしこれは、かつてであればの話なのではなかろうか?
ボクが子供の頃、小学校二年の三学期に引っ越しをするまでの話だが、家にあった固定電話はダイヤル式のいわゆる黒電話というやつだった。
当然インターネットなど無く、人々が主に情報を得ていたのは、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌だった。
現代はどうだろう。
ほとんど全ての人がスマホを持っている。最早ガラケーですらない。
更にタブレットPCやPCを持つ人も多くいるだろう。
何が言いたいかというと、いつでもどこでも誰でも、引きこもりでもニートでも、インターネットを通じて情報を得る事ができるし、世界とつながる事ができるのだ。
つまり、かつてのようにその世界に入り、コツコツと努力を積み重ねた者だけが日の目を見られるわけでは無く、大人でも子供でも老人でもインターネットを使って、いつからでも学び始める事ができ、自分の武器に磨きをかける事ができるだけでなく、簡単に発表できる場を手に入れた事で、今日まで無名だった人が、明日いきなり有名になる事もできるようになったという事なのだ。
この環境を使わない手はないのではないだろうか。
事実、ボクは他者の描いた漫画と、インターネットを使って学び、インターネット(ブログ)を使って漫画を発表した事が、漫画家デビューの間接的なきっかけになっている(直接的には持ち込みがきっかけ)。
YouTubeやTikTok、Instagramでの有名人も、かつては芸能人と呼ばれる人達にしか許されなかったジャンルで、素人として発信し始め、お金を稼ぐまでになっている。
漫画やイラスト、音楽、小説の世界にも同じ事が言える。
これらをアマチュアが発表する場がネットの中には沢山存在するし、そこから生まれた新たなスターも沢山いるのだ。
これには、インターネットがどんどん一般化した事の他に、機器自体の急激な発展とアプリの発展も大きく関わっている。
20年程前は、高度なデザイン系のソフトや動画編集ソフトはその道の専門家だけが持っている特別なものというイメージだったが、今や誰でも簡単に、スマホでデザインを作ったり、動画を編集する事ができる。
勿論今でも、プロが使うソフトと素人が使うソフトには、できる事に大きな差があるのだろうが、個人が何かを始め、発表する際に使用するなら、フリーソフトで十分というレベルにはなっている。
実際ボクはフリーソフトですら使いこなせていない事もざらにある。
いやいや、とはいえ、プロになれるのはほんの一握りの人だけなんじゃないの?と言う人もいるだろう。そんな人はちょっと考えてみていただきたい。
あなたが想像したプロは誰だろうか?
漫画『ONE ◯IECE』の作者・小田◯一郎氏だろうか?
バンド・RAD◯IMPSのボーカル・野田◯次郎氏だろうか?
映画『君の◯は』の監督・新◯誠氏だろうか?
確かに彼等は誰もが知る有名なプロの漫画家であり、プロのミュージシャンであり、プロのアニメ映画監督だ。
しかし、ボクやあなたもそうならなければプロと名乗ってはいけないのだろうか?
答えは否である!
ボクは、その仕事において、たとえ1円でも収入を得ているのならそれはもうプロだと思っている。
もしこの考えが受け入れられないのなら、あなたはお金を稼ぐ+有名である事がプロの証だと考えているのではないだろうか?
まず、有名という言葉が曖昧すぎる。
この言葉には何の基準もない。
自分がその界隈に詳しければ主観が入る事もあるだろう(このジャンルでは彼は有名なのに、君は知らないの?といった具合に)。
有名であるか否かは、全く当てにならない。
世の中で知る人が少なくても、プロとして飯を食っている人は、どのジャンルにもいるだろう。
「プロ」という言葉の解釈を複雑化している要因に、「専業」か「兼業」かという問題もあると思われる。
「専業」でその仕事についており、且つ飯が食えるだけの稼ぎを得ている者をプロと認識している人もいるかもしれないが、先ほど述べた、「1円でも収入を得ているのならプロ」というボクの考えを前提にするならば、「専業」であるか「兼業」であるかは関係がない。
メジャーレーベルやインディーレーベルに所属せず、音楽活動だけで生計を立てている人もいるだろうし、有名な雑誌で連載せず、漫画同人誌の販売だけで生計を立てている人もいると聞く。
ボクもしばしば既存の「プロ」という概念に囚われ、臆病になってしまう事があるのだが、そんなものはさっさと捨ててしまおう。
時間は有限だ。
さて、次に考えるのは、いくら稼げればいいのか問題だ。
まずあなたが、前述の3氏くらい稼がなければと思っているなら、喝っ!だ。
あなたもボクもそうなれるかもしれないという可能性は全く否定しない。
そうなるなら大歓迎である。
しかしまず考えて欲しいのは、自分の現状だ。
もし仮にあなたが年収300万円稼いでる人だとしよう。今すぐ嫌な仕事を辞め、好きな事を始めたい、大きなリスクを取っても構わないと言うなら止めはしない。
だがもし、今すぐ収入がなくなってしまうのは困ると言うのであれば、「兼業」のプロを目指せばいい。
そこで、好きな事でいくら稼ぐかだが、仕事を辞めない以上、収入が減る事はないわけだから、わずかでも好きな事で金を稼げたのなら万々歳だ。
「専業」になりたければ、その中で経験と実績を積んで、どんどん稼ぎを大きくしていけばいい。
そしてもしあなたが引きこもりであったり、ニートであったり、学生であったりするのであれば、何も失うものはないので、今すぐに好きな事、やりたい事を始めればいい。
そもそも稼ぎがないのであれば、やった事はプラスにしかならない。前者の場合でもプラスにしかならないのでそこは一緒だ。やるだけ収入がアップする可能性があるという事だ。
では、具体的に文章、漫画、音楽などをどのようにして「お金」に変えていけばよいのか、ボクなりの考えをお伝えしていこうと思う。
実はこれはどの場合も一緒で、ネットで発表&販売すれば良いと思っている。
例えば文章や漫画であれば、ボクが今回やっているようにnoteやブログなどで発表すればよい。
その際、note上の課金システムを使うのではなく、読んだ人が自己申告する形の支払い形式を取るのが良いのではないかと考えている。
note又はブログの記事の中にbaseなどのネットショップの支払いページのリンクを貼り、そちらで払ってもらう。
何故面倒臭い二段構えにあえてするのかというと、先に課金して記事や漫画を読む事には結構な高いハードルがある気がしているからだ。
実際ボクも、知人のnote有料記事をFacebookなどで見かけた事があるのだが、「何だ、有料か。」と思い、料金を支払って読む気にはならなかった。
自分がその人の余程のファンである場合は成立するかもしれないこのシステムだが、ファンでもない知人レベルでは100円だったとしても支払って読むには至らないケースがままあるという事だ。
いや待てよ?自己申告でお金を支払ってもらうシステムにすると、読み逃げOKになってしまうではないか!?と思われるかもしれないが、全くその通りだ。
確かにお金を支払わずに読み逃げる人もいるだろう。しかしながら、note上で有料にしてしまえば、読者は有料部分を開けずに、つまり中身を全く見ずにその場を立ち去ってしまう可能性が高い。
それではせっかく良いものを書いた(描いた)としても、はなからお金を払って面白いかどうかもよくわからないものを読もうという稀有な極々少数の人にしか、自分の作品が届かず、「読み逃げ」=「水面下でファンになってくれる人」をごっそり逃してしまうかもしれないのだ。
であれば、支払いはそれぞれの良心に任せ、noteやブログ上では無料で読めるスタイルで行く方が良いのではないかと考えたわけだ。
最後まで読んだ後、これは料金を支払うべきだと思ってくれる人もいるかもしれない。
このスタイルは、実際にやっているが人いる。
ボクはそれを見た経験から、こう思い始め、やってみる事にしたというわけだ。
これが上手くいくかはわからない。
その人は上手くやっていたが、ボクも上手くいくとは限らない。
けれど、このやり方には元手がいらない。とにかくやってみれば良いのだ。その上で問題が発生すれば修正していけば良い。
何事もトライ&エラーだ。
そしてこのシステム、何も読み逃げのデメリットだけを抱えているわけでもない。
実はメリットもちゃんとあるのだ。
例えばだが、文章や漫画の冒頭でも末尾でもいい、「応援したいと思ってくださる方は、[購読料]を複数個ご購入いただく事もできます」と記しておけばどうだろう?
頑張ってほしい、応援したいと思う人は、仮に500円としたbaseなどの販売ページの[購読料]を2ヶ、3ヶ、購入してくれる事も十分ありうると思うのだ。
読み逃げがどうしても許せないという方は、こう考えてみてはいかがだろうか?
もし自分の書いた文章、描いた漫画を楽しんでくれたなら万々歳だし、仮に楽しんでもらえなかったとしても、30分、15分、10分、その人の暇つぶしになったのなら、それは人の役に立ったわけだからそれでいいじゃないか、とは思えないだろうか?
人の役に立つ事ができるというのは実に喜ばしい事で、ボクは完全ニートだった頃(今は半分ニート・半分漫画家だと思っている)、漫画が出版される事が決まり、こう思った。
「これでやっと世の中と繋がる事ができるんだ」
と。
誰かの役に立つという事は、誰かと繋がったという事であり、それはどんなに小さくか細いとしても、社会との繋がりができ、社会に居場所を作った事になると思うのだ。
これは、「兼業」の方にも言える事で、「兼業」の方は元々やっている「仕事」で既に社会と繋がっていて、社会の一員であるのだが、新たに始めた「好きな事」をする自分としてはまだ、社会との繋がりのない「赤ん坊」であり、繋がりができていくごとに喜びを感じ、実績と自信を得ていく事になるだろう。
重要なのは、いかに早く少しでもお金を得られるかではない。
自分の好きな事でいかに多くの人と繋がれるかなのだ。
それが勝手にお金に繋がっていく、ボクはそう考えているのである。
音楽活動の場合はどうだろうか?
こちらは文章や漫画のようにはいかないかもしれない。
というのも、文章や漫画であれば文章やデジタル原稿をnote上で公開すれば良いが音楽データをnote上で公開できるかわからないからだ。
と、書いている内に気になったので調べてみた・・・・・・。
皆さん、朗報だ!
何と!noteでは音声や、楽曲などのデータも掲載できるのだそうだ(最大50MB、形式はMP3,ACCという条件付きだが)。
というわけで、音楽活動に関しても同じ手法で発表できる事がわかったが、何もnoteに縛られる必要もない。
もしあなたが、簡単でも、MVを作れるのだとしたら、又は少し学んで作れるようになったのなら、Youtube等の動画投稿プラットフォームにアップし、baseなどのwebショップの購入ページのリンクを貼り、自己申告での購入という説明文を書き記せばいい。
これでもうあなたはクリエイターへの第一歩を踏み出せるのだ。
本当に素晴らしい時代である。
ここまで、文章、漫画、音楽の三つにおいて、どうすれば第一歩を踏み出す事ができるかを述べてきたわけだが、この三つで説明したのはボクがこの三つの事柄と親和性が高いからに過ぎない。
何も、あなたのやりたい事が、この三つである必要は全くない。
介護や保育等の仕事は、一般的に薄給で仕事内容もハードであるとされているが、介護や保育が好きでその仕事を心からやりたいと思っている人はそれでいい(待遇は改善されるべきだが)。
どんな仕事にも優劣はない。コンビニの仕事であってもだ。
例えばコンビニマニアで、コンビニで働く事に幸せを感じるなら、それは素晴らしい事だと思う。
これはどんな仕事にも当てはまる。
コンビニが大好きだが、コンビニで働きたいとは思わないという人は、コンビニで働かずともその想いを形にできる方法を考えればいい。
コンビニごとの商品配置に関してであるとか、オリジナルブランドの新商品を紹介するブログを作ったり、動画を作ってYoutubeでシェアする手もあるだろう。
「それ」が好きだからといってそこに入って働く事だけが、「それ」と関わる方法ではないという事だ。
何を仕事にしても自由だが、問題は、その人が心からその仕事をやりたいと思えているかどうかなのである。
金が必要だからこの仕事をしているとか、社会的な地位が保たれるからなどの理由で仕事を続けていける、それでも幸せだと思えるメンタルの持ち主はそのまま続ければいい。
しかしボクのように、それでは心が壊れてしまうという人は、やはり徐々に「やりたくない仕事」の分量を減らし、又は維持しつつ、「やりたい事」をやるという選択をするしかない。
その内容がどんな仕事であってもかまわない。
幸せを感じられるかどうかで判断すればいいという事だ。
今回はこの辺りでお開きとしよう。
今回は、「やりたくもない仕事」を打ち捨てて(打ち捨てなくてもよいのだが)、何をどうすべきなのか?についてお話ししてきたが、いかがだっただろうか?
1円でも稼げればプロという考え方が、あなたの凝り固まったプロ観を解きほぐされ、「好きな事」をやってみようと少しでも思っていただけたのなら幸いだ。
身近にあなたの「好き」を認めてくれる人がいないのなら、ネットの世界に目を向けてみてほしい。
ワンクリックで世界と繋がることのできるインターネットは、あなたの閉塞的状況を打開してくれる心強い武器になってくれるはずだ。
さて、次回は「仕事」という言葉の意味を解き明かすと共に、見失ってしまった自分の「好き」の見つけ方について語っていきたいと思う。
どうぞお楽しみに。
ではまた次回。
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