【手仕事の玉手箱 Vol.1】 芸者さんにとって正月三が日は新しい引き着が命!→友禅職人の年末は寝れない日々に
96歳岡川先生のお話は、一言で「玉手箱」!!
今ではなかなか知る由もないような
かつての着物業界の裏方のこと、
着物も社会の流れと結びついていることなど。
すごく興味深い話があふれ出てきます。
先生にとっては実際にあったことを楽しく思い出して
お話してくださるだけなのかもしれませんが、
こんな話をできる作家(職人)さんは、
現在ではもう数少ないのではないでしょうか。
せっかく近くにいるので、色々なお話を伺っていきたいと思います。
第1弾は、「年末の着物・職人仕事について」
お話を聞かせていただきました。
🌸~『彩が聞く♪手仕事の玉手箱』Vol.1~🌸
➖友禅職人にとって、年末はまさに師走! 最高に忙しくて寝れない~➖
年末は、友禅職人にとって1年で最も忙しくて、
徹夜も当たり前の時期でした。
岡川先生は昭和14年~ 著名な友禅作家に丁稚奉公し、
戦争から復員して昭和23年~28年頃まで、
その工房で色挿しなどをされていたそうです。
この時代というのは、芸者さんが大勢いらっしゃって、
”お正月の3日間は、引き着(ひきぎ)を着ることが命!”でした。
芸者さんの全員が新調した引き着を身に着けるので、
相当の数の注文が入り、年末はものすごく忙しく、
仕事終わりは毎日夜中の1時頃。
当時は労働時間云々を言う時代ではなく、
バタンと眠さで倒れるまで仕事をする、それが当たり前でした。
9月に生地が入って、10月には絵柄が決まり、制作が始まる。
私も友禅をやっているので、ここの9月~10月の絵柄を決めるところまでも
相当に大変だったのではないかなと想像します。
芸者さんは新調した着物で自分を輝かせるのですから、
絵柄だってとことん凝りたいですよね。
素人さんではないですから、皆と一緒ではない、個性的な注文も
多かったのではないでしょうか。
夜中まで仕事し、特に年末は徹夜にもなったそう。
1カ月に何反も仕上げます。
年末になると、呉服屋の番頭さんが制作している部屋の入口に座り込んで、見張っているそうです。
いないと、他の呉服屋さんの仕事をされてしまうので、離れないそうで・・・。
芸者さんにとって、正月三が日の引き着は命!
↓
正月に顧客である芸者さんにしっかり届けるために懸命となる呉服屋さん
↓
職人さんには、いくつもの呉服屋さんから注文が入るので、
呉服屋さん同士は、ウチのこそ先に!と競って、先生のお宅に座り込み
↓
職人さんは眠れない・・・
大変な流れですね。
いよいよ年末、年の瀬が迫ってくると、
番頭さんが、先に袖だけ仕立て屋さんに持ち込んで縫ってもらい、
「下前ができたよ」となると、
下前だけを持っていって。
という風に、
描きがった箇所から都度仕立て屋さんに持ち込むなどもしていたそうです。
➖芸者さんの引き着って、どんな着物? ➖
「引き着」とは、床に裾を引きずる和装のことで、
「引き着」や「お引きずり」と言います。
テレビ等で見る大奥の女性達が、床に裾を引きずって広がったシルエットで歩いている、
あれです。
床に引きずると裾が汚れてしまいますよね。
それで、着物を少しつまみあげて歩く訳ですが、
これを「褄(つま)を取る」と言います。
今でも京都に行くと、芸者さん、舞子さんが「引き着」で歩く時には、
褄を取って歩きます。
左手で褄を取ることから、芸者・舞子の世界に入ることを、
「左褄を取る」と表現しています。
・色;「引き着」の色は多様で、玄人っぽい絵柄、色だったそうです。
・絵柄の量;一般の着物は1尺8寸 振袖は2尺5寸 に対して、
引き着は、3尺5寸つくそうです。
いかに引き着が豪華なものだったか、手のかかるものだったかがわかります。
1940年(昭和15年)7月7日に、
いわゆる「七・七禁令(しちしちきんれい)」(奢侈品等製造販売制限規則)
が、当時商工大臣だった岸大臣により出されます。
これにより、着物は、”1尺に1柄”と柄入れについてきまりができ、
仕事がガタ落ちしたそうです。
赤坂の小梅さんは、”梅の古木”の絵柄が多かったそう。
また、女優の高峰三枝子さんは、”折り鶴”専門でした。
戦後、芸者さんから一般女性へと呉服を購入する人も変わっていきます。
こちらの話しはまた投稿していきまね!
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