Fate/Revenge 12. 翡翠の鳥──Blauervogel-②
二次創作で書いた第三次聖杯戦争ものです。イラストは大清水さち。
※執筆したのは2011~12年。FGO配信前です。
※参照しているのは『Fate/Zero』『Fate/Staynight(アニメ版)』のみです。
※原作と共通で登場するのはアルトリア、ギルガメッシュ、言峰璃正、間桐臓硯(ゾォルゲン・マキリ)です。
※FGOに登場するエンキドゥとメフィストフェレスも出ますが、FGOとは法具なども含めて全く違うので御注意下さい。
エヴァ・ブラウンは総統官邸に接続するマリー・エリザベス・リューダー館の一室で目を覚ました。エヴァが総統の愛人であるということは最大級の国家機密であり、彼女は人目を憚らねばならない身分だった。
以前はそのことがエヴァを満足させた。
自分がいかに特別な存在か、その事実が証明してくれた。
だが今は違っていた。いかに自分が素晴らしい存在か気づいてしまった後では、そんなことは自分を拘束する枷でしかない。彼女は苛々としてベッドの中で腕を伸ばした。もっといいことがあるはずよ。わたくしに相応しい、総統の愛人などという地位より、もっと素晴らしい場所に自分は登ることができるはずだ。
そのためには、まず、あの男の怒りが自分に向かないようにしなければ。
そして気づいた。
ひょいと手を伸ばしたときに自分の身体が決定的に変わってしまっていることに。
「おかしいわ。なんかおかしいわ」
エヴァは繰り返して起き上がった。
彼女は何の気なしに、ごく簡単な魔術、つまり窓辺のカーテンを動かそうとしてみた。手をいくら閃かせて合図をしても、カーテンはひらりともしなかった。
エヴァは昨夜、娼婦宿から死にもの狂いで逃げ出し、自分がどれほどの魔力を消耗したか、分かっていなかった。依然として魔力供給路が繋がっていたアーチャーが、どれほど莫大な魔力をエヴァの中から引き出していったかを、全く気づいていなかった。
もともと貧弱だったエヴァの魔術回路は、アーチャーの宝具『全てを破壊、撃破せよ』によって焼き切られていた。
要するにエヴァは魔術師ではなくなっていたのである。
「……」
ヒステリックに叫ぶかと思いきや、エヴァは押し黙った。
エヴァは意識が遠くなりそうだった。彼女は自分の変化を認めようとはしなかった。彼女に分かるのは漠然とした恐怖、自分にとって何か不利なような気がするといった程度だ。どこまでいっても彼女の意識は、自分にとって都合の悪いものは受け入れないのだった。
そのとき扉がノックされた。
「フロイライン、お目覚めでしたら総統閣下がお呼びです」
エヴァの意識がすうっと下がった。それでも自分はあの男に対して圧倒的に有利な立場にいる。彼が自分を好きなのだ。なんでも、とにかく上手くいく。
「少しだけ待って」
根拠のない自信が心の中で組み上がると、エヴァは立ち上がった。
エヴァはお気に入りのスキャパレリのワンピース──もちろんローズ・スキャパレリと呼ばれるあの色のバイアス遣いの仕立て──を着て、レースの手袋をはめた。念入りに化粧して気がつくと一時間も経っていた。最後に仏蘭西の大きな羽扇を手に持った。お気に入りの黒いパンプスに足を通す。
さあ、よし。
エヴァが廊下へ踏み出すと、忠実なカール・ヴォルフ中将が廊下で直立不動の姿勢でいた。
「さ、連れてって」
「こちらです」
エヴァが通されたのは同じ館の中にある奥まった一室だった。
独逸一有名な小男はとにかくエヴァが他人に見られることを怖れている。エヴァは大人しく閉じこめられている女だから気に入られている。だが、それはエヴァが大人しい女であるということを意味しない。
彼女はぱちんと羽扇を広げて、ひらひらと動かしながら男に歩み寄った。
「聖杯はどうした」
「わたくしは戦争には敗れました。だってかよわい女ですもの。わたくしだけでは無理だったのですわ」
強気な態度と裏腹にエヴァは哀れっぽい声で男にすりよった。
「わたくしが聖杯を手に入れるには閣下の助けが必要です」
「私の? それは、どういうことだっ」
気色ばむ男の頬にエヴァは閉じた扇をぐいーっと押しつけ、その顔を歪ませた。彼女は小馬鹿にしたように笑う。
「ね、閣下はこの国のどこへでも誰でも派遣することがお出来になりますわね」
「うむ」
「では簡単なことですのよ」
エヴァは自分が助かるためならば、どんな嘘でもするすると言い、それを言ったことさえも忘れてしまえる。彼女はずっとそうしてきたのだが、自分が嘘をついたことも覚えていないので、自分がとてもいい人間なのだと信じて疑わずにいられる。
だから彼女の言葉は確信がある人間の響きを持つ。
「聖杯は『始まりの御三家』と呼ばれる三つの家が管理をしているらしいのです。聖杯があるのは、この独逸で、しかもマキリという家が関わっているらしいのです」
エヴァは聖杯について正しい知識を持っていたわけではない。だが魔術師の間で『始まりの御三家』は有名であったし、その名前もつとに知られていた。正体の知れないアインツベルンに対して、マキリの方が地元密着型の生活をしていたのも事実で、遠坂は鼻から独逸になど住んでいない。
エヴァは思いつきでマキリの名を口にしたのだが、それは思いもかけない効果を現すことになる。
小男がちょび髭を歪ませて首を傾げる。
「マキリ? 聞いたことがないな」
「調べさせればいいのです。貴方にできないことはないのだから」
「そうだな」
「そして持ってこさせればいいのです。マキリが秘匿している聖杯を。聖杯を手に入れるのが、聖杯戦争の勝者だけと決まっているわけではないのではありませんか」
エヴァの囁きは総統閣下の頭の中で形をとっていく。それは自分が聖杯を手にし、世界中からひざまずかれるという素晴らしい妄想だった。
「ヒムラーを呼べ!」
男の叫びにヴォルフ中将が慌てて扉を開け、一礼した。
「直ちに呼び寄せます」
「うむ」
羽扇の向こうでエヴァはにっこり微笑んでいた。ああ、これでわたくしの失敗はこの男の頭から消えてしまうわ。上手くいってもいかなくても、悪いのはマキリだもの。わたくしは救われた。それが一番大事なことよ。
だって、わたくしは何も悪くないのだもの。
エヴァは満足して微笑むことができた。
アンは霊体化したキャスターを連れて、シュプレー川を越える。橋の上から振り返ると北側に壮麗な宮殿が輝いている。巴里風の豪華な宮殿は独逸国民の誇りだ。アンの心の中にキャスターが語りかけてきた。
『行きなさい。教会はもう、すぐそこだ』
「分かってるわ」
アンは橋を渡り、泉でちょっと咽喉を湿した。陽が高くなり影が短い。少し暑いと思った。夏が近づいている。だが浮き立った気持ちにはなれなかった。
処刑人てのは毎日こんな気持ちなのかしら。
アンは自分がキャスターの首に縄をかける役人のような気がして、涙が出そうだった。教会へ行けばキャスターは消える。それは直感に近かった。
だが毅然と顔を上げて教会の裏口を叩いた。
すると神父服を着た勇ましい女性が扉を開いた。端正で落ち着いた雰囲気だが、男性の服を着ていることが、かえって豊満さを引き立てて印象的な女性だった。口調も淡々として丁寧だ。
「アン・マルガレーテ・ファウスト嬢ですか」
「はい」
アンは頷き、意を決して自分の胸に手をあてた。
「あたしがキャスターのマスターです」
「宜しい」
女性はすぐにアンを招き入れた。彼女に連れられて教会の中に入ると、空気はひんやりと石の匂いがして涼しかった。女性はアンを調度の揃った絨毯の部屋に通した。
中には既にアンはよく知っている、だが初めて会う人々が集っていた。監督役言峰璃正に遠坂明時、さらにランサーのマスターたるウォルデグレイヴ・ダグラス・カー、アインツベルン製だというホムンクルスの美女。驚いたことに彼女は昨夜の痛ましいドレスを着替えていなかった。顔や手足は清めたようだが、焼け焦げ、擦り切れたドレスをまとったままだった。アンを案内してきた女性も室内の隅の椅子にちょこんと腰掛けた。
アンが扉をくぐる瞬間、彼女の背後にキャスターが実体化した。黒いインバネスを浮かせ、灰色の髪を撫でつけた紳士に一同がどよめく。彼らは初めてキャスターを目にしたのだ。キャスターが視線を上げると室内が静まり返った。
監督役も茫然と見守る中、物怖じせずに近寄ってきたのは、やはり遠坂明時だった。
アンを先導してきた鳥は、彼の手の中に戻ると大きな翡翠に変わり、その後、砕け散った。アンは目を見張ったが、声は立てなかった。明時は砕けた翡翠をポケットに入れ、緊張するアンに笑いかけた。
「初めまして。よく来てくれました」
彼が伸ばした手をアンは礼儀正しくしっかりと握った。
「初めまして。貴方のことは知っています。遠坂明時」
「キャスターのマスターがこんな美しいお嬢さんだとは思いませんでした」
アンは自分の美しさに無頓着だったので、服装のことを言われたと思った。自分の爪先を見下ろしてしまう。青と白のストライプのドレスに白いレースのエプロンという姿は、教会に来るには異質だったし、ましてや室内に集ったマスターたちの中でも浮いている。アンはなるほどと納得してしまったが、明時は純粋にアンの華やかな顔立ちを賞めてくれたのだった。
明時は丁寧な独逸語で滑らかに喋った。
「お名前を伺ってもよろしいですか、お嬢さん」
「あたしはアン・マルガレーテ・ファウストと申します」
アンは胸を張って答えた。それは魔術師たちの中では輝かしい名前だった。明時が背後を振り返り、ウォルデグレイヴが目配せして微笑んだ。
「なるほど。ファウスト家の末裔でしたか。道理で私たちでは見つけられないわけだ」
彼もアンに握手を求めた。ウォルデグレイヴは貴族のように背が高かったが、取っつきにくい雰囲気はなく、青い瞳は優しそうに見えた。アンは彼が消耗しきっていることを知っている。だが顔色はよく声にも力があり、これが一流の魔術師というものだろうかと感心した。アンはドレスを引いて会釈した。
「あたしは魔術師とは言えません。ほとんど魔術は使いませんので。あたしたちを隠していたのは我がサーヴァント、キャスターに他なりません」
アンが背後を視線で示すと、ウォルデグレイヴは興味津々といった様子を隠さず、キャスターをじっと見つめた。
「貴方は、いずこ名のある魔術師でしょう。私は貴方に聞きたいことがたくさんある」
「何なりと」
「本当は貴方が誰か知りたいのですが、聖杯戦争において、それはあまりにも不躾な質問です。貴方の使うさまざまな術も私は知らないものばかり。とても興味があって、その、貴方に弟子入りしたいというのが本当のところで」
率直な言葉に明時が笑い、璃正が微笑んだ。その顔を見たとき、アンは不思議な気持ちになった。キャスターの本の中から見ただけでも真面目な青年だったが、実際に会ってみると彼は温かい空気をもっていた。近くに行きたくなるような、人々が神父に期待する雰囲気そのものだった。
遠い東洋で、どうしてこんな人が育まれたのかしら。
こういう人を神父さまと言うのね。
「ダグラス・カーの長が私に膝を折るのかね?」
キャスターが楽しそうに微笑んだ。
「私もそなたの家の術に興味があった。人を癒すことに特化した魔術師など、そういるものではない。我が名はメフィストフェレス。人ではないよ」
キャスターが言った瞬間、背後からしわがれた声が笑いかけた。
「おーう、ファウスト! ドクトル・ファウストじゃないか、久しいのう」
一同がぎょっとしたのは声がした場所に誰もいなかったからだ。だが、そこには急速に黒雲が沸きあがる。恐ろしい数の羽虫が集まって人の形をとっていく。それは小柄な老人で手には杖を持っていた。古めかしいチュニックとローブを重ねて、まさに魔術師といった風情──マキリ老ゾォルゲンその人だった。
キャスターがインバネスを翻してゾォルゲンを振り返った。
ゾォルゲンは洞のように爛と光る目でキャスターににやにやと笑った。
「わしの造ったシステムに引っかかるとは、おぬしも耄碌したもんだのう。新進気鋭の魔術師だった頃の面影はないな」
「私はちょうどいい梯子があったから使っただけだ! お前が造ったかどうかなど、どうでもいい」
「何がメフィストフェレスじゃ。悪魔ぶるにはおぬしは修行が足りぬわ、ファウスト」
ゾォルゲンがわざとのようにファウストの名を強調する。アンがぐりっとキャスターを振り返った。キャスターはびくっと肩をはね上げてアンを見つめ、それからしいっと唇に指をあててゾォルゲンを覗きこんだ。
「黙っとれ! 私はあの娘にメフィストフェレスだということにしとるんじゃっ」
「今更遅いわ、じじいっ」
アンが眉をつり上げてゾォルゲンを見下ろした。後々思えば怖い者知らずとは、まさにこのことだった。
「貴方、どこの誰。この人を知ってるの」
びしっとアンが指差したキャスターを見上げて、ゾォルゲンはわざとゆっくり喋った。
「おおう。知っとるとも。こいつは、わしの古ーい知り合いでな、ドクトル・ファウストじゃよ。ゲーテの『ファウスト』のモデルになった学者じゃ。あんたには説明がいらんと思うが」
「貴方、いくつ」
「さあなあ。もう長く生きすぎて、自分でもよく分からん。若い頃マクシミリアン一世陛下にお目にかかったことがあるよ」
この答えにアンは驚愕した。神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世が君臨したのは十六世紀初頭、1500年前後のことだ。見た目からして普通でなく、魔術師であることは間違いない。キャスターの本の中では見なかったからマスターではないのだろう。
「あ、あんた400年も生きてるのっ!?」
「そんなもんかもしれん。わしはゾォルゲン・マキリ」
「マキリ……」
アンはあっと声をあげた。
「あんた、セイバーのマスターのおじいさまね」
若い娘にまじまじと見つめられるとゾォルゲンが笑った。
「話が早くて助かるわい。さあ、わしの言うことを信じるじゃろう?」
面白そうに口元を歪めるゾォルゲンに、アンがかっとキャスターの襟首をつかんだ。
「あんた、あたしにメフィストフェレスとかって名乗っておいて、どういうことなのっ」
「……マスターに本当の名前を告げねばならんというルールは聞いていない」
「だから、あたしに嘘ついたのは一体全体どういう了見だって聞いてんのよ、こら」
娘に絞りあげられるキャスターにゾォルゲンが苦しげに笑い、明時も悪いと思いつつ笑いが堪えきれず、ウォルデグレイヴは微妙な表情を浮かべている。璃正だけがはらはらと気をもみ、アインツベルンの美女は無言で見守っている。
「そなた、私が先祖だと分かったら素直に言うことを聞きよるのか」
「聞くか、ボケ! 嘘ついたって判った時点で信用がないのよっ、あんたはっ」
そこへ空中から笑い声が降ってきた。
「その辺りにしておあげよ、キャスターのマスター」
アンの手はあっと思う間もなく、キャスターから離された。人智を越えた青年の美貌にアンは見とれた。彼は昨夜の危機的な状況からやっと脱したところだった。ウォルデグレイヴの魔力が実体化できるレベルにまで回復したのだ。ランサーが現れたことに明時が少し目を見開き、ゾォルゲンが咽喉の奥で笑っていた。
「あんた、ランサー……?」
「やれやれ。見物に間に合ったぞ。僕の運も悪くはない」
ランサーは楽しそうにウォルデグレイヴの隣に立った。彼はじっとキャスターの目を見据えた。
「貴様がキャスターだな。気配ではよく知っている」
「お互いにな。そなたはよう視えなんだわ。私の術は人間を視るものなのでな」
キャスターの言葉にランサーが含み笑いして俯く。ウォルデグレイヴが微かに眉をひそめた。ランサーが腕組みして扉に視線を流した。
「ほら、最後の客がやってきた」
「遅くなりまして」
扉を開けて清楚な青いドレスの少女が現れた。彼女は男のように一礼して胸に手をあてた。
「私はセイバー。主の命により、名代として話しあいに参加する。宜しいか」
「ああ、ほんとのセイバーだっ」
はしゃいだアンの叫び声にアルトリアが瞬きして顔を上げる。
その髪は満天を照らす月光のごとく鮮やかで、瞳は翡翠の鳥に劣らぬ美しさだった。
アルトリアが現れたので一同は改めて自己紹介をし、面通しをした。本来の聖杯戦争であればありえない状況である。だが聖杯を乗っ取った存在に対する驚異を面々が感じとっていたため、このような奇跡的な状況が成立したのだ。
そうでなければキャスターは決して自らの工房を出なかったであろうし、アルトリアは他のマスターを垣間見ることもなかっただろう。
アルトリアがドレスを揺らして背高のっぽのハイランダーのもとに歩み寄る。大人と子供、いやもっと背の高さは開いていたが、貴いのは小柄なアルトリアの方であった。
「ウォルデグレイヴ、そなた無事であったか」
「はい。陛下も御身保たれ、御無事にお帰りあそばされて、臣も心よりお喜び申し上げまする」
「苦しゅうない。宵までよく休め」
アルトリア自らに手をとられると、ウォルデグレイヴが床に膝をついて平伏する。これには明時が驚きを隠せず、茫然と見つめていた。敵のサーヴァントに忠誠を誓う光景というのも、聖杯戦争において異常である。
そもそも魔術師にとって英霊は遣い魔にすぎないのであるし。
アインツベルンの美女が片腕に小聖杯を抱き、一同を代表して状況の確認を行った。
「今回の話しあいに集まってもらった本題に入ります。我々はこの小聖杯をアヴェンジャーから奪還しなければなりません。アヴェンジャーが聖杯を占有しているかぎり、聖杯戦争で勝者が現れたとしても聖杯は降臨しないでしょう」
「本当に、あれは生きてるの?」
アンが口を挟むとアインツベルンの美女が寂しげに頷いた。
「はい、残念ながら。私は聖杯の守り手。小聖杯の状態を把握することができます。この中にアヴェンジャーはいます」
彼女の確信ある言葉は一同を静まり返らせた。ウォルデグレイヴは気絶していた間に事態が解決するどころか、悪化したことを知った。アルトリアにとってもそれは同じだった。悔しく腹立たしいかぎりで顔を上げていられない。
痛ましい美女が淡々と状況を説明する。
「アヴェンジャーを倒して聖杯に戻すか、何らかの方法を用いて英霊の座から除かなければなりません。それができるのは英霊だけ。現在、生き残っている英霊は三体。セイバー、ランサー、そしてキャスター。貴方たちだけです」
ランサーとキャスターは頷いたが、アルトリアは進み出た。彼女が歩くと金刺繍の裾が衣擦れを起こし、古風なグランパブーツがちらりと見えた。
「待ってほしい。アーチャーはどうしたのだ」
「彼なら僕が倒したよ。セイバー」
ランサーが腕組みしたまま壁によりかかって片目を瞑ってみせた。アルトリアはただ、いつと尋ねる。
「昨日。君がホテルでぐずぐずしていた間にね。簡単なものだったよ」
茶化すようなランサーの言葉にアルトリアはホムンクルスの美女を覗いた。
「マダム・アインツベルン、本当に?」
おや、と明時は眉をひそめる。セイバーはアーチャーが死んだのも知らず、アサシンの不在も全く知らなかった。セイバーのマスターたるカスパル・マキリはマキリ家の次男坊。魔術の修行は全くしていなかったと聞く。しからばセイバーは他の陣営のことは全く知らないはず。
にもかかわらず、彼女はかの人間離れした近寄りがたいホムンクルスの美女を、昨夜から違わずマダム・アインツベルンと呼んでいる。
何故だ。何故知っている?
ホムンクルスの美女がセイバーを微かに見下ろして微笑んだ。
「はい。ランサーの言葉に嘘はありません。昨夜アーチャーはこちらに還りました」
ホムンクルスのたおやかな手が小聖杯を示した。アルトリアはいつのまにか自分が勝ち組の方に入ってしまっていたことに驚いた。そして、あの黒い影に立ち向かえる仲間があまりにも少ないことに。
「なんということだ。私たちだけであれを倒さねばならぬ」
アルトリアが呻くように呟いてしまうと、ランサーは楽しそうに微笑み、キャスターがじっと見つめた。
「昨夜のそなたの技はあれを脅かすだけの威力がある。今宵、万全の状態で戦えるかな?」
キャスターの言葉にアルトリアは俯いた。ごく普通の人間にしか見えないが、アルトリアはキャスターがかなりの魔力を持っているのを肌で感じた。ランサーの話は本当だったのだ。彼の気配はマーリンを思い出させるほど濃密だった。だから正直に答えた。
「……戦う覚悟はできている。だが昨夜のようには戦えまい。私の魔力は残り少ない」
「やはり。ランサー、そなたは」
「僕は戦うなんて絶対無理」
天真爛漫な答えに一同、ことにウォルデグレイヴがぎょっと顔色を変えて詰め寄った。
「ランサー、どういうことだっ、わたしの魔力が減っているせいか。確かに万全ではないが、そこまで酷い状況ではないはずだ」
眉をつり上げるウォルデグレイヴに見下ろされて、ランサーは儚げに微笑んだ。
「そなたには誠にすまなく思う。僕はそなたに聖杯をとってはやれぬ」
圧倒的な強さを見せつけてきたランサーの言葉に明時やホムンクルスの美女も目を見張る。ランサーはふわりとウォルデグレイヴを見上げた。その顔は戦場の勝ち誇る彼ではなかった。どこか優しく、だが、この世のどこにもいない人のように見えた。
「僕にはイナンナの呪いが懸けられている。我が宝具となろうともな、ウォルデグレイヴ、あれはイナンナの、しいては天神アンの送りし天の雄牛であることに変わりはない。あれを再び葬った今、僕の生命はあと十二日しかない」
「ランサー……」
ウォルデグレイヴがランサーの小柄な肩を押さえて、頭を振る。
『ギルガメッシュ叙事詩』に語られる天の雄牛。ウルクを襲った厄災の権化を倒したのち、英雄王ギルガメッシュの親友エンキドゥは、神々の裁定により熱病にかかる。エンキドゥは十二日間も病床で苦しんだのち、手を尽くすも空しく亡くなってしまう。その後のギルガメッシュの嘆きぶりは以後も多くの物語で手本とされるほど激しいものだった。
「僕は我が友を殺すため、神々に遣わされた特殊神造武装。そもそも人間でさえないのだ」
Fate/Revenge 12. 翡翠の鳥──Blauervogel-③ に続く