見出し画像

金剣ミクソロジー⑧北海紀行-①

Fate/Zero二次創作です
注意点
※アルトリアとギルガメッシュが第二次聖杯戦争の後も現界してるif設定
※ギルガメッシュの求婚にアルトリアさんが応えて、二人が夫婦という金剣ドリームです
※FGO未プレイ勢です
※この話のギルガメッシュはキャスターですが、FGOに登場するキャスター・ギルとは別人です。あくまで『Fate/Zero』のギルガメッシュがキャスターだったら、という想定です
※ギルガメッシュはアラブの石油王、アルトリアさんはイギリス随一の実業家&馬主(not JRA)に成り上がっています
※このエピソードは2008年前後が舞台です
※アルトリアさんの結婚指輪はわけあって右手に嵌めています
※トップイラストは大清水さち https://x.com/sachishimizu さんに描いていただきました
↓今までのまとめ


 ギルガメッシュにとって、最も優雅で王に相応しき遊びは船に乗ることだ。ただ乗るだけでなく、何日も船でゆったりと旅をして、どこかに行くこと。それが肝要であると思っていた。シュメルの王は船を仕立ててエリドゥやウルに詣でる義務があったのだが、それは道中を愉しむ遊びでもあり、視察でもあった。
 であるから、ギルガメッシュがアルトリアを船遊びに誘うことも自然だった。
「船?」
 アルトリアは最初、眉をひそめたものだった。 彼女にとって海とは遊ぶ場所ではなかった。荒れる外海に船を出すのは対岸の領土に渡るためであり、王の努めに過ぎなかった。民が出す船も同様であり、漁をするため、生きていくために船に乗るのだ。
 だからギルガメッシュは、アルトリアを船遊びに慣らすためにいろいろと気を遣った。揺れない川や地中海から初めて、少しずつ日数を伸ばし、様々な場所に出掛けるようになった。
 するとアルトリアはもともと水の上を恐れぬ質──船旅を愉しむようになっていった。
 そして幾歳、夏のヴァカンス、クリスマス。様々な時期に二人は船に乗るようになった。計画も二人がそれぞれ持ちかける。
 庭先のテーブルは二人の旅の計画所でもあった。
「ギルガメッシュ、今年はビルマに行かぬか」
「よいが、そなたは大丈夫か。あそこは熱帯もいいところだぞ」
 アルトリアがティーポット片手にギルガメッシュを胸を張る。彼女はぽんと片手で小さな胸を叩いてみせた。
「大事ない。クルーズで行くのは一週間に過ぎないし、船の中には冷房もある」
「まあ、それはそうだが。そなた暑いところはからきし●●●●ではないか」
「今度は大丈夫だ!」
 アルトリアが澄ました顔でギルガメッシュの向かいに腰を下ろした。
 熱帯育ちのギルガメッシュは寒いのが苦手で、暑さに強い。夏は暑いところで思いきり陽に当たり、だらだら過ごしたいと考えている。対してアルトリアは寒冷期に生まれたのが災いしてか、暑さにとんと弱かった。記憶があやふやになり、日常生活もままならないこともある。反面、寒さには強靱で、装備さえきちんとしていれば北欧ロシアでもけろりとしていた。夏は避暑地を好む。
 というわけで、二人が過ごしたい場所は常に食い違う。それを考慮した上で、二人は互いに相手が行きたがりそうな場所を言う。夏のヴァカンスの打ち合わせは、常に懐の探り合いという面倒くささを伴っていた。
 アルトリアがカップを取り上げ、訳知り顔で見上げた。
「第一、貴方は投資先の視察としても行きたいのではないか? ミャンマーがこれから民主化されるということは、そういう流れになると理解しているが」
「分かってきたではないか」
 ギルガメッシュが皿からビスケットを取り上げて、アルトリアの口元に持っていくと、彼女はぱりんとかじりとった。もぐもぐしながら目を閉じる。
「貴方といると、そうなるのだ。私のせいではない」
「なんだ、その言い草は」
 アルトリアがギルガメッシュの手からビスケットを奪いとる。
「パガンという巨大な寺院群があるそうだ。金色の寺院が緑のジャングルに点在する様は壮観だと」
「そなた、オレが金色と聞けば行くと思っておるのか」
 ギルガメッシュは肩をすくめてみせたが、アルトリアは笑っている。
「違うのか」
「悪くない」
「ほら」
「ではオレからも提案だ」
 ギルガメッシュは自慢気に愛する妻の前にパンフレットを取り出した。彼が空中からものを取り出すのは当たり前のことで、アルトリアは驚きもしない。ビスケット片手に渡されたパンフレットをしげしげと眺めて、首を傾げた。
「これは、やめた方が」
「夏だ。行ける」
「以前に北海を旅した後、貴方はだいぶ調子が悪くなったのだぞ。私は勧めない」
 ギルガメッシュが推したのはバルト海を一周し、最後はドイツに寄港する一週間ほどのクルーズだった。バルト海の冬は厳しく、クルーズできるのは限られた夏の二ヵ月だけだ。涼しいので避暑に訪れる客たちに人気がある。ギルガメッシュはそれこそ微かにあごを上げ、アルトリアを見下ろした。
「ビルマの暑さにやられた、そなたも、ここであればシャキッと正気に返るであろう。二人でしゃんとしてから日本に帰ってくればよい。その頃には熱帯夜も過ぎておろうや」
「私は平気だと言ったではないか。貴方の方こそ荷物にコートを入れておくのだな。どうせ寒くて動けなくなる。そして日本に帰ってきても調子が戻らないぞ、きっと」
 気遣わしげなアルトリアにギルガメッシュはぞくぞくする。心配されるという幸福を感じることがあるとは思わなかった。ギルガメッシュは赤い目をにやにや笑いで縁取って、けらけらと笑い飛ばした。
「そなたの方こそ! パガンを見て回ったところで覚えておらぬだろうよ」
 不幸なことにギルガメッシュの予言は当たった。
 アルトリアはビルマの湿気った暑さに耐えられなかった。よろよろと船の中でぼうっとし、ギルガメッシュに手を引かれて、ふらふらと各地を見たものの、記憶もあやふやなままであった。
 だがギルガメッシュは、それが楽しみでもあった。
 暑さに負けて元気のないアルトリアを独占できる愉しみは素晴らしいもの。彼女の世話を焼くことがヴァカンス最大の愉しみに変わるのだから。
 だがクルーズはあっというまに過ぎ去り、二人は再び機上の人となった。フランクフルトで飛行機を乗り換える頃には、アルトリアはすっかり元気を取り戻していた。
「次はヘルシンキであったな」
 薄い夏物のロングカーディガンをはおってアルトリアが微笑む。彼女は小さなトランクを引いていた。ビルマ・クルーズ用の荷物はすでに冬木の家にギルガメッシュが送り返しており、二人は当座、必要なものしか持っていない。バルト海クルーズの荷物は船に直接送ってある。
 ギルガメッシュはゆったり頷いて胸のポケットから携帯を取り出した。
「そなたのチケットもこちらに入っておるはずだが」
「任せた」
 二人は飛行機が嫌いではなかった。昔の飛行機は難儀な代物だったが、今は乗ってみると楽しいものと考えていたし、急ぐ必要もないので、よく利用する。特にアルトリアにとって、飛行機の中だけで供される限定メニューの数々は楽しみのひとつだった。それに二人が利用するのはファーストクラスであったから、窮屈な思いもなく、個室にいるような安心感もあった。
「ああ、鮭が美味いな」
 短い移動時間の中でもアルトリアはフルコースを嗜み、ギルガメッシュを笑わせた。
 キャヴィアを添えたフェンネル入りのパンケーキや北海の鮭のグリル、夏らしいビルベリーのジュレなどは北欧の旅への期待感を嫌が応にも盛り上げる。
 ギルガメッシュは機内誌をめくりながら、アクアヴィットと苔桃のリキュールを合わせたカクテルを傾け、涼しい顔をしていた。
 だが、すでに飛行機の中から気温は下がりはじめ、ギルガメッシュが快適だと思う夏の空気は遠ざかっていた。つまり適度な湿り気──湿度60%程度、気温は25℃以上あるという状態だ。機内は少しずつ到着地の気温に近づいていく。それはギルガメッシュにとって夏どころか秋の終わりを想起させる涼しさだった。
 そして二人はクルーズの出発地、北緯60度ヘルシンキに到着した。空港から直接リムジンサービスで港に向かったので──アルトリアは市内を見てまわりたかったのだが、彼女にはギルガメッシュが耐えられるはずがないと分かっていた──まだ熱帯の王は様子よくしていられた。
 今回、二人が選んだのはスウェーデンの会社が運航するノーザンクロス号。中規模クルーズ船で乗客258名に対して乗員152名という手厚いサービスを売りにする、富裕層狙いの高級船である。多くは一般客として乗りこむが、船の三分の一はひと握りの客のためだけのプレジデンシャル・フロアであり、二人はその中でも最上級のマスターズ・スイートの乗客であった。
 乗船するときの受付カウンターも全く違い、二人はホテルのロビーのような優雅な空間で手続を行った。
「こちらにサインをお願いいたします」
「奥様も宜しいでしょうか」
 ゆったりとしたソファの隣に、それぞれ小さなテーブルが備え付けられており、二人はそこで高級な万年筆を使って書類にサインする。ギルガメッシュは日常的にギル・スミスと名乗っており、必要なときはギルガメス・L・E・スミスと記名していた。
 アルトリアも同様にアルトリア・P・スミスとサインする。ただ、彼女に書類を差し出した女性乗務員は少し不思議そうな、伺うような表情でアルトリアを見つめる。
 これは最近に顕著な対応で、つまり、あまりにも若く見えるアルトリアが本当に『奥方』なのか、納得できないでいるのである。
「これでよいか」
 アルトリアが書類を差し出すと、若い女性はにっこりと受け取った。
「はい。ありがとうございます。お客様のお荷物はすでにお部屋に運びこんでございます。不足がございましたときはコンシェルジュにお申しつけ下さいませ」
「お部屋にご案内いたします」
「頼む」
 ギルガメッシュがゆったりと立ち上がる。アルトリアの引いていたトランクをドアボーイがさりげなく受け取って、代わりに引く。
「こちらです」
 二人は広い船内を案内されながら部屋へ向かう。ボーイは地味なグレイの礼服をまとい、白手袋をはめている。海軍のような折り目正しさを感じさせる服装だ。
「こちらが御朝食や御昼食を召し上がっていただくレストランです。隣のあちらの扉から入りますと、バースペースに直接お越し頂けます」
「覚えておく」
 二人はもう長いこと、それはもう長いことクルーズを愉しんできたので、初めて乗る船でも迷ったことはない。船の構造が大きく変わることはなく、客のための施設もたいてい同じようなものがあるからだ。それでも二人はボーイの説明をきちんと聞く。それは二人が身につけた王の努めであったからだ。
 船内はバルト海を思わせるブルーが基調で、爽やかな印象だ。家具はドイツ風の重厚なものが多く配置され、壁には現代絵画や銅版画などが飾られている。すっきりとして清潔だった。
「こちらがマスターズ・スイートでございます」
 扉を開けると、そこには船とは思えぬ広大な空間が広がっていた。
 二間続きの応接室、ゆったりとしたリビング、さらにバルコニーに面した広いベッドルーム。
 応接室はドイツ風のどっしりした客間で、二部屋は簡単な仕切りで区切ったり、逆に開放して繋げたりできる。二人はボーイに申しつけて開放してもらった。パーテーションは壁の中に全て入ってしまう構造で、その方が二人には好感が持てた。家具や絨毯などは淡い黄緑を基調とした明るい雰囲気だ。続くリビングはWi-Fi設備や大型テレビ、ゆったりとくつろげるソファやテーブル、バーセットなどが完備され、北欧らしいモノトーンの空間。ベッドルームはバルト海を思わせる深いプルシャンブルーのリネンで統一され、ベッドは二人が寝てもまだ余裕のあるキングサイズがひとつ。簡単なクロゼットも併設されており、二人の荷物はこの部屋に置かれていた。
 広い窓の外には板張りのバルコニーがある。そこにも小さなテーブルと椅子が二脚あり、誰にも邪魔されず海を眺めることができる。二人の部屋のバルコニーは左舷に面しており、前には操舵室のみという特等席だ。
 バスルームは洗面台が二つついており、シャワールームとバスが別という贅沢な造りだった。バスタブは船の中だというのに黒い大理石で造られていた。内装は温かみのあるブルーグレーで上品な印象だ。洗面台の下に小さな冷蔵庫が備えつけられており、飲みものを冷やしたり、要冷蔵の化粧品を入れることができる。アメニティは英国王室御用達フローリスを採用しており、アルトリアがにっこりと微笑んだ。
「他に何かございますか」
「特にない」
 ギルガメッシュが肩をすくめる。アルトリアは穏やかに微笑むとボーイにチップを渡した。
「御苦労であった。用のあるときは誰に?」
「こちらの従者ヴァレットはカミン・グレンが勤めます。後ほど御挨拶に伺います」
「左様か。下がってよいぞ」
 ボーイが一礼して部屋を出て行く。本当は船の中ではチップが要らないのだが、ギルガメッシュたちはチップを渡す。それは二人の習慣でもあったし、またチップにはちょっとした魔術が施されていて、客の情報を曖昧にしか記憶させないようになっている。長く人の世界で行き続けていくには少しの手間が必要だった。
 ボーイが一番外の扉を閉める音がすると、ギルガメッシュがさっそく暖房装置のパネルをいじりだした。
「寒いのだな、ギルガメッシュ」
「暖房が入っていないのではないか。おかしいだろう」
 アルトリアが腰に手をあててため息をつく。
「入っている。外はもっと寒かった」
「大差はない……なんだ、20℃しかないではないか。よし」
 ギルガメッシュがパネルを押す音で設定温度が23度になったことがアルトリアにも分かる。あまりにも高い設定温度だが、彼には最低限だと分かっている。なんとも可哀想なことだが、ギルガメッシュは部屋の中では冬でもシャツ一枚でいたがるのだ。熱帯育ちで重ね着する習慣がなかったからだ。
 アルトリアは腕時計をちらりと見やって頷いた。
「どうする、ギル。ウェルカム・パーティは午後七時からだそうだ。まだ時間がある。一度、街にくりだすか」
「なんぞ見たいところがあるか」
「よいクロスやリネンがあれば求めたい。ここには確か、よい織物があったはずだ」
「ああ。あれか。悪くない」
 あまり知られていないことだが、フィンランドは高度な技術を要する織物の産地だった。今は織り手が途絶えて稀少な品物になってしまったが、複雑な折込模様の綿織物や毛織物が多くあったのだ。
 ギルガメッシュは思い当たって、ふいと外に出ようとした。しかし、アルトリアがぎゅっと両手を握って引き留める。
「どこへ行く」
「出掛けると申したのは、そなたであるぞ」
 眉を寄せるギルガメッシュにアルトリアは首を振った。
「そのような格好でいるから寒いのだ! 私が服を見繕うゆえ、大人しくせよ」
 ぴくんとギルガメッシュの反応が消える。彼はしげしげと妻の顔を見つめる。必死に見上げるアルトリアが愛らしかった。ぱっちりした緑の瞳が真剣なとき、その輝きは至高のものだと思われる。しかもアルトリアが服を選んでくれるなど珍しい。
 一も二もなく、ギルガメッシュは頷いた。
「よいぞ。任せる」
 だらんと両手を下げるギルガメッシュにアルトリアはよしよしと頷いた。
「そう。そのように大人しく言うことを聞くがよい。貴方はそもそも人の話を聞かなさすぎる」
「そなたの話は委細もらさず聞いておる。全て録音して何度も再生したいくらいだ」
「気味の悪いことを言うな!」
 アルトリアは部屋に届けられていた長持をぱかんと開けた。長持といっても、旅行用の変わった造りで、中にはハンガーに掛けた服をそのまま吊せるようになっている。革作りの小さな家具といったところだ。この長持はアルトリアの分が二つ、ギルガメッシュのものが二つ、他に靴や日常の細々したものを入れた長持が二つ。必要があればギルガメッシュの魔術で冬木の邸宅からなんでも取り寄せることもできるが、船内ではパーティが多く開かれるので、どうしても荷物が多くなる。
 その中からアルトリアは日本では冬に着る白いダウンコートを取り出した。薄手だが丈は長く、ギルガメッシュの膝までは優にカバーしてくれる。
 シャツにカーディガンを着ただけのギルガメッシュにコートを着せ、さらに真っ赤なカシミアのマフラーを首元から顔の下半分にかけてぐるぐる巻きにした。
「おい、アルトリア。これでは息ができぬぞ」
「肺を冷やすのはよくないと言ったではないか。バンダナを巻くのは嫌なのであろう。ではマフラーでも巻いて顔を覆っておくことだ。寒さに対応する上で大切なのは、冷えてから温めることではない。そもそも冷やさないようにすることなのだ」
「やりすぎではないか」
「そんなことはない」
 アルトリアの言うことは正しい。しかしギルガメッシュにはいかにも大仰に思えた。しかし、これが妻の求める自分だというなら、それでよいではないか。
 最後にアルトリアは鯖江のサングラスをちょこんとギルガメッシュにかけさせた。レンズの色が薄く、ギルガメッシュが外を見るのに不都合はないが、彼の目の色が分からぬ程度に色がついている。縁なしだが、つるは細い金で、ギルガメッシュが好む金のアクセサリーと合うようになっている。
「貴方は目を大切にした方がいい。その目は目立ちすぎるし」
「分かっておる」
 こうしてギルガメッシュはさらりとした金髪以外、特徴のない、もっさりした姿になった。もこっとした白いダウンコート、顔を隠す赤いマフラー、そしてサングラス。この世ならぬ美貌は窺いようもなく、妙にすらりとしていることに気づかなければ、誰も彼が色男だとは思えぬ姿だった。
 ヘルシンキはフィンランドでは温暖で、夏の昼間は25℃程度になることもある。しかし、ここ最近は温暖化の影響か、気候不順が顕著で、今年は冷夏ということだった。そもそもが熱帯夜でちょうどいいというギルガメッシュが北欧の夏に適応するには、これだけの装備が必要なのであった。
 アルトリアはというと、夏用のカーディガンを脱ぎ、紺色のコートワンピースと白いハイネックのセーター、足元も白いタイツで完全防備し、靴もパンプスを脱ぎ捨てて白いいつものブーツに。海の上で彼女が愛用する軍用素材のイングリッシュグリーンのウィンドブレーカーを羽織る。
 するとアルトリアがギルガメッシュの手をぎゅっと握った。
「手が冷たくなったら貴方の手袋は持っているからな。私がはめろと言ったらはめるのだ。分かったか」
 ほとんど子供に言うような台詞だったが、妻しか目に入らぬ英雄王には嬉しい言葉だ。彼は素直に頷いた。
「そなたと手を繋いでおれば、冷えぬと思うがな」
「だから私の手を離すでないぞ。よいか」
 それはギルガメッシュの胸を舞い上がらせる台詞だった。
「相分かった!」
 ギルガメッシュはアルトリアに手を引かれて、ゆったりと船の中を歩いていった。プレジデンシャル・フロアの乗客はそもそも30人もいないので、誰にも会わなかった。しかし一般フロアに降りると、すでに乗船する客たちで混みあっていた。
 船のスタッフが乗降用のはしけに向かう二人に声をかける。
「出航は午後九時でございます。それまでにお戻り下さいませ」
「心得ておる」
 アルトリアが背中を押すようにして、ギルガメッシュがとことこと急傾斜のはしけを降りる。その様子は大きな子供を小さな少女が介助しているようだった。
「お気をつけて」
 夏だというのにコートを着て、顔を見せない背高のっぽ。
 頭を下げるスタッフたち、奇妙なものを見るような乗客たちの視線にアルトリアは気づかなかった。


 二人はすぐにタクシーを拾い、ヘルシンキ市内に戻った。馴染みの雑貨店でアルトリアは心行くまでリネン類を選び、ギルガメッシュも付き合った。店の中ではギルガメッシュもマフラーを外していたので普通に見えた。
 その後、二人は少しだけヘルシンキの街を散歩した。美しい大聖堂やお洒落な店が多くある。適度にこぢんまりとした街は歩いて回るのに向いていた。
 すれ違う人々がちらりと白と赤の背高のっぽを覗きこむようにするのだが、二人は変だと思わなかった。見られることに慣れすぎているギルガメッシュとアーサー王は、実のところ、作為のない視線に鈍感だった。
 北欧らしいおやつフィーカの時間は流行りのスペシャルティ・コーヒーを出すカフェでカネルブッセ──シナモンロールやカップケーキにかぶりつく。カップケーキは二十一世紀に入ってから長いこと流行っている。アメリカ風にカラフルなクリームを絞り出してあるものが多いが、本家と違い、ヨーロッパでは淡いパステルカラーの自然なクリームが多い。アルトリアのお気に入りはピンクの苺やラズベリーのクリームがついたものだ。果物がのせてあれば言うことはない。
 道行く人を眺めて窓に向かうカウンター席で二人は隣りあう。白い飾り気のないカップで黒蜜のような香りのコーヒーをすすり、アルトリアは高い椅子で足をぶらつかせる。ギルガメッシュはスパイスのシロップを垂らしたコーヒーをゆっくり嗜む。
 彼がマフラーを外していると、まるで俳優か何かのようだ。
 ガラス窓の向こうから驚いたように覗きこむ人もいた。
「あ、また貴方に恋する乙女が一人増えたぞ」
オレが愛するのはそなただけだ。憐れなことよ」
「本当に貴方は自信過剰な男だな!」
 アルトリアがくすくす笑う。彼女は焼きたてのカネルブッセをもくもくとかじる。シナモンと砂糖のコーティングが歯に染みるほど甘いのだが、それが美味しい。パン生地はふわっと柔らかく歯切れがいい。
 その後、二人は小さなブティックでアルトリアの服を買い、船に戻った。


 ウェルカム・パーティはプレジデンシャル・フロアと一般フロアでは開かれる場所も違い、少し時間も異なっていた。アルトリアたちが出席するのは、もちろんプレジデンシャル・フロアで、一般フロアより高級なレストランだ。
 二人は六時には部屋に戻り、身支度を整えた。華麗なる王朝時代から晩餐会はお手のもの。二人は互いに手際よく準備を進める。
 ギルガメッシュはもっさりした冬支度を脱ぎ捨て、アルトリアを振り返る。
「そなた、今日は何を着る」
「レタス色のイヴニングと揃いのボールガウンを持ってきた。夏らしい色目であるし、着ないともったいない」
 アルトリアが取り出したのは、見る人が見れば目が飛び出してしまうような逸品だった。アール・デコ時代に仕立てたもので、重ねたオーガンジーのアイラインのドレスは、それぞれ裾の長さが違っており、不規則に膝下で揺れる。当時はセンセーショナルなドレスだったが、今はむしろ上品に見えるだろう。裾が小さなガラスビーズで飾られており、虹色に燦めく。同じビーズがドレスを落ちる雨粒のように線を描いて飾っている。これに重ねるのは黒貂の縁取りのあるキルティング仕立てのジャケットで、ドレスより少し短く、お尻の下くらいまでの丈になっている。ドレスはギルガメッシュのしつこい言いつけで立て襟になっており、そのぶんガウンの襟元は大胆に開いている。そこにアルトリアはダイアモンドとエメラルドを連ねたプラチナ・ジュエリーを合わせる。あの時代に作っておいたパリュールでイヤリングと揃いだ。直線的なデザインが現代でも斬新だ。
 これらを着付けるのは今もギルガメッシュだった。
「よし。できた」
 アルトリアの髪にドレスと色目が同じリボンを結んでやると、ギルガメッシュは満足そうに頷いた。
「流石は我が妻よ。この世で最も美しい色がよく映えるわ」
「世辞はよい。靴、靴……」
 アルトリアがごそごそと長持の中を探る間に、ギルガメッシュも自分の支度を調える。
「貴方は何を着るのだ」
 アルトリアが靴と揃いの布を張った古いパンプスを取り出した。踵が低くて、現代ではリゾートらしい雰囲気が出る。さらにストッキングの袋を出してギルガメッシュを振り返る。
「ギル、決めていないのか? 貴方の服とストッキングを合わせようと思ったのだが」
 もしギルガメッシュに猫のような耳があれば、ピンと立ち上がったことだろう。ギルガメッシュはにやりと笑ってトランクを開けた。
「そなたが、その色目を着るのであれば、これでよかろう」
 ギルガメッシュが選びだしたのは、軽やかな温かみのある茶色のツイードのスーツだった。赤や青など色鮮やかなネップが散って牧歌的な雰囲気がある。ヴェストは本来の瞳に合わせたルビーレッドのシルクで、生成の麻のウィングシャツを合わせる。
 着こんでいくギルガメッシュを見て、アルトリアはストッキングの袋を並べて見比べる。
 穏やかなダークブラウンの無地と、水色に黄緑や黄色で大胆なパターンを織りこんだもの。ダークグリーンのタイツもある。ギルガメッシュとの親和性を求めるなら茶色だが、パーティに対して地味過ぎはしないだろうか。さりとて派手なものは、いざとなると勇気が出ない。履いてみたいから買ったのだが、アルトリアは女性として育ったわけでなく、ときどき気後れしてしまうのだ。
「うーん」
 ためらうアルトリアの後ろにリボンタイを結びながらギルガメッシュが立つ。彼はひょいと覗きこむや、きゅっとタイを締め、ひょいと水色のタイツを取り上げた。
「これを履くのではなかったか。確かパーティ用だと申しておったであろう」
「だが、その、貴方のヴェストと色目が合わぬし」
 俯き加減のアルトリアにギルガメッシュがふわっと笑う。
「気が変わった」
 しゅるんとヴェストを脱ぎ捨てて、ギルガメッシュが深い紺色のヴェストを取り出す。テイルコートなどにも合わせられる背中の開いたピケ・ヴェストだ。ぴしっと前のボタンを留めてジャケットを羽織る。ヴェストが変わったことでコーディネイトは華やかさから正統派に近くなった。少しきちんとした印象だ。
 だがギルガメッシュはにやにやとアルトリアを覗いて笑いかけた。
「そなたも、とくせよ。オレが履かせてやろうか」
「い、いいい、要らぬわッ」
 アルトリアは顔を真っ赤にして水色のタイツの袋をびっと開けた。手際よく履くと、小さなパンプスに小さな足をするんと入れる。鏡を覗いて少しだけ前髪を整える。
「ほら、終わったぞ」
 ほとんど飾りでしかない金色のビーズバッグを持つと、アルトリアは胸を張った。
「どうだ」
 ギルガメッシュはそうっとアルトリアの頬に唇を触れさせる。
「美しいぞ。このまま押し倒したいくらいだ」
「ばか者っ」
 ばしっと背中を叩かれても、ギルガメッシュは笑っている。彼は優雅に手を差し出した。アルトリアはその腕を手でそっとつかむ。見上げると、彼女はこぼれる花のように微笑んだ。その手にギルガメッシュが手を重ねる。
「行くぞ、アルトリア」
「ああ」
 二人は颯爽とパーティ会場であるレストランに赴いた。


 プレジデンシャル・フロアのレストランはたかが30人弱の客のためと思えないほどゆったりしていた。上階なので、外がよく見晴らせ、まだ充分に明るかった。三々五々集まってくる人々は皆、身なりがよく、上流階級の人間ばかりだった。イギリスやスウェーデンの貴族、あるいはロシアやアメリカの富豪といった人々だ。
「まあ、ミセス・スミス! いらしてたの!」
 アルトリアに駆け寄ってきたのはサリー伯爵夫人だった。
「これはレイディ・サリー。お久しゅうございます」
「先だっての晩餐会以来ね。陛下が貴方のことを気にしていてよ。先月のお茶会で貴方に会いたがっていたわ」
「光栄に存じます」
 アルトリアはさっとドレスを引いて挨拶する。そこで伯爵夫人がギルガメッシュに視線を向ける。ギルガメッシュは穏やかな無表情で夫人に会釈する。夫人の方は慣れたもので、軽やかに手を差し出してギルガメッシュの形ばかりの口づけを受けると、小さく笑った。
「相も変わらず、お綺麗でらっしゃること。今日は夫に会っていただきますことよ」
「レディの御紹介とあっては是非もありません。行くしかないでしょう」
 ギルガメッシュはこういう時だけ平民を装って会話する。何も知らぬ男のように。
 だがイギリスきっての外交一家でもあるサリー伯爵夫人には通じない。
「そんなこと仰っても無駄よ。社交嫌いで逃げまわっても、ほら、わたくしには捕まってしまうのだわ」
「全く仰る通りです、レディ」
 二十一世紀に入ってもギルガメッシュの影響力は全く減じていなかった。多くの油田を持ち、事実上イラク南部の支配者たるギルガメッシュは、知る人ぞ知る近づくべき人物だった。しかしギルガメッシュ本人はあまり社交界の表に出て来ない。一方、アルトリアは馬主としてさまざまな機会に衆目の前に現れる。活動的な妻に寄り添う夫──それが一般的な彼のイメージだ。だからギルガメッシュに近づきたい人物は、まずアルトリアと仲良くなろうとする。これが定番の接近法であった。
「ああ、初めまして、ミスタ・スミス。やっとお会いできましたな」
 サリー伯爵はやんごとない壮年の紳士で、ギルガメッシュと知り合えたことを本当に喜んでいた。
「なにぶん極東の端に住みますもので」
 ギルガメッシュは当たり障りのない会話しかしない。だが、それでもアルトリアには少し嬉しい出来事だった。サリー伯爵家はイングランド筆頭公爵ノーフォーク公爵家に繋がる家柄で、ギルガメッシュは面白がるだろうと思っていた。
 ボーイの供するシャンパングラスを手に、アルトリアは夫人と、ギルガメッシュは伯爵と話す。
「昨今の経済状況についてミスタ・スミスのご意見を伺いたい」
「いかなるときも油断すべきではないと思いますね」
「いささか不穏な噂がありましてな。キャメロンの件はさておくとしても、難民問題が思わぬ方向に発展するのではないかと気掛かりでしてね」
 伯爵の言葉はギルガメッシュの気を惹いた。彼はサングラスの下から伯爵をじっと見つめる。ISの攻撃によるシリア難民問題を「難民問題」だと思っている人物ならば、ギルガメッシュ自らが興味を持つ必要はない。少なくともギルガメッシュはそう考える。
「その可能性もありますね、事態が長引きますと」
「ロシアがまたうるさいことになってきましたからな」
「さて。お国が何やら準備しているのではないですか」
「有効な手段かどうか、分かりません。相手はあのロシアですから」
 伯爵の答えはギルガメッシュの基準を満たした。ギルガメッシュの頬にわずかな笑みが昇る。すると彼はサングラスをしていてさえ、華やかな印象に変わった。伯爵が驚いたように瞬きする。ギルガメッシュはサングラスをちょんとつついて、低く笑った。
「目の色が薄いもので。夏は眩しいのです、いささか」
「ああ。左様でしたか」
 そこに船長が現れた。彼は祝宴に際して正装し、手には客たちと同じグラスを持っていた。
「ノーザンクロスにて旅立とうという皆様、ようこそおいで下さいました。我々は皆様の旅を全力でサポートする用意がありますし、我々のサービスを大いに楽しんでいただければと願います。まずは旅の成功を祈って乾杯!」
 いくつかのグループに分かれて立つ人々が一斉にグラスを掲げる。流石に特別な客のためのシャンパーニュだけあって、ギルガメッシュも納得のドン・ペリニョン・ヴィンテージだった。
 給仕たちに伴われて、人々は三つあるテーブルに分散する。アルトリアたちは当然のようにサリー伯爵と同席した。
 すると、ギルガメッシュの隣に若いスラヴ人の若者がやって来た。
「こちらに同席しても宜しいですか、レディ」
 穏やかな様子の若者で、彼は伯爵夫人とアルトリアを交互に見やる。夫人が伯爵を見やると、彼はギルガメッシュに視線を流した。ギルガメッシュは鷹揚に頷いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「お一人でいらしたの」
「はい」
 話し好きの伯爵夫人が声をかける。これで若者はテーブルに居場所を得た。アルトリアはギルガメッシュが許可を与えたので少し彼に注目した。
 地味なグレイのスーツを着ているが、仕立てはよいもので、ロシアの富裕層だと思われた。時計はロレックス。煙草の匂いはしない。英語は訛りがなくて勉強して身に付けたのだと分かる。
「一人で旅をしてみたくて。いつも家族と一緒だとお友達ができません」
「まあま。そういうものかしらね」
「こちらに御一緒しても宜しいでしょうか」
 給仕が案内してきたのは見ただけで分かるアメリカの富豪だった。
「ええ、どうぞ」
 今回は夫人が頷いて、太ったアメリカ人の夫婦が着席した。彼らはラフな服装で、夫はサッカーのスーツ、奥方はシンプルなブラックドレスという典型的なアメリカン・ファッションだった。
「初めまして、デュー・ゴールドと言います。皆さん、宜しく」
「妻のゾーイです。バルト海は私たち、初めてです」
 ゴールド氏が自分から手を出して伯爵たちと握手する。気さくなアメリカ人がやってきたことで、テーブルの雰囲気が明るくなった。
 パーティの始まりを告げるマネージャーの挨拶が聞こえた。
「皆様、航海の間、こちらのフロアを預かりますオレグ・トレンセンと申します。まず今夜の一皿目は旅立ちを祝しまして、金箔をあしらったフォアグラのバーガー、トリュフのブリオッシュとポテトを添えて、をお楽しみ下さい」
 テーブルのそれぞれに給仕がつき、次々と食事が供される。三つ星レストランのようなサービスに客たちは御満悦だ。
 最初の皿は最近の流行りを反映していた。贅沢にバターを練り込んだブリオッシュに薄く切ったフォアグラのソテーを挟み、アメリカン・バーガー風にピンで刺してある。ピンにはノーザンクロスの紋章をプリントした旗がついており、お子様ランチめいている。しかしブリオッシュに添えられたマッシュポテトは濃厚なトリュフの香りを漂わせ、ブリオッシュにかける甘いオニオンソースも長時間玉葱を煮込んで作る手間のかかったものだ。
 アルトリアはさっそくバーガーを手でつかみ、はむっとかぶりつく。その様子にゴールド夫妻が安心したように手でバーガーをつかんだ。
「美味しい!」
 ゾーイ夫人の叫びがテーブルの会話の口火を切った。
「やはりクルーズの食事はよいものですな」
「最近、こういうの流行っていますよね」
 ロシア人の若者が穏やかに微笑む。彼は感じのよいところがあって、アルトリアは好感を持った。どことなく幼いガラハドを思い起こさせる。
「うふふ、私も手で持ってしまおうかしら。皆様、内緒ですわよ」
 サリー伯爵夫人の囁きに皆が笑う。結局、テーブルでバーガーをきちんとナイフとフォークで食べたのは伯爵一人。他は全てアメリカ風に手で持って食べた。ギルガメッシュにとっても手で食べることに違和感はない。こういう供され方をすれば自然に手で持って食べた。
 フォアグラの甘みがシャンパンと合う。
「皆様はクルーズは初めて?」
「いいえ」
 ロシア人の若者がおっとり首を振る。ゴールド夫妻も同様だった。
「私たちは一年に一度、必ずクルーズに行くことにしています。羽を伸ばす時間も必要ですわ」
「まあ、どちらに行かれまして?」
「カリブ海はおすすめですよ。とっても海がきれいで、どこの島に行っても素晴らしいところでした。東海岸のクルーズやカナダも素敵でしたけど、セーヌ川のクルーズはよかったわね、貴方」
「ああ。川は揺れないのがいいね」
 伯爵夫人とゴールド夫人を中心に、アルトリアと伯爵、ゴールド氏はそちらの話題に巻き込まれている。だがロシア人の若者は近寄りがたく黙りこくったギルガメッシュに話しかけた。
「ミスター・スミス、貴方が乗ってらっしゃるとは存じませんでした。ぼくはラッキーだったな」
「何故」
「貴方はなかなか人前に現れないとお聞きしましたので」
「それで」
「一度、ぼくはお会いしてみたいと思っていました。貴方は不思議な方だ。ぼくが生まれるずっと前からさまざまなものを手にしてらっしゃる。あまり歳が変わらないように見えるのに」
 ギルガメッシュは眉をひそめた。彼は構わず話しつづける。
「ぼくはまだ世界の何たるかも知れないのに、貴方は御存知だと聞く。貴方のようになるにはどうしたらいいのだろうと、ぼくはずっと考えつづけてきたのです」
 彼は穏やかな笑顔を崩さず、じいっとサングラスの中を覗きこむようにした。
「貴方は奥様の遠縁で、ケルトの血に繋がる方だとお聞きしていますが、違うように見えるな」
 それはギルガメッシュの魔術師としての肩書きだ。当然、事実とはかけ離れている。ギルガメッシュの顔立ちはどう逆立ちしてもケルトのそれではない。とうに絶えた幻の民の顔立ちなぞ、この世に知る人はないのである。そして、その経歴を知っているということは、この若者は魔術師──
 第二次聖杯戦争で現界げんかいしたギルガメッシュは魔術師キャスタークラスだった。
 弓手アーチャークラスでの現界時と同じ宝具を使えるが、威力は半減。身体的な強さも剣聖セイバークラスで召喚されたアルトリアには及ばない。
 だが彼にはクラスに縛られない切れる頭脳と経験がある。
 むしろ人外の魔力を有し、多くの制約から解放された自分の能力をアドバンテージに変えてきた。
 最大の利点はアルトリアに心酔するダグラス・カーの一族を利用して、魔術師として協会に登録できたことだ。一般人であれば、疑いを避けるのが難しい長寿を、魔術協会の協力を得て、ごまかすことができる。
 ロシアの若者が追うように視線を強くする。
 ギルガメッシュはわざと彼と目を合わせた。彼が幻術や暗示の類をかけようとしていることは分かっていたが、だからこそ目を合わせて術を破壊する。
 ぱりんと青年のグラスが割れた。テーブルの上に金色の染みが広がっていく。
「あらっ」
「大丈夫、あなた」
 すぐに伯爵夫人とゴールド夫人が気づいて、給仕を呼ぶ。
 ギルガメッシュが肩をすくめて給仕に指差した。
「グラスにひびが入っていたようだな。新しいグラスを持て」
「申し訳ございません、ただいま」
 テーブルはクロスから引き直すために、ちょっとした騒ぎになった。青年が恐縮した様子でギルガメッシュに頭を下げる。
「すみません。ありがとうございます」
 その会話は周囲の人間に事の次第を知らせないためのものだ。ギルガメッシュはにやりと笑った。
「構わぬ」
 お前の喧嘩、買ってやる。
 そう宣言したのだった。
 彼の一言はアルトリアに手を出す気がないことを示していた。それさえ保証されれば、ギルガメッシュに否やはない。世界の王たる自分に楯突きたいという変わり者がいれば、叩き潰してやるまでだ。
「お待たせいたしました」
 何人かの給仕の早業で、テーブルは元のように何事もなく調えられた。すぐに二皿目が運ばれた。
「本日のスープはロブスターのビスクでございます。北海のロブスターの上質な甘みを御堪能下さいませ。パンは船の厨房で毎日焼きあげますので、新鮮な美味しさを実感していただけると存じます」
 ギルガメッシュがちらりと目をやると、アルトリアは迷いもなくテーブルの上のバゲットをとり、すいとスープにひたして食べる。彼女は長い社交界生活の中で、この程度慣れっこであり、動揺もない。
「ん、これはいい」
 アルトリアが頷くと、伯爵もおっとりと笑う。
「ははあ。確かに北海のロブスターですな。これぞ北の恵みだ」
「これは美味しいですね。私たちは東海岸に住んでいますが、南の方なのでロブスターは珍しいんですよ」
「どちらにお住まいですの」
「チャールストンです。私の七代前の先祖が非常に早く入植していたものですから」
 ゴールド氏の言葉に伯爵夫人が目を見張る。
「あら、チャールストン! ちょっと素敵なところだとお聞きしていましてよ。古い建物が多いとか」
「本当にきれいな街です。あそこに住んでいることが誇りです。先祖に感謝しなくては」
「私たちは誰も、先立つ人々への感謝を忘れるべきではありませんよ」
 伯爵が微かにあごを上げて説教するように言った。
「我がイングランドだって、アーサー王の武勇がなければ、今頃ドイツかデンマークかになっていたかもしれないのです。私たちが特別な責務を負う立場であるというのも、先祖あっての話です」
「まあ」
 その時になって、初めてゴールド夫妻は同席する人物が貴族アリストクラシーであると気づいたらしかった。
 そして、アルトリアは無言で少し頬を紅潮させて座っていた。
 ギルガメッシュは愛おしくて堪らない。彼女は自らの治世を低く評価している。だが、こうして未来に来てみれば、盲目的ではあるものの、アーサー王を慕う人々は依然としてあり、彼女はその前に赤面することでしか応えられない。それが、名君にして覇王たるギルガメッシュから見ると、可愛らしいとしか思えない。
「アルトリアさんも、そう思われるでしょう」
 伯爵の無邪気な一言にアルトリアは微かに頷いた。
「確かに。私が今あるのも、つまりは父と友なる人々に拠るわけだから」
「ほら、やっぱり友達は大切ですよ」
 からっと明るくロシアの青年が微笑んだ。
お嬢さんミスはよいお友達に囲まれておいでなのですね」
 一瞬、伯爵夫妻とアルトリアに訪れた沈黙を青年は理解していないようだ。彼は淡い茶色の髪をかきわけて瞬きした。
「あれ? 貴方はミスター・スミスの妹さんでしょう。違うのですか」
 おかしな話だが、この青年はギルガメッシュと同席する女性を『アルトリア・P・スミス』だと思っていないらしかった。ありえない話ではなく、ギルガメッシュとアルトリアの姿は記憶媒体に残らないよう魔術をかけている。魔術協会に籍を置く長命な魔術師は皆、こういった細工を独自に行う。そのため二人の容姿を記憶するには直接会う必要があり、彼がアルトリアの顔を知らないことは不思議ではない。しかしギルガメッシュの顔を知っているならば、アルトリアを調べるのは、もっと簡単なはずだ。
 いったい何を考えている。
「妻だ」
 低いギルガメッシュの声にアルトリアが飛び上がりそうになった。最近よく言われることで、アルトリアの見た目があまりにも若いのでギルガメッシュの妹だと思われるのだ。そもそも夫婦だとは思われない。これがギルガメッシュを不機嫌にすることがあるのは分かっていた。慌てて首を振り、右手を差し出す。その薬指には飾りのない金の指輪が嵌っていた。
「私はアルトリア・スミス。これなるギル・スミスの妻だ。よく誤解されるのだが、妹ではない。これが証」
 アルトリアの台詞はそこまでだった。ギルガメッシュの手がアルトリアのあごを掴む。しまったと思ったときは遅かった。
「そんなことより、これが早い」
 彼の唇が淡く唇を覆っていく。アルトリアはこのような場所では抵抗したい気持ちだったが、そうすれば彼が乱暴しているように思われてしまう。さりとてベッドの中のように流されてしまうわけにもいかず、つまるところ、アルトリアは真っ赤になってされるがままになるしかなかった。
 優しく唇を舐めるようにしてギルガメッシュが離れていく。ドキドキしてアルトリアはどっと椅子に倒れこんだ。両手で口元を覆うももどかしく顔を覆う。彼女を見守るギルガメッシュの眼差しは艶めかしく、それでいて優しかった。アルトリアがぎっとギルガメッシュを睨みつける。
「貴方という人は……」
 ギルガメッシュは悪戯した少年のように爽やかに笑うと、青年を振り返った。
「分かったか。我が妻はミセス・スミスと呼ぶがよい」
 自慢気なギルガメッシュを青年はぽかんと見つめた。
「本当に奥様なのですか。ええ、意外だ。こんなにお若いのに、よく結婚を決心なされたというか。ぼくなんか、やっと一人旅に出たばかりなのに!」
 青年の若い悲鳴はどっとテーブルを笑いの渦に巻き込んだ。
 彼の話は人々の記憶から『グラスが割れた』ことを一掃していた。つまりギルガメッシュとともに魔術の隠蔽を行ったことになる。特別な魔術を使わず、話術でそれを可能にしたことが魔術師らしくないにせよ。
 ギルガメッシュは隣の青年の気配を探る。彼がもし、アルトリアを知っていたのに知らない振りをしたのだとすれば、それは彼がアルトリアを標的にしないという意味だ。彼女を魔術の輪から締め出した。そして本当に知らなかったのだとすれば、それはいっそう確定化する。彼はアルトリアに最初から興味がなかったことになる。
 どちらだ。まあ、いずれ、あちらから尻尾は出すであろうが。
 そこへ給仕がやってきた。
「メイン・ディッシュは肉と魚、ベジタリアン・メニューがございます。皆様、如何なさいますか」
「魚は何だ」
 顔を真っ赤にしたアルトリアが尋ねると、給仕の青年は鮭のソテーだと答えた。肉は牛ヒレ肉のステーキ、ベジタリアン・メニューは南欧風のズッキーニの詰めものだそうだ。
「私はベジタリアン・メニューにするわ」
 ゴールド夫人が言うのは納得せざるをえない。
「ダイエットを心懸けているのよ」
 にこやかに言う彼女はアメリカではスリムな方なのだろうが、ヨーロッパの平均では充分にふくよかであったからだ。
 それぞれメニューを給仕に告げる。アルトリアは鮭、ギルガメッシュは牛を選択した。
 メインディッシュが並ぶと宴はたけなわであった。
「皆様、出航の時を迎えました。今、ノーザンクロスは桟橋を離れます」
 マネージャーのアナウンスに人々がいっせいに外を見る。見ただけでは判りにくいが、客船はゆっくりと進んでいた。
「いよいよですわね」
 伯爵夫人は楽しそうに一同を見渡す。
「旅の始まりですわよ」
 ギルガメッシュにとっても、それは同じだった。
 今回の旅はつまらなくはないかもしれない。それは偉大なことだった。

北海紀行-② に続く

アルトリアさんとギルガメッシュがガチで戦うのは、こちらの話。
舞台は伯林、1937年の独逸。ナチスによる暗い影が迫る中、ドイツ、イギリス、ヴァチカンが駆け引きを繰り返し、聖杯戦争は大混戦に──謎のキャスター、移動する聖杯、現れない七人目のサーヴァント──謎が謎を呼ぶ第三次聖杯戦争。

ウェイバーが好きな方にはこちらを

少年のままのウェイバーが頭脳の切れに物を言わせて戦う物語。ほのぼの短編もちょっとあります。もちろんだけど、イスカンダルもずっといます。

サポートには、もっと頑張ることでしか御礼が出来ませんが、本当に感謝しております。