ウェイバー・ベルベット──時計塔の探求者③神童の秘儀
※『Fate/Zero』二次創作です
※『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿』『ロード・エルメロイⅡ世の冒険』ともに未読です
※『FGO』は未プレイです
※ライネスは男の子で、名前は同じだけど別人です
※登場するメインキャラクターはウェイバー、ギルガメッシュ、イスカンダル(ウェイバーと直接会うことはありません)です
※時計塔の描写は『Fate/Zero』の説明から逆算できるものにしています
※トップ絵は大清水さちさん https://twitter.com/sachishimizu に依頼しました
3. 神童の秘儀
『ライネス・アーチボルト、至急、学部長室に出頭せよ! 繰り返す、ライネス・アーチボルト、学部長室に出頭せよ!』
『落ち着いて下さい。事態は沈静化しました』
『授業の休止はありません。予定通り、行われます』
時計塔の中を伝令の鴉が群れ飛ぶ。
黒い羽が舞い散る中、ウェイバーは茫然とした生徒たちをかきわけて走った。
急がないと。時間がない!
大変なことになる。
全く、魔術師って奴はどうして、こうも時代遅れになっちまったんだ。こんな伝令、鴉なんぞ飛ばすまでもない。ネットと携帯で一瞬だろ。科学に後れをとってるって気づけよ。こんなことやってるから、いつまで経っても魔術が進歩しないんだ!
息を切らせて西棟の階段を昇り、ウェイバーは自室に飛びこんだ。
律儀に入口の灯りがついて、いらっとする。
扉をしっかり閉めてから、ウェイバーはデスクの引き出しを開けた。冬木から持ってきた第八の報告書、それを焦って、めくる。
「あった、これだ、ケイネス先生のやつ」
そこには魔術協会が把握していない、もしくは隠蔽している事実が書かれていた。
衛宮切嗣からの調書で、あろうことか、ランサーの令呪をケイネスの婚約者ソラウが持っていたという内容だった。冬木のアインツベルン城に乗りこんだ後、ケイネスは何らかの原因で魔術回路を損傷、全ての魔力を失った。
だが、その後もランサーが現界を保っていたのは、ケイネスの婚約者ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリが令呪を継承していたからだ。
異界の生物が未遠川に召喚されたのは、その二日後。その間、判っている範囲でどの陣営とも戦っていない。異界の生物との戦闘で、セイバー陣営がソラウに令呪が移動していることを確認している。
ケイネスが魔術回路を損傷したのはセイバー陣営との戦いと考えて間違いないだろう。
令呪の譲渡自体は難しい魔術ではない。一度、契約を解除して、サーヴァントとしかるべき人物が再契約すればいい。
だが、不思議だ。
いったい、ケイネスの魔術回路は、どのタイミングで壊れたのだ?
戦いが終わった後はありえない。それなら休めばすむ話で、戦闘中の負荷以外で壊れるはずがない。
あの夜、アインツベルンの城に押しかけたのはランサー陣営だけではなかった。キャスターが襲来し、城は内外から破壊されたとある。
三つ巴の戦いの中、同行していたわけでもないソラウに、いつ令呪を移しえたのだ?
アインツベルンの城は冬木の市街から遠く離れていた。
比較的、近郊に潜伏していたとしても、合流するまでに時間が必要だ。
ライダーと歩いて帰ったら、明け方だったんだぞ。魔力を失った先生がすばやく移動できたはずがない。ソラウさんは基本的な魔術しか使えなかったみたいだし、ランサーは特殊な移動手段を持っていなかった。
ランサーは、消えていたとしても、おかしくないよな。この時間……
ウェイバーは計算しながら報告書をめくる。
そもそもケイネスは何故、危険だと分かっている聖杯戦争の現場に婚約者を伴ったのだろう。下手をすれば──そして現実に、ソラウは死んでしまったのに。
それは、つまり、ソラウがいないと困る理由があったから、と考えるべきだ。
師であり、親でもあるソフィアリ学部長が同行を許可しているわけで、正当な理由があったはず。
「さっき、この刻印……」
魔力が二箇所に分かれようとしていた。自分と別の二つのものを繋ごうとしていたのだ。
令呪であるなら、サーヴァントと自分を結ぶだけのはず。
もう一つは、何?
もしかしたら。
ウェイバーの頭には一つの閃きがある。
ケイネス先生は令呪になんらかの干渉をしたんじゃ。だから魔術回路が破壊された瞬間にランサーが消えることなく、ソラウに継承されたのでは。もちろん、三大騎士座のランサーは自身の保有魔力も大きいから、瞬時に消えるという可能性は低い。が、キャスターがそうであったように、通常はマスターが絶命すると、ほどなく英霊も消える。
厳密に計算すると、ランサーが消えるタイミングはいくつもある。
それなのに、どうして彼は限界しつづけていたんだ?
さらに、監督役・言峰璃正からケイネスに追加令呪が一画、贈られている。遺体の検証後に息子・綺礼が余剰令呪の画数を確認して、発覚した。
これは彼が依然としてマスターだったことを示している。
何故。
ソラウさんがマスターに代わったはずなのに、どうしてソラウさんじゃないんだ? ソラウさんが重傷を負っていたことは判ってるけど、ケイネス先生は回路、壊れてんだぜ。ソラウさんに任せるしかないはずだろ。
だとすると、ケイネス先生はソラウさんに令呪を渡したのは、一時的なもので、あくまでマスターは自分だと思っていたってことになる。自分では魔力が供給できないのに? そもそもマスターになる必要条件を満たせない。
これって、先生の状態と関係なく、ソラウさんがランサーに魔力を供給するのが当然だと思ってないと成立しない選択肢じゃないか?
こんなことが起きる可能性は一つしかない。
何らかの方法で、ケイネスとソラウが双方マスターとしての魔力供給路をランサーと維持しており、ランサーのバックアップ・バッテリーとしてソラウを利用していた。メリットはある。ケイネスはランサーに供給する魔力を節約し、さらに大きな術を行使できる。
だが、その結果、どちらがマスターか、衝突したんじゃないか。
婚約者だから上手くいくとは限らない。
いざ、聖杯を前にしたら、婚約者だって裏切るかもしれないじゃないか。
そもそもソラウはケイネスの上司に当たるソフィアリ家の令嬢。他家の魔術師が聖杯を手にするのを許さなかった可能性も否定できない。自分が供給した魔力で戦うランサーが聖杯を奪るなら、それが自分のものって思ったとしても、不思議はないよな?
ウェイバーはぼんやりとした光を放つ刻印の腕をぎゅっと押さえた。
「解析しないと。こいつが何なのか、確認しないと」
カフスボタンを一つ狭く留めて刻印が見えないようにする。
すぐに扉を開けて飛び出した。
「次はあいつだ、ライネス」
時計塔は歯がみしたくなるほど狭い世界だ。
僕の手にあるのがアーチボルト家の刻印であること。他者の刻印でありながら、定着していること。そして、さっき、発動したこと。しかも、それは均衡結界が発動するほどの術式だった。
こんな面白い話が広まるのに時間はかからない。
聖杯戦争のあれこれさえ衆目に晒されるのが魔術師社会の必然。彼らは魔術の秘匿に腐心するが、それは一般社会に対してであって、魔術師同士の間では諜報戦もかくやの出し抜きあいが常識だ。
こんな小さな学校の中で、秘密が守られるわけがない。
馬鹿みたいな研鑽を積んだり、何百年もかけて血統を重ねるより、他者の刻印を奪った方が早いって誰かが思ってしまったら。
聖杯戦争どころじゃない殺しあいが起きる。
しかも、やっちまった後で、使えないって分かったら。
まさに終焉、魔術の黄昏だ。
「くそっ、なんでこんなことに、聖杯戦争より最悪だ。僕がなんとかするしかないじゃないかッ」
ウェイバーはすぐ学園棟にとって返した。
ライネスはソフィアリ学部長の執務室に呼び出されていた。処分は避けられないだろう。
ウェイバーは彼が出てくるのを待つために、そっと壁によりかかった。
すると壁を通して中の会話が聞こえてきた。よくも悪くも時計塔は古い建物なので、魔術的な防音措置を施さないと簡単に音が洩れるのだ。
「アーチボルトの首は皮一枚で繋がっていることが分かっているかね」
「はい。ソラウさんのことは、本当に申し訳ありませんでした。叔父上なき今、刻印を継ぐのは俺です。重ねてお詫びいたします」
さきほどウェイバーに向かってきた時とは別人のような細い声。
ウェイバーはなんだか居たたまれない。
「使い道のない娘の生死など、ここで持ち出す話ではない」
ソフィアリ学部長の言葉は、いかにも魔術師らしいものだ。ウェイバーが嫌う魔術師の閉鎖性と社会からの乖離が結晶している。
「ケイネスがしでかしたことを考えるのだね。君は時計塔の御法度に触れたのだ。謹慎処分とする。授業への参加は一週間、認められない。反省文を提出しなさい。期日は一週間後とする」
「分かりました」
しょんぼりとした声は、ウェイバーでさえ可哀想に思うものだった。
だが彼には協力してもらわなければならない。幸い、学部長は彼の行動まで制限しなかった。腐っても名門アーチボルト家である。
「失礼します」
両開きの扉が開いて、見上げるほど背の高い色の薄い少年が現れた。彼はウェイバーに気づくと、
「わあああっ」
廊下を大きく飛びすさった。両手を上げて、意外とコミカルなポーズだ。
ウェイバーは笑いそうになって口元を引き締めた。
「今夜、僕の部屋に来いよ。話つけようぜ」
「……どこなんだよ、お前の寮」
「研究生だからさ。寮じゃないんだ。西棟の二階だよ」
「え?」
ライネスが大きく目を見開いた。彼は分かったのだ。
「今はロード・エルメロイの部屋が僕の部屋だ。分かるだろ」
「なんで」
「知らないよ。上の先生たちに聞けばいいだろ。夕飯、終わったら来い。いいな」
「行ってやらあ。待ってろ」
ライネスはいいうちの子とは思えない口の悪さで啖呵を切った。ウェイバーはよっと壁から背中を離してライネスに手を上げた。
「必ず来いよ。逃げるな」
それは自分に対する言葉でもあった。
次は聖杯と対決か。
英雄王の示唆に入っていく気がして、なんだか寒い。ここから先に行かない方がいいのでは。いや。逃げるわけにはいかない。そして僕は、必ず生き残らなければならない。どんな悲劇が起こったとしても。
この身体が朽ち果てるまで、生きて生きて、一つでも多くのものを見て、聞いて。あいつに、たくさん話してやるんだ。
その日まで絶対、諦めるわけにはいかない。
ウェイバーが学園棟に戻ると、廊下に人気はなく静かだった。授業が始まっている。だがウェイバーには出席義務がない。迷わず図書館に向かう。
以前は貴重な書物などを借りることさえできなかったが、今は違う。
上層部の目的がどうであれ、今のウェイバーは研究生だ。どんな書物でも閲覧可能。それを止める理由はない。
「聖杯戦争に関する本を全部」
「えっ」
司書が驚いて仰け反った。
「全部、ですか。大変貴重な書物も含まれますけれども」
「前回の戦争を検証したいんでね。どれが参考になるか分からないから、とりあえず全部出してもらえるかな。書室は空いてる?」
「3番を御利用下さい。書籍を運びますので、お待ちください」
「頼むね」
ウェイバーが納まる三番書室は一番広い部屋で、前は貸してもらえなかった。中央の大きな机に司書が次々と本を積み上げた。
ざっと百冊はあったと思う。
だがウェイバーにとっては大した量ではない。次々と本をめくり、内容をざっと確認する。
知りたいのは聖杯の基本術式。過去の令呪の作用と術式から逸脱する先例があるか。
驚いたことに、多くの観戦記が出されている。腕に覚えがあり、裕福な魔術師は聖杯戦争が起きると分かると、日本の冬木に滞在し、自分なりに使い魔を放って観戦する者がいるのだ。もちろん監督役の許す範囲でということになる。
しかも第四次聖杯戦争に関する私的な手記も多く出回っており──自分のことがどう書かれているのか、ものすごく、ものすごく気になるが──ウェイバーから見ると、信用度は低い。
もし今回の聖杯戦争において、魔術協会がまとめた調書に記されていない内容が手記にあれば、それは協会に対して情報を隠匿したことを示す証拠となり、ペナルティが課される。だから今回の聖杯戦争に関する観戦録は除外して構わないだろう。
第八からの情報を握り、現場にいたウェイバー以上の情報を持つ者は限られる。
最初の聖杯戦争ということになる第一次は、『始まりの御三家』の間で起こった内紛であり、外部からは窺いしれない。第二次もあまりにも記録が前で、信用できそうな資料がない。
監督役が入った第三次聖杯戦争に関するいくつかの手記、聖杯成立について記された非常に古い手記、さらに基礎理論の考察から聖杯の分析を行ったいくつかの論文をウェイバーは選んだ。
最悪、実験するしかないだろうけど。
まずは外堀から埋める。
キャスターを見つけた時も基礎的な理論で正解に辿りついた。
むしろ足元に答えはあるんだ。
ウェイバーは携帯とパソコンを起動し、次々と書物を読破する。文字が薄れていたりするものもあったが、画像を取りこんで分析すると全て読めた。
たぶん、お偉方は「昔の文字を読める魔術」でも起動して読むんだろうけど、そんなの要らないんだよ。今はこれで充分だ。
聖杯における、令呪による契約システムを立ち上げたのは『始まりの御三家』の一つ、マキリが生んだ怪物、ゾォルゲンだ。彼のシステムは降霊術というより、動物を使役する魔術を基本におき、自律性のある生命体なら、なんでも使役できるらしい。
当然だが、詳細は秘術であり、推測するしかない。
でも令呪の強制性を考えると、ゴーレムを操る術式と無縁とは思えないんだよな……ウェイバーは考えられる理論を並べ、それに合う現象が起こっていたか検証し、実例からさらに理論を詰める。必要な画像は携帯からパソコンに取り込み、データを比較して検証する。本を並べて頭をひねるより確実で速い。
もしケイネス先生が令呪に介入できたのなら、同じ資料から当たったはずで、僕がやってることは正解に近づいているはずなんだ。もちろん、アーチボルト家の口伝とかだったら、完全にアウトだけど。
気がつくと、陽が落ちていた。
「よし。基本の検証、終了」
ウェイバーはペンタブを放りだす。
「あ、夕飯!」
時計塔は全寮制なので当然、生徒には食事が提供される。ウェイバーの待遇は教授たちに準じるものに変わっているので、寮の食堂で食事をとりたい場合は午後の仕込みが始まる前に連絡しておかなければならないのだ。
今日は行こうかなって思っていたのに。
「失敗したー」
以前なら、ウェイバーは空きっ腹をかかえてベッドに潜りこんだだろう。だが今はそこそこの年金が支給されている。妙な贅沢をしなければ、むしろ優雅に暮らせる額だ。
「仕方ない。外で食べるか」
ウェイバーは司書に礼を言って時計塔を出た。
とたんに騒々しい車の音や人の声が襲ってくる。不思議な気持ちで街を歩く。冬木にいた時は、これが普通だ。ライダーとも外には出た。暗くなりはじめた街をゆっくり歩く。空腹で速く歩けない。
あいつと一緒に飯でも食いに行きたかったな。
もっと普通に。
少しくらいなら酒、付き合ってやってもよかったかもしれない。ついていけると思えないけど。
あいつ、しっかりお好み焼きを食ってたんだよな。ホント、ちゃっかりしてた。
ウェイバーはパブの扉を開ける。学校近くにあって、関係者の利用も多い。人気店や有名店ではないが、そのぶん家庭的で気取らない。
「兄ちゃん、一人?」
「そう。カウンターでいいかな」
「どうぞ」
ウェイバーは身分証を見せて席に着く。ソーセージ&マッシュにヨークシャー・プディング、頭の回転を落としたくないので紅茶。昼を忘れたし、無性にお腹が空いて仕方がないので、コーヒークリームのチョコレートケーキも食後に持ってきてもらう。
一人の食事は慣れていたはずなのに、少し変な感じがする。
ずっとグレンとマーサと三人で食べていたからだ。
いないはずなのに、イスカンダルがいる気がしていた。目を閉じると、隣にいる気がする。
坊主、一杯くらい呑まんのか。
ダメだよ。そもそも僕は酒が好きじゃない。言っただろ。
いかんなあ、まだ、そんなことを言うとるのか。何の酒ならいけるんだ。葡萄酒がいけんとはなあ。
ワインか。呑む気はないけど、懐かしいな。あのとき、英雄王が出したワインはすっごくいい香りがした。僕でも分かるくらい。
「お待たせしました。ソーセージとプディングね」
「ありがとう」
頭の中で聖杯について得た情報を整理しつづけている。それなのにイスカンダルとのくだらない会話も続けている。奇妙な空想が止まらない。
特別、美味しいわけでもないパン粉入りのソーセージ。プディングにマスタードと肉汁をつけて口に押しこむ。さらっとしたマッシュポテトと茹でた人参にウスターソースを振りかける。とにかく食べて力を蓄える。あの時と同じように。
バテたら、負ける。動けなくなる。
ウェイバーはパブを出ると、イギリスのド定番、プレタマンジェで朝御飯と夜食を買いこむ。チキンと胡瓜をマヨネーズソースで挟んだチキンサラダとBLT、チョコクロワッサンとハーブのロールパン。これだけあれば飢えることはないだろう。
紙袋を下げて、ウェイバーは自室に戻った。
夜の時計塔は不気味だ。変なざわめきと静謐が同居する。空間を激しく魔力が行きかっているのに、人の姿は見えない。特に西棟の気配は独特だ。この騒然とした暗黒を普通の人は感じとれるのだろうか。
二階の廊下に足をかけると古い床板がぎしっと鳴る。それさえ、どこまで本当の音か分からないと思う。
自室の前に立つと、ぱっと薄青い灯りがついて、
「ざけんなよ、てめえ! 呼び出しといて、どこほっつき歩いてたんだ!」
なんとライネスが立っていた。薄青い光に照らし出されると、背が高く色の薄いライネスは幽鬼に見えた。
「うわあああああっ」
ウェイバーは派手な悲鳴をあげて飛びすさる。
「いたのかよっ」
「待たせてんじゃねえ。こんなとこで待ってる身になれや」
「ごめん、夕飯、頼みそこねてさ」
「そういや、お前、食堂に来なかったけど」
「教授と同じ扱いなんだよ。連絡するの忘れるから、外で済ませてる」
「はあ? ばっかじゃねえの」
それからライネスが灯りを見上げた。
「叔父上の術だ」
その目が潤んでいるように思ったが、薄暗いからよく分からない。ウェイバーは静かに扉を開けた。
「入れよ、話はそれからだ」
ライネスが淡い金髪を踊らせて頷いた。
ウェイバーは喧嘩をするつもりではなかったから、ライネスにお茶を出した。安っぽいティーバッグだったが、彼は何も言わずにお茶を受けた。大した家具もなく、ライネスに椅子を勧めると、ウェイバーはデスクの椅子を持ってくるしかなかった。
「叔父上が作ったままなんだな」
ライネスは部屋を見渡し、手を閃かせた。ここはケイネスが作った強力な結界が維持され、魔術的な防諜や透視を防いでいる。学園棟と違って作りもいいので音洩れもない。
「僕にいじれるシロモノじゃない。変なとこもあるけど、今はこのまま生活してる」
「いいぜ。ここなら何でも話せる。この階に住んでる奴らは信用できねえ」
「全くだ」
ウェイバーが肩をすくめると、ライネスも口元を歪めて笑った。ウェイバーには、ソフィアリ教授の吊るし上げ方で、彼が渡ってきた環境が手にとるように理解できた。
「どこから説明すればいいのかな」
「まず聞かないわけにはいかねえよ。なんで叔父上の刻印がお前の腕に生えてんだよ」
ライネスはちらりと一端を見ただけで刻印が一族のものであると判別している。かなり優秀な魔術師のようだ。だからウェイバーは隠さず話すと決めた。
「マダム・スリーテンの騙し討ちに遭った」
「はあ?」
ウェイバーは一連の事情を手短に説明した。ライネスは茫然とした顔を隠さず、パサッとした金髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「大叔母様さあ、めっちゃきついのよ」
「ま、そうかなって思った」
「じゃないと叔父上があーゆー感じにならねえのよ」
「ああ、そうなんだ」
「うちさ、アーチボルトの分家なんだ。流石に十代も血を重ねると分家も増える。でも一族がバラバラになって刻印が散逸しないように、定期的に本家と結婚を繰り返すんだ。俺はよく知らないんだけど、ちょうど大叔母様の前の代で、属性の関係でうちと本家が揉めたらしいのよ。だけど、大叔母様は平然と本家に輿入れした。御蔭で一族の結束は保たれた。ほんでもってケイネスおじさんが生まれたワケじゃん。もう、無敵よ、無敵」
ライネスがさらさらっと語ってみせた事情は、血を重ねた魔術師の家ならめずらしい話ではなかった。だがウェイバーには思ったこともない内情だ。
「そうなんだ。大切な話をしてくれて、ありがとう」
「別に。いまさら隠すことじゃねえし。皆、知ってる」
彼の言う皆は、古い魔術血統を誇る名家のことだ。彼らは次代の交配のために、常に各一族の動向を注視しているからだ。
「優しい人なんだよな、たぶん」
ウェイバーはあの夜、彼女がホテルまで来てくれたことを忘れない。彼女は一族のために自分を犠牲にしたとも言える。
ライネスがウェイバーを覗きこんで、にかっと笑った。
「うん。いい人。だからソラウさんのこと、マジ気に入ってたんだよね。それもガッカリしてると思う」
「そっか。お前にも謝るよ。ケイネス先生の聖遺物をとって、悪かった」
ウェイバーはさっと頭を下げた。これだけは避けて通れないことを分かっていた。
ライネスが肩を怒らせるのが気配で分かる。
「あの英霊をおじさんが呼び出せてたら、勝てた」
下を向くウェイバーの視界でライネスの膝に大粒の涙が落ちた。
「おじさんは、おじさんは、うちの誇りだ! 聖杯戦争に勝てなかったなんて、全部そうだろ! 誰も聖杯をとってないんだ、一度負けただけで、なんで馬鹿にされなきゃいけないんだ! 魔力を失ったのだって、ワケがあるだろ。そんなの簡単に起こることじゃない。不運だったんだ! 銃をとるほど追いつめられたんだ! それを、あいつら、あんなにおじさんを持ち上げてたクセに!!」
彼は憚りもなく大声で泣いた。
ウェイバーは彼が泣きやむのを、じっと待った。シャワールームからタオルをとってきて渡すと、ライネスはやっと泣きやんだ。
「ありがと」
「いいよ。気持ちは分かる。僕も、あいつがいなくなる時、一生分泣いた」
ライネスが目を見開いてウェイバーを見上げる。ウェイバーは視線を逸らして肩をすくめた。
「聖杯戦争に行く前、馬鹿にされてたのは僕だった」
ライネスはタオルを口に押し当てて黙っている。
「今は僕を持ち上げてるけど、僕が何かしでかしたって思った瞬間、あいつらは僕を攻撃する。同じだよ、ライネス」
ウェイバーがデスクチェアに座ると、ライネスがしゃくり上げながら、ウェイバーに手を伸ばした。
「分かんねえのは、なんでさっき、刻印が発動したかってことだよ。お前、これ使えんの?」
「いや。先生の刻印を僕が使えるわけないだろ」
「だよな。じゃ、なんでだ。ちょっと見せろよ。ちゃんと全部」
「ああ」
ウェイバーが袖を開いて腕を出すと、ライネスは立ってウェイバーの周りをくるくる回り、腕全体に走る複雑な模様をしげしげと見た。
「なんだ、これ」
彼は腕に触れようとして、手を引っこめる。気難しげに眉をしかめた。
「全体的に妙だな。おじさんの術は術なんだけど、なんとなくおかしいって感じで。でも、ここ、うちの術式じゃねえ。絶対違う」
彼が指でくるくると示した場所は特徴的な模様が走っていた。二つの曲線に鷲の羽を思わせる突起が広がる。それはウェイバーにとって生涯忘れられない形だ。
「それは僕の令呪だ」
「は?」
ウェイバーは穏やかに、静かにライネスを見つめた。
「これは令呪に関する刻印だ」
「聖杯絡みってことか?」
「間違いなく。お前が発動させてくれたから解った。ケイネス先生はマキリの術を模倣して契約システムに介入した。僕じゃ、発動させるには全く魔力が足りないし、今は聖杯が休眠中だ。それなのに発動した。お前、僕にいったい、どんな術をかけようとしたんだ?」
「ちょっと全身の血液でも凍らせようかと、めいっぱい」
てへ、と金髪に手をやるライネスに、ウェイバーが口元をぴくぴくさせた。
「それが人にすることかよ。第一、お前、忘れたのか。この刻印、持ったまま僕が死んだら、こいつは僕の刻印に変化する。そしたら、こいつがアーチボルトに適合する可能性は低くなって、お前は刻印を一つ失うんだぞ」
「あっ」
ライネスががっくりと床にしゃがみこむ。ウェイバーはため息をついて椅子の端をつかむ。
「お前のすること、マダム・スリーテンは見抜いてたんだろ。お前が僕を殺したりして、これ以上アーチボルトが汚名を着ることのないように予防したんだ」
そして、この不世出の魔術が何か、知りたかった。どうやってケイネス先生が頂点の聖杯に介入したのか、知りたかったんだ。『始まりの御三家』を追い落とすために。僕が謎を解き、解明することに賭けたんだ。
「この刻印が僕に適合したのは、僕がマスターだったからだ。この身体には魔術痕跡が残ってる。というか、今回の件で解ったけど、令呪ってのは刻印移植の変形なんだ。見えるようにしてあるのは、令呪の使用回数を確認するため。本来は見える必要がない」
「そうか。そうだよな。令呪って英霊に言うこと聞かせるやつだろ。使役魔術の刻印だったわけか。なんか、契約の瞬間、痛いらしいけどマジ?」
ライネスがふんふんと床で座ったまま頷いている。ウェイバーは椅子に手をついたまま頷いた。
「けっこうね。一瞬だけど」
「ふうん、なるほど」
ライネスは血気盛んなだけで、頭も切れるようだ。流石はケイネスの再従兄弟ということか。
「勘違いしないでほしいんだけどさ、僕はこれ、アーチボルトに返したいんだよ」
「刻印管理課は? フツー、あそこだろ」
「その刻印管理課でお手上げ。今はマダム・ダグラス・カーの患者だよ」
ウェイバーの囁きにライネスが弾かれたように顔を上げた。水色の瞳がうっすらと光を弾く。
「マジで!? お前、マジ、ヤバいじゃん。あの宮廷女狐の患者って……はあ。完全、詰んでるぞ、それ」
「……今の悪口、黙っといてやるからな」
ウェイバーが横目で睨むと、
「は」
またライネスが口を押さえて、背筋を伸ばす。誰に聞かれたわけでもなかろうに、彼はそわそわした様子だった。
「この刻印を外すには実質的にゾォルゲン・マキリが構築した契約システムと同時に、ロード・エルメロイが秘術を尽くして作り上げた変則魔術を解明するしかない。そしたら、僕にはこいつを外せる。刻印移植の基本は管理課で見て解ったから」
「は?」
ライネスが信じられないものを見るようにウェイバーを見た。
「お前、それマジ?」
「別に大したことじゃない。二、三回見れば、たいていの魔術は理論、解るだろ」
ライネスは黙りこんだ。
そのとき、彼も気がついた。
ウェイバー・ベルベットの恐るべき才能に。
これが彼を在野の魔術師から時計塔の俊英にのし上げたのは間違いない。
普通は使用できない魔術は理論も何も分からないものだ。誰だって最初は手取り足取り、親から教わり、魔術の基本を修めていく。一つ一つ積み上げた先に大きな術があるものなのだ。その応用で他を理解する。
しかしウェイバーは違うらしい。自分では使えない術式でも瞬時に理解し、魔力と属性さえつりあえば物にしてしまうのだ。それは、あってはならないほどの才能だった。どの家門の秘術でも、彼は理解できるのかもしれない。だとしたら、彼の前で行使したとたん、秘密は秘密でなくなる。
彼の痩せぎすの身体の中に、魔術の根幹を揺るがす可能性が眠っている──
もし彼が優秀な魔術回路を有していたら、『魔法使いの弟子』遠坂永人に匹敵したかもしれない。ただ一代で『始まりの御三家』に名を連ねた天才に。
ウェイバーが冷えた鉄色の瞳でライネスに約した。
「幸い、刻印移植に大きな魔力は必要ない。僕でも自分で施術できる。全ての術式が解けたら、刻印をお前に返す。お前には術式の解明に協力してほしい。起動してないと解らないところがあるんだ。そもそもアーチボルトの刻印だから、血族の魔力じゃないと発動しないんじゃないかと思ってる」
ライネスは神妙な面持ちでウェイバーを見つめ返した。
「できるのか」
「できるかじゃない。やるんだよ。そうする以外、何があるんだ。このままだと避けられない争いが起きる」
ライネスは首を傾げる。
「次の聖杯戦争は六十年後だろ」
「そうじゃない。今すぐ、明日にでも、学園の中で殺しあいが始まってもおかしくない。皆、さっきのことを『僕がアーチボルトの刻印を発動させた』と思ってるはずだ」
「そんなことありゃしないって。俺が術をかけたんだ。謹慎食らったのも俺だぜ!?」
「そんなの関係ない。僕はお前が術を発動させたって解る。でも魔力を全て、刻印が食っちまったんだ、飢えた英霊みたいに。見てた連中には、そこらへん、よく分かってないと思う」
「フツー、見たら分かるだろ、魔力の方向くらい」
「それはお前くらい優秀な奴の話だよ。僕の周りにいたのは血の深い子たちじゃなかった。見誤る可能性が高い。そうしたら何が起こる」
ライネスは黙りこんだ。床の上で靴の足首を両手でつかんで身体を揺らす。
「分かんねえな。他人の刻印が発動するわけないだろ」
これが常識であるうちに、事態を食い止めなければならない。
ウェイバーの焦燥感は、あの頃を思い出させるレベルに高まっていた。
「時間がないんだ! 僕がアーチボルトの刻印を使えたって勘違いしたら、刻印を奪えばいいって考える奴が必ず出てくる。血を重ねるなんて待っていられない奴らにとって、今日の出来事は黙示録のラッパだ。滅びの始まりになりかねない」
ライネスが唖然茫然とウェイバーを見上げる。
「そんな、ヤバいこと……フツーしねえって」
「聖杯戦争って何だ? ほかの奴らを追い落として、自分の願いを叶えるための殺しあいだろ。聖杯なんかなくたって殺しあいはできる」
ウェイバーは立ち上がった。
「ライネス・アーチボルト。お前はやるのか。やらないのか」
彼は打たれたように目を開き、じっとウェイバーを見上げた。
ウェイバーが手を伸ばすと、ライネスは突然ぎゅっとつかんで立ち上がった。
「いいぜ。お前が聖遺物とったことは、俺が術かけたことでチャラだ。引き分けだろ」
「ああ」
「やってやるぜ。叔父上の術に迫ってやる。十代目の最初の仕事にしてやんよ」
二人はぎゅっと手を握る。
二人の小さな、とてつもない戦争が始まった。
そのまま二人は術の解析に入った。寮であればできないが、ウェイバーのいる西棟は研究棟で消灯時間の規定がない。それにライネスが謹慎処分を受けていたことも功を奏した。翌日の授業がないので、二人は思いきり魔術解析に没頭できた。
ウェイバーはいつものようにデスクにパソコンと携帯を出し、隣にライネスを座らせた。
「ちょうどいい感じに励起してほしいんだけどさ、さっきみたいにガチで発動しない程度で」
「ええ!?」
ライネスは困ったように高い背を揺らした。
「うーんと、要するに半殺しにすればいいってことか」
「!」
ウェイバーはぱかんと口を開けてライネスに横目だ。
「お前さあ、口悪いな。名門のくせに」
「フレンドリーと言えよ。ちょっとだけ魔力を流すって感じか。分かった。やってみる」
伸ばしたウェイバーの左手にライネスが手を重ねる。
「ええと」
「バンってやるなよ。お前、回路が優秀そうだから、出力低ーくで。車のアイドリングくらいで」
警戒するウェイバーの横で、ライネスは天井を見たまま、ふらふらと頭を揺らした。パサついた金髪が灯りをはじいてキラキラする。
彼の手が少しウェイバーの手を押す感じがした。
すうっと刻印が起動し、微かに輝く。適当な感じだったくせにコントロールが完璧だ。
「ど?」
得意げなライネスにウェイバーはにっと笑った。
「流石、アーチボルトの十代目」
「あ、ホントだ。刻印と術がずれてる! こんなの、うちの術式じゃねえぞ。特にここらへん」
「刻印の方は何の魔術か分かるか」
「ああ。ここは治癒魔術。あ、もしかして治癒の術式を借りて魔力を伝達してるとか」
ウェイバーが刻印をじっと見つめる。それはライネスにとって、魔法の目のように思われた。彼が一族の秘術を丸裸にしていく過程は恐ろしいものでもあった。
「だな。ここの刻印は? 腕の刻印と励起してる術式がズレてるな。なんだ、これ」
片手でウェイバーが器用に刻印の写真を撮る。彼が写真のデータをパソコンで検証する様をライネスは不思議な気持ちで眺めた。
「お前、そういうの分かんの」
「便利だよ。時間と魔力を節約できる」
「ふうん」
ウェイバーがマウスをひょいと滑らせて頷いた。
「分かった。励起した術式はマキリの使役魔術を基本にしてる。別の魔術で見られてるのと近い。でも腕の刻印は完全にケイネス先生の術式だ。前に授業で見た。召喚術の変形だ」
「覚えてんのかよ」
「ああ」
ウェイバーは事もなげだ。
ライネスは震撼するしかない。頭がいいって、こんな怖いことだったんだな……こいつ、マジモンのバケモンかもしれねえわ。
「疲れたら言ってくれ。消耗戦がしたいわけじゃない」
「別に。何かしてるって感覚もないほど、軽ーい感じでやってっから。手から漏れてるって感じかな」
「……ふうん」
ウェイバーには信じられない話だ。今でさえ青息吐息。刻印に食われる魔力は返してほしいほどの量なのだ。
「僕はケイネス先生をよく思えない部分あるけど、神童なのは確かだな。血に刻むほど聖杯を研究して、起動した時だけ、術式が現れるようにするなんて、普通は考えつかない。こうやって聖杯のシステム自体を騙す必要があったんだ。ケイネス先生とソラウさんの二人をマスターだと認識させるために」
「どういうことだ」
血族のライネスも知らないらしい。聖杯戦争とは、こういうものだ。
ウェイバーはぱちんと実行キーを押した。
魔力の分岐路が完全に聖杯の魔力供給路の術式と一致した。
「ケイネス先生とソラウさんは二人で一人のマスターだった。この刻印が証明してる。どちらが死んでも、どちらかが生きていればランサーの現界は保たれた。チートもいいところだ」
「う」
突然、ライネスからの魔力が止まった。ウェイバーの肩に重りがつけられたような疲労が来る。
ライネスがまた、ぼろぼろと泣きだした。彼は必死に掌で涙を隠そうとしていた。
「おじさんさあ、ソラウさんに本気惚れしてたのよ。日本に出発する前のパーティだってソラウ、ソラウって、俺たちのことなんか全然お構いなしでさ。きっと、一緒に戦いたかったんだよ」
もし、そんな理由だったとしたら、それは聖杯戦争において、あまりにも甘かったとしか言い様がない。
坊主、今夜はその辺にしとけ。
「分かってるよ、ライダー」
「何、何言ってんだ?」
ライネスに言われても、ウェイバーは気づかなかった。
「大丈夫。マキリの術もだいたい分かったよ」
「は?」
ライネスは耳を疑った。
「まだ生きてるとかいう噂のゾォルゲン・マキリのシステムを?」
「うん。だいたい分かった」
ウェイバーが目を閉じて自分の頭の横で手をくるくる回した。
「ここにある。面倒な術式だけど、理解はできた。後は実践だけだ……」
ライネスの横で、ウェイバーの身体がずるっと椅子に沈む。
「おい、ウェイバー」
困惑したライネスの声はウェイバーに届かなかった。彼の意識は刻印の魔力消費に吸いこまれていた。
エラいことに巻きこまれているな、坊主。
ウェイバーの隣に彼がいた。ウェイバーの倍はありそうに背が高く、分厚い胸板に丸太のような腕と足。メキメキと音がしそうに鍛え上げられた筋肉の鎧。その上に簡素な鎧をつけ、すり切れたマントをまとい、胡座をかく。いかつい顔がにかっと笑う。燃える赤毛と子供のように輝く茶色の瞳が眩しくて、ウェイバーは瞬きした。
「なんだよ、ライダー。知ってるのか」
いつも、余がマスターのことは見ておるからのう。なにしろ貴様は現世に生きる、ただ一人の臣下であるわけだ。気になって仕方がないわ。
「お前は自分がこっちで遊びたいんだろ」
これはしたり。
イスカンダルがぽんと自分の頭を叩く。ウェイバーは思わず笑った。
やっと笑ったな、坊主。
イスカンダルに覗きこまれて、ウェイバーはため息まじりに肩をすくめた。
「仕方がないだろ。お前が行っちまってから大変なことばっかりなんだよ。お前のこと、ゆっくり思い出す暇もない」
そんなことはあるまい。毎日、話しておるではないか。今宵は特に坊主に声が届きやすい気がしてな。こうして話しかけてみたというわけだ。
「僕の夢も手が込んできたな。随分リアルだ」
夢ではないと言うとろうに。英雄王の奴がな、英霊の座に戻っておらんのだ。どこをほっつき歩いておるのやら。
「受肉したって言ってたぜ。もう会った」
頭をかかえるウェイバーの横でイスカンダルが目を剥いた。
なんと。余の望みは実現可能であったと申すか。であれば、次の召喚にも応えねばならんな。
「やめとけ、ライダー。たぶん、まともな話じゃない。あれは万能の願望器なんかじゃない。何か、とんでもないヤバいシロモノに変わってる」
ふうむ。
彼が気難しげに唸っている。ウェイバーは自分でも気づかない淡い笑みが浮かべていた。
「なんか楽しそうだな、そっち」
おうよ。騎士王の奴めが貴様を案じておるわ。貴様を我が民と呼びおってな。
「ま、そうかもね。イギリス人だから。でも、僕はお前の臣下だから。アーサー王には仕えられない」
ウェイバーが見上げると、イスカンダルがぱんと背中に手をあてた。なんだか、とても温かい。
ふん、余もデキる臣下を譲るほど、お人好しではないわ。
「僕の肩に全てが懸かっているんだ。魔術の未来、魔術師の未来、目の前にいるあいつらの生命。何もかも。魔術の世界を救わなきゃならない。じゃないと、僕が愛するものが消えてしまう」
僕の力が足りなかったから、お前が消えてしまったように。
「そんなの僕は嫌なんだよ」
震えるウェイバーの肩をイスカンダルのバカでかい手が抱いている。
世界を救うとな。大した偉業ではないか。
「僕には大きすぎるよ、ライダー」
そりゃあ言うても詮ないな。誰であろうと世界と並び立つことはできぬ。願いが大きいのは当然だ。ふむ。余の臣下が世界を救うとな。その意気や、よし。将の二、三人も送ってやれたらいいのだが。
「そんなのいらねえ」
ウェイバーは俯いた。ダメだ、涙がこぼれそうだ。こいつの前では絶対、泣かない。調子に乗るか、変な気を遣われるか。どっちも願い下げだ。
「来るんだったら、お前が来いよ」
さきほど応えるなと言ったくせに、今度は来いときたか。あれか、エピメニデスの逆説か?
「違う、分かれよ、ライダー!」
王の命である。
世界を救い、余に献上せよ! ウェイバー・ベルベット!
「!!」
目を覚ますと、安っぽい薄い白カーテンの間から眩い陽射しが伸びていた。
「え? なんだ、今の。ホントに、あの人の命か」
だったら、やるしかないだろ。いや、言われなくてもやらなきゃいけないと思ってるけど。
見回すとライネスがいない。食事に戻ったのだろう。
起きようとした瞬間、
「う、ああああ」
ウェイバーはベッドの中でのたうち回る。猛烈な寒気が襲ってきて、全身がガタガタ震える。左腕がもぎ取られるような痛みで視界が霞む。あまりの痛みに痛みを痛みと認識できず、次第にぼうっとしてきた。
なんか、これ、ヤバいんじゃないか。
ライダー、なんで隣にいないんだ。いつもベッドの下で寝転んでたのに。
時間は戻って夜半。
ライネスの前でウェイバーは意識を失うように眠りこんでしまった。
「え、どうすんだ、これ」
ライネスはきょろきょろと部屋を見回し、ウェイバーをよっと椅子から抱き上げた。十六歳のライネスから見てもウェイバーは小柄で痩せていて軽かった。
なんで、こんな奴が生き残れたのか不思議だったけど、こいつ、叔父上よりヤバいな。
ベッドに運んで布団をかけてやると、ウェイバーの手が何かをつかもうとした。
「……Rider, ……」
ライネスはぎゅっと胸をつかまれた気がした。
さっきも呼んでいた。しかも気づいていないふうで。
聖杯戦争に行くと、こうなっちまうのかな。たぶん、こいつ、一生サーヴァントのこと、忘れられないんだろうな。
時代を超えて現れる英雄たち──彼らは全て超絶の人物。そんな英傑と日々を過ごしたら、現代の日常なんて酷くつまらない退屈なものになるのかもしれない。ウェイバーの渡った修羅場は、おそらくケイネスが死に追いつめられたそれと、大差はあるまい。それでも彼は生き延びた。
「俺はまだまだ、なのかな」
ライネスは時計を見上げて肩をすくめた。
もう夜の二時を回っている。寮には見張の鴉が放されていて、寮則を破った生徒は瞬時に見つかる。ライネスは時計塔に入った時から気づいているが、血の浅い子供たちの中には気づかずに脱走を繰り返す輩もいた。
流石に謹慎中に鴉に捕まるのはマズいだろ。
今日はここに泊めてもらうか。
ライネスはウェイバーの座っていたデスクチェアで腕組みして目を閉じた。
安っぽいカーテンのせいで、翌日は早く目が覚めた。部屋の中は白々として静まり返っている。椅子で寝たので、授業中のうたた寝みたいに身体がきしむ。ライネスが起きても、ベッドのウェイバーは起きる気配がない。時計を見ると、もうすぐ七時。食堂に集まる時間だ。
とりあえず、飯食いに行くか。
廊下に出て、ライネスはさっと魔術による防御を起動した。ごく薄く。おかしな空気が漂っている。ケイネスの結界に守られていると気づかなかった。
なんだ。これは。呪詛に近いか。
時計塔の中でやらかす奴がいるのかよ。びっくりだな、おい。
「おはよう」
背後から声をかけられて、ライネスは心臓が止まりそうになった。だが彼は穏やかに振り返り、会釈した。
「どうも」
時計塔は将来の敵が集う戦場。ここは蠱毒の壺の中。
ライネスは入学時に親から叩きこまれている。いつ如何なる時も気を抜かず、決して秘密を口に上せてはいけない。そして目上の者に対してであっても、攻撃と防御を忘れるな、と。
学校という地獄を勝ち抜いてこその名門なのだ。
「おはようございます」
誰だ、こいつ。
学校では見ない。
壮年の痩せた魔術師だ。昔風のローブを着ているが、見た目通りの歳と見かけか判ったものではない。ライネスは防御のレベルを上げた。触られなくても危険なタイプかもしれねえし。目も合わせているようで合わせない。拘束される危険がある。
「君は謹慎中ではないのかね。何故ここに」
「研究生と叔父の話を」
当たり障りのないこと以外、口にしない。言葉をとられると厄介だ。何をするか分からないので、ウェイバーの名前も出さなかった。
「ベルベット君はどうかね。なにやら具合が悪いという噂だけれども」
「さあ」
ライネスは時計塔の闇を見た気がした。
ウェイバーにうちの刻印が入ってる話、相当、広まってると思った方がいいな、これ。下手したら域外のはずのダグラス・カーの患者だって話も。なんで注目してやがるんだ。普通だったら、他家の刻印なんて動くわけねえ馬鹿話だろ。
「俺は朝食の時間なので失礼します」
「ちょっとベルベット君にお見舞いをしたいんだがね」
ライネスはすっと目礼だけして早足に階段を降りた。背中を向けるのが怖かった。
あいつ、俺にドアを開けさせようとしやがった。叔父上の結界に弾かれるって判ってるからだ。それはお前が何かしでかそうとしたってことだよな、もう前に。敵意がなければ入れるはず。それが出来ないなら、お前は敵だ。
ウェイバーは大丈夫だ。
おじさんが守ってくれる。それに、ダグラス・カーの患者に手を出す馬鹿はいねえだろ。上の人間なら。
朝の食堂に特に変わった雰囲気はなかった。時計塔は生徒が多い学校ではないので、この食堂には初等部から教授まで、全ての入寮者が集まる。修道院のように大きな食卓がいくつかあり、基本的に似た年代の子供たちが固まって座る。教授たちは特に指定された席がない。
食堂には専属の給仕スタッフがいて、毎食ごとにコースのようにサーブされる。そもそも自宅でそのように暮らしている子供たちが多いので、そちらに合わせた形式だ。
ライネスはよれた服のまま、寮母に挨拶する。
「おはようございます、寮母さん」
「おはよう、ミスタ・アーチボルト。貴方、謹慎中なのね。何をやらかしたの」
「ちょっとデカイ術ぶちかまして」
「ほどほどにしなさいよ。席はあそこ。分かってるわね」
寮母が指したのは謹慎中の生徒が座ることに決まっている末席だ。
「はい。どうも」
寮母から食事券を受け取って、ライネスは席に着いた。この食事券はホテルと全く同じシステムだ。生徒には払い込んだ寮費に相当する食事券が支給され、相応の食事が提供される。余裕のある子息には毎日フルコースを平らげて、ぶくぶく太っていく奴もいる。
ライネスは特に上乗せなしの普通の食事だ。それでも、ちょっとしたビストロ程度に美味いものが出てくるのでありがたい。
もちろん、朝はフル・ブレックファスト。グリルしたソーセージにベイクドビーンズ、ローストしたトマトとフライドポテト。メインは希望すれば卵料理やベーコンエッグに替えられる。ライネスはソーセージ一択だ。ちなみに、ここのソーセージにはパン粉は入っていない。グッドな話だ。パンは出された籠から食べるだけ取る方式。スコーンとクロワッサンにした。ジュースはオレンジか林檎。今日は林檎にする。お腹が空いたのでヨーグルトもつけてもらった。
食事が出るまでの間、ライネスは耳を澄ます。
かえって、少し離れた席に隔離されていて、よかった。
誰と誰が話しているか、様子はどうか、よく分かる。妙に賑やかだと思った。ボートの日の朝の喧噪みたいに。
盛り上がってる、てのは、この学校ではロクな話じゃないな。
「そんな話やめなよ」
「だって皆、言ってるよ」
通りすがりの女子たちの会話でライネスは眉をひそめた。
噂? 何の。
少しだけ耳に魔力を集中する。周りの生徒が感知できない程度に。身体の中の水を操って、鼓膜の感度を上げる。目を伏せると、離れた席にいるはずの彼らの会話がコンサート会場の爆音のように耳に入ってくる。
「だから、噂なのよ。研究生にアーチボルトの刻印が入ってるって」
「なんでさ。適合しないだろ」
「実験? みたい」
ウェイバーが言ってた大叔母様の届け出か。刻印管理課の奴らがバラしやがったのかよ。最悪だぜ、オイ。お墨付きの情報ってことになるじゃねえかよ。うちの事情を勝手にバラしやがって。覚えとけよ。
「誰でも使える術式ってのあるじゃん? ああいうのだったんじゃ」
目の前にソーセージがおかれても、ライネスは気もそぞろだ。
「そんな単純な術を刻印に刻まないよ」
「でも昨日、発動したって」
「やっぱ、ホントはウェイバーって、すごい魔術回路を隠してたんだ!」
「見間違いだろ、そこにいた奴、誰かいる?」
やばいな。ウェイバーが予測した状況の半歩手前まで来ちまってるぞ、コレ。
ライネスはベイクドビーンズとトマトをスプーンでぐしゃぐしゃにした。口に押しこんで、どんよりする。
ウェイバーの頭のよさ、それ自体が黙示録だわ。これから起こる不幸を予言するカサンドラだぜ、マジで。
そりゃ知らないより知って、予防した方がいいに決まってるけどさ。気がついたら足元に地面がなかったってのはゴメンだし、馬鹿すぎる。でも。
メンタル弱い奴は、あいつと一緒にいれねえな。
あいつの話す内容についていけねえだろうし、あの才能に気づいたら疑心暗鬼と恐怖で卑屈になる。
ライネスはぐっとナイフを入れてソーセージを切る。
俺は平気だけどな!
叔父上を見て、育ってきたんだ。このくらい屁でもねえ。だけど、この中の何人があいつに潰されずに耐えられるのかな。ちょいと楽しみだぜ。
食事を終えて紅茶を待っていると、二人の少年が現れた。
といってもライネスの方が上級生だ。時計塔の序列は一般的な学校とは違う。定められたカリキュラムはなく、各自、自分の実力にあった授業に参加するので、学年もない。ただ実力だけが支配する。ライネスは在籍する子供たちの間では真ん中くらいの年頃だが、席次は最上級にあたっていた。
「あの、ライネスさん」
その顔には見覚えがあった。昨日、ウェイバーの横にいた少年たちだ。
「確か、あー、アシュリーだったか」
「うん、アシュリー・マクウィリアムだよ。覚えててくれて、ありがとう」
彼らはお行儀よくライネスの隣に立ち、声をひそめた。
「聞いてるかもしれないけど、ウェイバーさんのこと」
「何」
ライネスは自分からは何も言わない。そうすることで、どのくらい話が広まっているか確認しようとした。社交界の常套手段だ。後ろにいた、もう一人の少年カラムが饒舌に話しだした。
「昨日から変な噂が広まってて。ウェイバーさんにライネスさんちの刻印が入ってて、昨日、結界が作動したのは、それが発動したからだって」
「はあ?」
わざとライネスは声を高く出した。
「んな、ことあるわけねえだろ」
「でも昨日、ライネスさん、なんで、それがお前の手にって言いましたよね」
カラムの言葉は核心に迫っている。だからライネスは否定しなければならなかった。
「あー、間違い、間違い。見間違っちまった!」
ざっと多くの子供たちが振り返ったので、自分たちの会話が大勢に聞かれていたことが分かる。こんな開放空間では当然てやつか。だからライネスは大仰に手を振り回した。
「ほら、俺って分家ってやつだから? アーチゾルテの刻印みたいに見えちまった。あいつの刻印がちょっと似てたんだよな。それだけ」
「え、そうなんですか?」
カラムは明らかに信じていなかった。アシュリーは口を引き結んでいる。だからライネスは畳みかける。
「くっだらねえ間違いした上に、あれで謹慎、食らっちまった。損したぜ、マジで」
「誰でも使える刻印だって噂も流れてますけど」
「んなの、刻印の意味がねえだろが。目覚ませや」
ライネスは紅茶を待たずに席を立った。
誰でも使える刻印?
とんでもない噂に化けたものだ。ウェイバーの推測さえも越えている。
そして、ライネスはぶっ飛びの事実に気づいてしまった。
「戻らねえと」
ウェイバーの神経質そうな声が頭の中で再生される。
第一、お前、忘れたのか。この刻印、持ったまま僕が死んだら、こいつは僕の刻印に変化する。そしたら、こいつがアーチボルトに適合する可能性は低くなって──そうだよ、あれが使える刻印だと勘違いしたやつにとって、ウェイバーの死は願ったり叶ったりだ。
叔父上の属性は風と水。叔父上は、それを隠してなかった。ウェイバーは鉱石科に登録してる時点で地の属性持ちだって見当はつく。
あいつを殺してから刻印を取り出せば、刻印に付随する属性が三つに増える。適合する可能性が爆上がりってわけだ。
マズいぞ、勘違いしてる奴らの頭の中では、時計塔で最も脆弱な肉体に最も価値ある刻印が入ってるってわけだ。殺して出すのは簡単至極。あいつは、あの通り、魔術師としては弱いんだから!
あいつを置いてきちまった。
守らねえと。とんでもないことになる。
ウェイバー・ベルベット──時計塔の探求者 ④楽園の蛇 に続く
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言峰璃正を中心にアルトリアさんとギルガメッシュ、ゾォルゲンが活躍します。