ウェイバー・ベルベット──生命の礼装④孔雀島の夢
※『Fate/Zero』二次創作です
※『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿』『ロード・エルメロイⅡ世の冒険』ともに未読です
※『FGO』は未プレイです
※ライネスは男の子で、名前は同じだけど別人です
※登場するメインキャラクターはウェイバー、イスカンダルです
※時計塔の描写は『Fate/Zero』の説明から逆算できるものにしています
※トップ絵は大清水さちさん https://twitter.com/sachishimizu に依頼しました
前の話↓
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4. 孔雀島の夢
ウェイバーが目を覚ましたとき、どこにいるかも判らなかった。
後ろ手に椅子に縛られており、まるで刑事ドラマか何かのようだと思った。全身が麻痺して動かない。何か薬を盛られたか、術をかけられている。どこも痛くはなかったが、縛られていること自体に驚いた。
周囲は妙に豪奢な空間だった。サンスーシー様式の華やかな大広間。そして床は大理石。二月の空気にしんと冷え、震えが来るほど寒かった。
目を上げると、そこには我が目を疑う懐かしい顔があった。
白い長い髪をゆったり垂らし、血の色を透かせる大きな瞳は宝石のごとく。冬だというのに薄物のドレスはナポレオン時代のごとく滑らかに空気にたなびく。麗しき容貌が無表情にウェイバーを見つめていた。
「なんで……アインツベルンが」
ウェイバーには訳が分からない。聖杯戦争は終わったはずだ。とうの昔に。
「あんた、セイバーと一緒にいたアインツベルンの人工生命体だろ。僕に何の用がある」
「アイリスフィールは失敗したわ」
彼女の細い声は、ウェイバーが知る彼女と全く同じだった。
「彼女は聖杯を手に入れられなかった」
「聖杯は成ったはず。違うのか」
ギルガメッシュの話が確かなら、第四次聖杯戦争の聖杯は英霊が六人還ったところであふれたという。
「あれが聖杯の成る時だというの? 貴方は全く理解していないのに、どうして英霊を召喚したの」
ぼんやりする意識の中で、ウェイバーは刺されたように閃いた。
あれを感知されたのか。
時計塔に現れたギルガメッシュの要求はセイバーであったアーサー王、アルトリア・ペンドラゴンの召喚だった。ウェイバーはケイネス・エルメロイ・アーチボルトの術式と龍脈を利用し、彼女を召喚しえた。そしてアーサー王たる彼女は自らの領土を荒らしたギルガメッシュを許さず、撃退してくれたというわけだった。
それは限られた人間しか知らないはずのことだった。
だがウェイバーは知らなかったのだ。聖杯の中にアインツベルンが目を持っていたことを──
「イリヤスフィールが言ったの。大きな固まりが入ってきたって」
「誰だ、それ」
「次の小聖杯よ。アインツベルンは聖杯戦争に向けて、必要な準備は調っているわ」
ウェイバーは理解できないほどの執念を感じて寒気がした。
そりゃ、アインツベルンにとって、聖杯戦争は最大の優先事なのかもしれない。だけど、もう六十年後の準備だって!? それが終わってるって。
そうか、成功しそうなホムンクルスを作っては凍結保存する。
そうやって、ふるいにかけた個体を送りこんでくるのかもしれない。
「イリヤスフィールは作り直しのできない特別な個体なの。彼女の状態を元に戻すだけで何週間もかかったわ。大変な損失よ」
ウェイバーは何も答えず、ただホムンクルスを睨みつけた。
「貴方はどうやって聖杯を起動したの。先の戦争が終わってから一年も経っていない。一体だけだとしても召喚できる力は聖杯に残っていなかった。どこからどうやって、魔力を供給したの」
「僕は何もしていない」
「いいえ。貴方よ」
赤い瞳は揺らぎもせず、真っすぐにウェイバーだけを見つめている。
「聖杯は新たに契約者を選んでいない。存命中の元マスターは五名。召喚が行われたのはイギリス。あの日、英国にいたのは貴方とウォルデグレイヴ・ダグラス・カーのみ。ダグラス・カーの長がバッキンガムにいたことは判っているわ。条件を満たすのは貴方しかいない」
「……」
驚嘆すべき事だった。
ケイネス先生の術にこいつら、気づいてない。
時計塔の『神童』と呼ばれた技倆に曇りはなく、死した後も彼は自らの後継者を守っている。自らの最高傑作である術式で。
実際にマスターとしてセイバーを召喚したのはライネスだ。しかしケイネスが残した術のせいで聖杯はライネスを個別のマスターとして認識せず、刻印で繋がり、独立した契約痕跡を持つウェイバーをマスターとして認識したのだ。
「……は」
頭がクラクラする。なんだ、これ。何されたんだ、僕。
なんか、目眩か、これ。
「貴方、本当に魔術師なの」
「そうだけど」
「弱すぎる。たかが眠りの術を解除できるまで半日もかかるなんて」
アイリスフィールの顔を持つホムンクルスが冷たく見下ろしている。
「貴方に英霊召喚が可能になる莫大な魔力なんて存在しない。何か術を施したはずよ。それを教えなさい」
赤い瞳がにっこり微笑む。
「聖杯を求めるのが六十年後でなければならないという理由はどこにもないのよ、ウェイバー・ベルベット」
「何もしてない。僕じゃない」
ウェイバーは白を切り通せると思ったわけではない。だが切っている間は時間を稼げる。
ライネスが捜すはずだ。あるいはブリギットが。
そうなれば、おそらく政府が動く。ダグラス・カーが動かすだろう。僕がどこにいるか捜してるはずだ。時間稼ぎは有効なはず。
ホムンクルスの美女が困ったように小首を傾げた。
「私たちは優れた知性と感性を持たされているの。貴方に手荒なことをしたくないわ。話してくれないかしら」
「だから僕じゃない。他を当たってくれよ。それこそ言峰綺礼なんて怪しそうだと思うけどね」
「彼は違うわ。貴方がやったのよ。ほら」
ホムンクルスがウェイバーの後ろに回る。彼女の冷たい手がウェイバーの指先に触れた。
「契約の証が残っているわ。今も輝いているじゃない」
ウェイバーの左腕に光が走り、激痛が走る。
「あ、あああっ」
「左? 貴方の令呪は右手にあったはず」
「左だよッ、勘違いするなっ、左利きなんだ」
咄嗟にウェイバーは叫んでいた。
彼らがライネスに気づいたら。彼の腕にある刻印を解析されたら、全てが明るみに出てしまう。よりにもよってアインツベルンに!? それだけはダメだ。封印どころの騒ぎじゃない。
だって、こいつら普通じゃないぞ!
「ま、いいわ」
くるっとホムンクルスが後ろから覗きこむ。白い髪が視界を遮り、その中から赤い瞳が見つめていた。
「喋ってもらう方法はいくつもあるのよ。貴方はとっても弱い魔術師だから、私の術に逆らえるわけがないわ。さあ、本当のことを話して。どうやって、呼んだの」
ウェイバーは反射的に目を瞑っていた。目を見たら催眠にかけられる。
「あら、そんなことしても無駄よ。さあ、話しなさい」
動けないウェイバーの咽喉にホムンクルスの冷たい手がまといつく。首を絞めるように両手で咽喉を覆い、彼女はウェイバーの耳元に囁いた。
「Spreche! Die deine Feierlichkeiten. (秘儀を明かせ)」
「!」
妙な術をかけられていなかったら、ウェイバーは術を解体し、逃げきっただろう。ただし、その後で生命に関わるような拷問が待っていたことは間違いない。だが、そのときウェイバーは魔術的な対応が全くできない状態だった。
言葉が咽喉を昇ってくる。
駄目だ。
ライネスを売れるか!
こんな僕を慕って幕下に入ってくれた彼を!
ウェイバーは必死に頭を振る。なんとかホムンクルスの手を外そうともがく。唇が震える。声が出ようとしている。
どうしよう、ライダー、助けて!
臣ウェイバー・ベルベットよ、其が身命を余に託すか。
冬木の丘で契約した、あの時から、僕の生命は貴方のものだ──
ウェイバーの意識にイスカンダルが現れた。
あのマントが風をはらみ、赤い火のような髪をなびかせる。彼はそっとウェイバーを抱き上げた。彼のごつい肩に頭を預け、ウェイバーはぼんやりと目を開く。イスカンダルがぐいとウェイバーを抱き寄せる。彼の顔に顔が近づく。足が彼の腕にかかっているのも分かっていた。
不思議な光景が見えた。遙か西の平原のような、金色に輝く荒野と岩砂漠──
「いずれは参じるところだ。今回は顔見せ程度に思っておけ」
「ライダー?」
あ、と思った。
彼に触れている。彼と普通に、意識ではなく、話している。
「後で身体に反動はあろうが、火急の時だ。今は坊主の仲間に癒やせる面子もおるのであろう。ならば、余が少々、干渉しても害はあるまい」
「ライダー!」
ぎゅっと筋肉の糸を縒った太い首にしがみついた。
「会いたかった……! ずっと、ずっと、ずっと」
「はは、なにやら面映ゆいぞ」
笑うイスカンダルの頬に黒髪が触れている。声の振動が頬を震わせる。
このまま僕を連れていってくれ。何もかも棄てて、構わない──聖杯の呪いを灼き尽くせるなら、僕は生命を差し出してもいい。お前に会えない苦しさを捨てられるなら。
ウェイバーの首ががくっと脱力する。黒髪がばらんと散って顔を隠す。
白銀のホムンクルスは奇妙な反応にウェイバーの顔をぐいと仰向けさせた。
「おかしいわ。まだ眠りの術が効いてるのかしら」
彼女は簡単な仕草でかけた術を解除した。だがウェイバーは目覚めない。全く動く気配はなく、それどころか息をしているのかも怪しいほど静かだ。
「どういうこと。尋問の術が効かなかったのかしら。まさか」
「どうしたの」
全く同じ顔の美女が現れた。彼女たちは音もなく歩く。
「おかしいわ。喋らないの」
「あら、不思議ね」
二人の美女はウェイバーのあごを持ち上げて、しげしげと見つめる。
彼はほとんど息をしていない。伏せた瞼はぴくりともせず、身体はすっかり脱力している。彼の精神や魔術的な本質に触れることができない。完全に遮断されている。
「まさか、固有結界なの」
「体内固有結界……!? そんな大きな魔力は持っていないはず」
「どうすればいいの、これを」
美女たちが顔を寄せ合う。
ウェイバーは仮死状態に陥っていた。
ウォルデグレイヴに率いられて、子供たちは見たこともない建物の中に現れた。どこか懐かしいような古めかしさもある建物は旧東ベルリン側に属している。
「さあ、ベルリンに着いたぞ」
ロンドン、ダウニング街の外務省地下からベルリンの旧イギリス大使館に魔術的な通路があり、一瞬で移動できた。それは全くもって信じられない話で、そんなものがあることは一般的な魔術師は知らない。長く外交の陰で暗躍してきたダグラス・カーと、その協力者以外は知るはずもない緊急用通路だ。
大使館は長らくボンにあったが、壁崩壊後、かつてと同じ場所に戻すべく、この建物がイギリスの治外法権下に入っていたのは幸運としか言い様がない。
「本当にベルリンなのかよ」
きょろきょろするライネスに、マックスが頷いた。窓の外を指す。質実な石造りの大きな建物が視界を占める。
「ここはウンター・デン・リンデンの裏通りです。間違いありません」
「迎えが来てるはずよ。早く出ましょう」
ミアが先に立ってビルを抜ける。
ほんの二時間だった。
ウォルデグレイヴが現れて、あっというまに全ての準備が調った。まずファウスト家が全面協力を申し出た。ウォルデグレイヴはもちろんのこと、ライネスとトリフォンも本宅への滞在を許可された。
ビルの車留めに大きなメルセデスのリムジンが停まっていた。
運転手がさっと車の中から現れ、マックスを認めると一礼した。
「お迎えに上がりました、次代当主」
「Danke, おばあさまは」
「本宅にてお待ちでございます」
ライネスも唖然とする対応である。トリフォンは白い姿をさらに白くして言葉もない。
「お嬢さまもお早くどうぞ」
「Ja. Danke.」
ミアがドレスをひるがえして、さっとリムジンのドアをくぐった。ウォルデグレイヴが続き、ライネスも慣れた様子でリムジンに乗りこむ。すばやくテイルコートの裾をさばく手つきは滑らかだ。トリフォンが卒倒しそうな顔で端の席に座ると、最後にマックスが乗りこんだ。
「出して」
「かしこまりました」
車は渋滞の酷いベルリン中心部を避け、いったん郊外に出て環状線に乗る。100号線を一路、南下する。
「ウェイバーはどこにいるんだ」
リムジンの中も作戦会議の場となった。ウォルデグレイヴがこめかみに指先をあてて口元を歪めている。
「ははあ、やはり一つ覚えというわけだな」
「何」
ライネスはかりかりしている。ウェイバーがいなくなったと最初に気づき、一晩ほとんど眠らずにケント一帯を捜索していた。まさか、あっというまにドイツに脱出されたとは気づくはずもなかった。
ウォルデグレイヴが青い瞳を開くと指でこめかみを叩いた。彼はすでに使い魔を放ったらしい。
「孔雀島だ。アインツベルンの城がある」
「そうなの」
ミアが驚いたように声をあげた。
「そういえば、行ったことない。あんなに近いのに」
「孔雀島って近いのか」
「そう」
ミアが窓の外を指した。美しいベルリンの光景も楽しむ余裕がない。
「あっちの方よ。うちからすぐ近く。有名な観光地なの。でも、うち、泳ぐ時はイタリアかフランスに行くから」
「お前んち、想像以上にやべえな」
窓の外は早すぎる夕暮れが迫っていた。
ファウストの本宅は現在、ダーレムとグリューネヴァルトの境目にあたる住宅街にあった。森沿いにある三階建ての瀟洒な邸宅だ。現代風のすっきりした建物で、一見して魔術師の家とは思われない。だが魔力を持つ者には、そこに強力な結界が張られているのが解る。
「腕を上げたな、アン」
ウォルデグレイヴが車の中で呟いた。
一同はすぐ本宅に招き入れられた。
開放的で明るい西日の差す玄関に、目を疑うほど美しい老婦人が立っていた。すっきりしたパンツスーツで杖をついている。その落ち着いた表情、白い髪を優雅に結いあげた姿、年老いてなお眩い青い瞳は独特の気品があり、知性を感じさせる。
ミアが見せてくれた写真の面影が確かに、そこにあった。
彼女は真っすぐ、ウォルデグレイヴに手を伸ばした。
「ウォルデグレイヴ。先生、もう会えないものと」
「いつでも会いに来るものを。アン、元気そうでよかった」
背の高いウォルデグレイヴが老婦人をぎゅっと抱きしめる。彼女もウォルデグレイヴを見上げて微笑んだ。片手で背中を抱きしめ返す。
ライネスもトリフォンも声が出ない。奇妙な光景だ。
普通であれば、老婦人の方が『先生』であろう。だが、若いウォルデグレイヴの方が『先生』で老婦人が『生徒』らしい。
「先生に会えると聞いて、飛んできました。足が痛いわ」
「君が延命を望んでいないことは知っているが、足は治したらどうだね。帰ってきたら施術するが」
それを聞くと、老婦人が困ったようにミアに目を走らせた。
「そうですね。ミアの結婚式までは元気でいたいと思っています。お願いしてしまおうかしら」
「おばあさまっ」
ミアが飛びこむと彼女は急に祖母の顔に戻って、おっとりとミアを抱いた。
「よく帰ってきたわね。いいことではなかったけれど」
「あたし、見つけた。魔法の人を」
ミアの眩い笑顔に彼女は穏やかに頷いた。
「ね、行ってみて、よかったでしょう」
「うんっ」
そこで老婦人は一同に会釈した。
「ようこそ、我がファウストの邸宅へ。あたしはアン・マルガレーテ・ファウスト。お話は聞いています。中へどうぞ」
すぐにライネスが進み出た。テイルコートの胸に手をあてて一礼する。
「お世話になります。俺はコンノートのメイヴに連なるアーチボルトの十代目、ライネス・アーチゾルテ・アーチボルト。我が師ウェイバー・ベルベット奪還への協力に感謝します」
ライネスはアンの手をちょっと受けて会釈する。アンは楽しそうに微笑んだ。
「ロンドンの高名なる一族からお客様を招くのは光栄なことですよ。貴方は。白い方」
アンに促されると、トリフォンは急にシャキッとした。
「おれはプラハのユラーセクを継ぐトリフォンと申します。本日は宜しくお願いします」
「こちらこそ。またアインツベルンと戦うのね。因果なことだわ」
すぐに一同は庭の見える小さな客間で情報を整理した。
場を取り仕切るのはウォルデグレイヴだ。
「アン、孔雀島の城は見ていたのか」
「もちろん。24時間、使い魔に監視させているわ」
穏やかなアンの言葉にミアとマックスが顔を見合わせる。二人は全く知らなかった。自分たちの目の前にアインツベルンの拠点があることさえ。
「おばあさま、そんなことを」
ウォルデグレイヴは穏やかに微笑む。
「そもそも、あの城は燃え尽きたはずだが」
「あたしがベルリンに戻った直後はなかったけれど、壁が完成する頃には元に戻っていたわ。観光復興という名目で整備が行われたの。そのときに何故か、城も元に戻されたのよ」
「アインツベルンの恐ろしさだな。とにかく異常に金がある」
ライネスとトリフォンは黙って話を聞く。トリフォンはどうしていいのか分からないまま、それでも集中しなければならないことは分かっていた。
「今朝早く、明け方に誰かが城に入ったわ。使い魔の目では正確に捉えられなかった。でも複数であることは確か」
「なるほど。まずはウェイバーの身元を押さえなければならない。彼があの城にいるのは間違いないんだが、誰が潜入するか、だ。わたしが行ければいいんだが、事が派手になるのでね。できれば隠密に潜入し、ウェイバーの安全を確保してから喧嘩を売りたいところだ」
「やるのね」
ミアがウォルデグレイヴを見つめて悔しそうに唇を噛む。
「あたし、城の一つや二つは焼き払えるわ。先生が中にいないんだったら一瞬なのに」
「おれが行きます」
トリフォンが小さく手を上げた。
「我が家には隠身の術が伝わっていまして。よほどの結界でなければ、気づかれずに通れると思います」
ライネスがテーブル越しに手を伸ばして眉をひそめる。
「お前、そんな術、使えんのかよ」
暗に火すらマトモに使えないのに、という意味がある。トリフォンも分かっている。彼は灰色の瞳を上げた。
「何故か、小さな時から、これだけは使えたんです。誰にも見つからなくなるのが面白くて。透明人間ていうんでしょうか。それで、おれの魔術回路を調べたら、異常に質のいいことが判ってはいたんです」
そのとき、マックスがあ、と声をあげた。
「リフ、貴方、隠身の授業で最後まで先生に見つからなくて、呼び出された人だ……」
「あああああっ!」
ライネスがばっとトリフォンを指差した。
「あのときのあいつ、お前だったのかーっ」
先だっての授業を思い出して、ライネスがぱかんと口を開ける。トリフォンが顔を赤くして俯いた。
「はい。御蔭で初等部戻しは免れたんですけど、でも、その」
「よし、お前、行け」
ライネスがすばやく指示を出す。ライネスには計算があった。
正直、ウェイバーの状態は分からねえが、あいつのところにトリフォンを届けられれば、あいつにロケットランチャー持たせるようなもんだ。自力で出てくるだろ。
それにトリフォンのウェイバーへの傾倒は異常スレスレの深さだ。
危ない橋を渡ってでも、ウェイバーを確保するだろう。少なくとも外に連れ出せれば、なんらかの対処はできる。
ウォルデグレイヴも頷いた。
「時計塔の講師にも見つからないレベルなら、ホムンクルスを騙すことも可能だろう。宜しい。君が入れるように陽動をとろう。まず先陣は誰が切る」
「ぼくが行きます」
マックスがぐっと両手を組み合わせて握る。彼の目がキラキラと輝きはじめた。
「圧倒的な火力で人目を惹けるのはぼくでしょう。陽動には向いていると思います。ミアは本命に残してください。ぼくは早く撤退するケースも考えられるので」
「了解した。アーチボルトの。君は」
「俺も本命に残らせてもらう。最後まで保つのは俺とあんただけだろ」
ライネスの冷静な指摘にウォルデグレイヴが口元に拳を当てて苦笑いした。
「やれやれ。ケイネスが消えてくれたと思ったのに、十代目もなかなか侮れん」
「俺はウェイバー・ベルベットの一番弟子だ。期待しておけ」
「そうしよう。アン、船はあるかな」
ウォルデグレイヴの言葉に美しき老婦人が微笑んだ。
「そんなもの、ヴァン湖のヨットハーバーでお借りなさいな。ちょっとした悪の勧めよ」
「おばあさま」
マックスが困惑した顔でのりだした。
「思い出したのよ。それだけだわ。ねえ、キャスター」
彼女が美しい青い目を伏せた。
一同は慌ただしく栄養補給した後、夕刻のヨットハーバーでライトクルーザーに乗ろうとしている男性を捕まえた。彼は親切にウォルデグレイヴたちを孔雀島に送ってくれた。一同が上陸した時間はすでに遅く、周囲は暗くなっていた。孔雀島は小さな島の中にレストランやカフェ、小さな庭園や遊泳用の浜などがぎっしり詰まった観光地だ。
人目を惹くのは少し高くなった場所にある白亜の宮殿。孔雀島のシンボルでもある。
周囲はすでに薄暗く、多くの観光客がフェリーの発着所に集まっている。最終のフェリーはありえないほどの人出だった。
ウォルデグレイヴがわざと彼らの間を抜けて歩く。
彼は島全体に暗示をかけていた。
早く島から出なければならない、残ってはならない、と。
それは子供たちにとって恐ろしいほどの術だった。暗示をかける人数が増えれば増えるほど、必要な魔力は大きくなる。だが彼は涼しい顔で、島全体からの人払いを完了させてしまった。
「あちらさんも、お気づきではないかな。どれ、行くとしようか」
丘の上に建つ白い宮殿をウォルデグレイヴが見上げる。
トリフォンがすうっと気配を薄くした。
「では、参ります。どこから入るかは言いません。でも必ず先生を見つけ出します」
「わたしの経験が確かならね、あのホムンクルスたちはきっと、大切なものを二階の大広間に置いているはずだ。上から潰したまえ」
「そうします、では」
その瞬間、ライネス、ミア、マックスはトリフォンを見失った。そこにいたことが判っているのに、誰もいないとしか思えない。
「え……?」
ことにミアは驚いた顔が隠せない。ずっと魔術を教えていた後輩を感知できないことは驚きだった。
ウォルデグレイヴがスーツを飜して先導する。
「では、わたしが結界破りをかけている間に、マックス。燃やし尽くせ」
「Ja, für meinen Meister.」
マックスが一人で宮殿への丘を登っていく。
ウォルデグレイヴはミアとライネスを連れて、丘の後ろに回るルートをとる。ミアは一人、歩いていく兄を見上げて呟いた。
「お兄ちゃんに勝てるはずがないわ。本気のお兄ちゃんは怖いんだから」
マックスが宮殿前の広場に辿りつくと、城から浮世離れした美女が現れた。
白い髪と薄いドレスをなびかせて、彼女は穏やかに告げた。
「本日の見学時間は終了しました」
マックスの眉がぴくりと動く。彼は止まらず歩きつづける。
「おい、貴様、誰に向かって口を利く」
ごお……
ぞっとする音と共にマックスの周囲を細い炎が舞いだした。
彼の鮮やかな金髪は炎に照らされて赤く輝き、その目は研ぎ澄まされた金の光を放っていた。普段の抑えられた表情はどこへ……彼はくっと口元を歪めて手を伸ばした。あごを上げた表情は相手を侮蔑し、明らかに怒り狂っていた。
「ウェイバー・ベルベットを返せ。ここにいることは判っている。返答は」
「何のお話でしょう」
「愚弄するなら、それなりの返答をせねばなるまい。ファウストに逆らう者は死あるのみ」
金色の瞳が矢のごとくホムンクルスを刺している。
彼の手がぱっと開く。
「Flammenschrift!」
マックスをとりまいて魔法陣が現れる。そこから数十の炎の鞭が現れ、渦を巻く。彼はそのまま宮殿の入口に近づいた。
「Hilfe!」
ホムンクルスの美女が呼ばわるや、城の中からぞろぞろと奇妙な生きものが現れた。黒く濡れたそれらはマックスの炎に飛びこんでは燃えていく。だが炎は一向に弱まらない。
マックスの怒りは頂点に達していた。整った顔が歪むほど眉をしかめ、鋭い咆吼が口を割る。
「貴様自身が来い! 貴様を滅ぼして師を返してもらう!」
マックスの腕が上がる。
ご……っ……
「あっ!」
ホムンクルスの美女は避けきれない。白い髪、白い指先、白いドレスが黒く焦げていく。見渡すかぎり、切れ目なく風舞う炎に囲まれている。暴風と共に炎が舞い上がる。
業火に沈むマックスが高笑いする。
「さあ、次は誰だ、出てこい!」
彼は止まろうとしなかった。
ただ炎に照らされた城だけが白く、黒く燃えていく。マックスは長い足を上げ、燃える扉を蹴り割った。
トリフォンはなんと堂々、正面から城に入った。マックスに対応するために白い美女が現れた、その入口からすいと入った。
入口のホールは広く、おかしな話だが、誰もいなかった。
人の気配がない。
二階……右手に螺旋階段がある。大きな城ではないので、上から潰せというウォルデグレイヴの指示は正しい。トリフォンは音もなく、影もなく、二階に上がった。窓の外は業火の赤い照り返しで恐ろしい光景が広がる。
あれが、マックスさんの本気。やっぱり、おれとは違う。
思わず我が身を省みてしまう瞬間だったが、トリフォンは分かっていた。今、ウェイバーを助けられるのは自分だけだということを。
二階は一階よりも狭いようだった。
広い階段を回ると、驚くような広間が現れた。壁には鏡が貼られ、前には大きな窓が並ぶ。大理石の床を張った豪奢な広間は絶対王朝期の薫りを漂わせ、時代錯誤でさえあった。
広間の壁沿いに椅子が並ぶ。
その一脚に誰か座っていた。
さらりと揃った黒髪、細すぎる足のシルエット。
「!」
トリフォンは駆け寄った。見間違えるはずがない。毎日、目に焼きつけてきた師の姿だ。
はたして、椅子に縛りつけられていたのはウェイバーだった。ぐったりと首が前に垂れていて、顔が見えない。
「先生、来ました」
声をかけても、ぴくりともしない。
まさか。
恐ろしくなって、トリフォンはウェイバーの身体に触れた。ぞっとする冷たさと静けさ。息をしているのか、分からない。慌てて手を縛っている紐を外す。ウェイバーの冷たい指が触れるたび、心臓が悲鳴をあげる。
「先生、先生、目を覚ましてください……」
低い声で身体を揺さぶるが、反応がない。
先生がいなくなったら、おれは魔術師なんてなれない。どうしていいか、分からない!
「先生っ、死なないで!」
力を入れて揺さぶると、ぐらっとウェイバーの身体が倒れこんできた。
「は……」
息をつく音が耳に響いた。
よかった。
トリフォンはすばやく携帯をとりだしてワンコールする。これでライネスに連絡が入ったはずだ。とにかく身柄は確保した。携帯をしまうやいなや、するっとウェイバーの腕が動いた。くるりとトリフォンの首に絡みつく。
突然、彼が笑いだした。
「So, I need a minute for reading those books in shelves of the Museion, please, Ptolemaios!」
プトレマイオス? エジプトの?
何の話をしてるんだ。
ウェイバーがトリフォンの頬に頬を寄せて耳元で笑う。
「Rider? Let me have a ride Bucephalas, can I ?」
横目で見ると、彼が見たこともない明るい、晴れやかな笑顔で目を輝かせていた。
それはトリフォンにとってナイフで胸を刺されるような痛みを伴った。彼がぎゅっとしがみつく。
「Tis the time?」
背中が痛むほどの力が加わった。腕の中で、彼の身体が硬直した。首を絞められるような強さでウェイバーが頭を抱いた。
「Never, Rider.」
彼が肩で泣きだした。血を吐くような嗚咽。
「I’m ALWAYS longing for you, Rider……」
告白しているようだった。
これほど彼は英霊たるライダーを必要としているのだと。
そのとき、階下で大きな物音がした。大広間の窓の外を業火が立ちのぼる。一瞬で焦気が広間に立ちこめた。正面に並ぶガラス窓が高温と熱風で次々に弾け飛ぶ。溶けて光るガラスの残骸が降りそそぐ。トリフォンはぐっとウェイバーを抱いて庇った。
「早く、とんでもない魔術師だわ!」
一階のホールから声が響く。トリフォンは意を決して、しがみつくウェイバーをそのまま抱き上げた。
彼は茫然とあらぬ方を見つめ、白い頬と黒髪の間に涙が伝った。
術を維持したまま、ウェイバーを抱いてトリフォンは走った。二階から外に出られる通路があることを事前に確認していた。
背後で声が上がる。
「ウェイバー・ベルベットがいない!」
逃げきるしかない。
覚悟を決めた瞬間だった。
「リフ、状況」
冷えたウェイバーの声がした。
「先生、ここはベルリン、アインツベルンの城です。いま、背後から追われています」
「I see, Ghost-load, ……」
トリフォンの身体が自分の意志と関係なく立ち止まる。
彼はすうっと踵を返し、腕を上げた。
孔雀島は小さな島だ。城の裏側はもう浜辺だった。ウォルデグレイヴは城の真後ろに陣取った。
「まあ、あの時ほど複雑でも面白くもないが、ウェイバーが逃げる手助けにはなる」
そうっと城の壁に手をつくウォルデグレイヴにライネスが肩をすくめた。
「どのくらい時間かかりそう?」
「まあ十分とはかかるまいがね」
「あいつら排除したいんだけど、どっちが行く?」
ライネスの視線の先に白い美女がいた。長い白銀の髪を冬の夜気になびかせ、白い薄物のドレスが幽霊のように風を孕む。その後ろにぞろぞろと生きた死体が続いている。しかも、それも全て白い美女と同じホムンクルスだ。彼らが城を回って急速に間合いを詰めていた。
ミアがそちらに視線を走らせた。
「あたしが行く。あんたは最後まで押さえに回って。いざって時にフルの魔術師がいないと先生を助けられない」
「それで、お前は?」
見下ろすライネスに小さなミアがにやりと笑った。
「あんた、気づいてないのね。この中で一番回復が早いのはあたしだってこと。吐ききってもすぐ、戻ってやるわ。だから、あたしの本気を見てるといいわ。初めて人に見せるんだから」
「分かってんじゃねえかよ、ガキのくせに」
「馬鹿にしてると、あんたまで焼いちゃうわよ」
ミアが単身、整備された散歩道を歩む。シンプルな黒いドレスが裾を揺らす。
「さあ、御前試合を始めましょう。ルール無用の見世物よ。あたしを本気にしちゃ駄目なのよ。分かってる?」
ミアの周囲をつむじ風が取り巻きはじめる。何本もひゅるひゅると立ち上がる細い竜巻は串刺し公の刑場のごとく。そこを燦然と輝く美少女が進んでくる。鮮やかな金髪が風に渦を巻き、幼さと美しさが究極的に融けあう美貌を見え隠れさせる。美しい青玉の瞳が敵を捉える。
「なんで、あたしが先生と一緒にいないといけないのか、見せてあげる」
ただ彼女は幼い手を伸ばした。
「LanzenTaifon.」
ただ、それだけで美女の背後に群れた死体が一斉に、下から圧縮された空気の槍に貫かれた。全ての死体が破裂して吐き気を催す臭いが充満する。渦巻く風に血とちぎれた肉、腐った臓物が舞い飛び、瞬時に燃やし尽くされていく。一瞬の台風が過ぎた後、残っているのはホムンクルスの美女だけだった。
ミアはあごを微かに上げて、ぱっと掌を返した。
「Schebeln.」
それだけでホムンクルスの美女はあっけなく砕け散った。彼女は魔術に特化したホムンクルスであり、決して防がなかったわけではない。だがミアの前では無意味だったのだ。ほんの短い呪文だからこそ籠められた力は特大だった。
「はあ、はあ」
小さなミアは息を切らせる。すると後ろからライネスが首根っこを捕まえた。
「ほうら、お嬢ちゃんはおっさんと一緒にいな。いったん休憩」
「分かってるわよっ、離しなさいよっ」
ミアのドレスをつかんで、ライネスが引きずるようにウォルデグレイヴの元に連れていく。ウォルデグレイヴが壁を見上げて口元を歪めた。
「なんとまあ、流石はドクトルの御子孫か。普通ではないな」
「おっさん、結界は!」
「解除した。どれ、お迎えが必要なんじゃないかな」
ウォルデグレイヴがミアを抱き寄せる。彼は軽々とミアを抱き上げた。片手で携帯を取り出す。ライネスの胸で携帯が振動した。一応、開いて確認する。
メッセージは一文字だけ。
!
「よっしゃ、リフが確保した!」
「やったわ。じゃ、あんた、迎えに行きなさい」
ミアがぱあっと明るく笑う。彼女はすでに回復しつつある。化けもののような魔力量だ。しかも、まだ子供だというのに。
「言われなくても」
ライネスは携帯を閉じて内ポケットに滑りこませる。
ウォルデグレイヴが大使館と連絡を取りはじめる。
「わたしはミアと待機する」
「よろ」
ライネスは拳と手のひらをぶつけて、にっと笑う。
「んじゃ、師匠を迎えに行くとするか。本命の登場だ」
ライネスの全身に薄く魔力が通る。彼の身体の機能が拡張され、信じがたい跳躍を見せた。ふわりと軽やかにテイルコートを夜風に舞わせ、城の二階の庇に立った。
「坊主、すまんな。手間取った。宝具の展開とは少々、手妻が違ってな」
やだよ、ライダー、このまま。
イスカンダルが落ち着いた眼差しでウェイバーを貫いた。
「初陣の時だ。胸を張れ!」
ウェイバーの頬を涙が伝う。
それは夢の終わりにも似て、逃れられない運命の時が訪れる。
抱き上げていた腕が離れる。
二度と会えない。
もう、二度と。
いっそ生命を絶って、ここに居座って? そんなことをすれば、王命を違えて、僕に臣としての資格があるのか──生きろと命を受けたのに。何をしても生き残るために、あの子たちに連携路まで植えこんだのに。
離そうとするイスカンダルの手を離せない。
ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、お前のそばにいたいんだ。
あの苦しみの中に戻らなければならないのか。
本の中の名前ばっかり二〇〇〇年も永らえるくらいなら、せめてその一〇〇分の一でいい。現身の寿命がほしかったわい。
東征の果てに築き上げた帝国を統治することもなく、アレクサンドロス三世は三十歳ほどで没している。あまりにも若い。どれほど無念であったろうと思う。
こいつが咽喉から手が出るほど欲しいものを僕は持ってる──
「生きるとは、全てを燃やしつくして自らの名を刻むことだ」
歴史に?
「貴様自身の胸に、だ。死んだ後で自分が誰か分からんようでは、ここに戻ってこられんぞ」
ウェイバーは自分から手を離した。そうしなければならないのだと分かっていた。
イスカンダルがにっと歯を見せて笑った。
「それでこそ余の臣だ。進め、ウェイバー・ベルベット!」
先陣を切れ! 生命尽きるまで槍を下ろすな……
彼の声が遠ざかる。
あの夢の中に戻る日だけを胸に抱いて、再び世界に戻るのか。
ならば、勝つ。
何をしても生き残る。どれほどつらい日々だとしても、頭を上げて、僕の戦場を見渡してやる。
目を開いた時、炎が見えた。
燃えさかる城の廊下があった。生きもののように廊下を渦巻く紅蓮の炎。抱かれて走る振動が心臓を揺らす。
「リフ、状況」
「先生、ここはベルリン、アインツベルンの城です。いま、背後から追われています」
二人のホムンクルスがこちらに気づく。
僕は絶対に死ぬわけにはいかないんだ。
アインツベルンの美女たちは慌てていた。侵入には対処を用意していたが、トップクラスの魔術師が五人──それも結界破りのスペシャリスト、ウォルデグレイヴ・ダグラス・カーが再び襲来してくるとは予測していなかったのだ。
「ウェイバー・ベルベットは確保して」
「どこにいったの」
二階の大広間前の廊下で二人の美女が交差する。
一階のホールから火が上がり、二階の天井まで炎が伸びている。もはや城の中は息をするのも難しいほどの高温であり、呼吸をコントロールできる魔術師でなければ留まれない状況だった。
「ウェイバー・ベルベットを出せ! 貴様ら、殺しつくしてやるぞ」
怒り狂うマックスの雄叫びが炎の中で反響する。
広間の窓が割れた御蔭で二階の廊下には低温の空間が残されていた。そこを二人の美女が走り抜けんとした。
「Ghost-load, Fire!」
ウェイバーの意図通りにトリフォンの身体が動き、手が挙がる。
単純に火を撃つだけ。
だがトリフォンの回路は特級の大出力を持っている。火炎放射器の勢いで炎が渦巻いて伸びる。
一瞬でホムンクルスの髪とドレスに火がついた。白い姿が黒く焼け焦げ、崩れていく。
「わ」
トリフォンが自分のやったことに驚いている。
ウェイバーは抱き上げられた姿勢のまま、出られる場所はないか、必死に目を凝らす。おかしな結界の残骸があり、魔術的な目が利きにくい。そうでなくとも呼吸を魔術でコントロールしていなければ肺から焼け死ぬ高温だ。
「先生、非常口はどっちですか」
「え?」
流石にウェイバーが反応できない。
そのとき、背後の壁が砕け散った。突然、強烈にクーラーの効いた部屋に入ったように身体が縮み上がる。凄まじい冷気と津波のような気流が城の廊下をぶち抜いた。
「Hi, 消防隊の到着だぜ! お前ら調子よく燃してんじゃねえ、消す方になれや!」
ライネスが上空から飛び降りる。上の屋根まで抜けていて、一気に煙が噴き上がる。そして、強烈なバックファイアが階下を貫いた。
どん。
凄まじい音と共に城の正門が完全に抜け、サロンの壁が吹き飛んだ。
「ちっ、また俺が消すのかよ!」
「Stay close.」
飛び降りかけたライネスをウェイバーが呼び止める。
「外にいる連中から片付ける。出るぞ」
「Yes, Sir.」
ライネスが焼け崩れた下の大広間に向かって叫ぶ。通る声が炎の中に反響する。
「マックス、確保した、裏へ出ろ!」
「Ja, wohl!」
ライネスがウェイバーの顔を覗きこむ。彼は水色の瞳を細めて笑っていた。
「ちょい疲れてるな、大丈夫。ライネス様が来たからには指一本触れさせねえよ。裏にミアがいる」
「なら、そちら側から攻める」
「Jo, my master.」
「んじゃ、失礼して。リフも師匠もそのまま」
ライネスがトリフォンの手を握る。
「え、え」
「飛べ!」
崩れた二階の壁からライネスに手を引かれて飛び降りる。
「わあああ」
トリフォンは叫んだが、ぴたりと足は着地した。ライネスがトリフォンの身体も構成を変えて衝撃を吸収できるようにしていたのだ。
そこにはミアが待っていた。彼女が花のように明るく笑う。
「先生、あたし、迎えに来たよ」
「ありがとう」
「えへへ」
マックスも城を抜けて、こちらにやってきた。
その後ろから、どこから現れたのか全く分からないが、無数のホムンクルスがやってくる。全員、同じ白銀の髪に白いドレス、赤い目が爛々と夜に光る。彼女らは手に手を上げて、攻撃魔術を展開する。
猛烈な風や埃が舞い立ちはじめる。
「リフ、下ろせ」
「Jo.」
ウェイバーの足が大地に触れる。
「Deployment Sequencer, Ghost-load.」
魔法陣が花開く。彼の爪先から覚醒する龍脈が輝きはじめる。次々と開く魔法陣はドクトル・ファウストの秘術だった。四人の子供たちは自然に彼を囲んで進む。コートの裾が軍旗のようにはためいている。
突風に逆らってウェイバーは叫ぶ。
「いいか、僕たちを見た者を一人たりとて生きて帰すな! 使い魔一匹に至るまで」
僕の役目は引き金を引くことだ。
これは全て、僕が、僕の意志と責任でやることなんだ。
「Yes, Sir.」
「Ja, wohl.」
「Ja, Meister.」
「Jo, my master.」
揃えた黒髪が刃のように炎に艶めく。
この先、何があるとしても、この子たちの手を汚すのは僕だということを忘れない。
子供たちの手が挙がる。
ウェイバーはただ目を据える。
「Höllenquale Purgatorium.」
天が割れるような雷鳴がとどろき、早回しのフィルムのように黒雲が湧き起こり、渦を巻く。星空がかき消されたと思った瞬間、天と地をプラズマ走る青白の電撃が結びつける。金属すら蒸発する超高温の白い炎が空間を埋めつくす。衝撃波が拡散する。
轟音と死の電撃が消えた後、島は更地に戻っていた。
美しい城も緑の庭も船着き場も、何も残っていなかった。
「はっ、はっ」
ミアが息を切らせ、マックスはすとんと地面に座りこんでいた。
だが、ウェイバーはさらに踏み出した。足元で魔法陣が広がって光る。
「Ghost-load.」
腕が上がり、狙いを定める。
ライネスはじっと不動のまま。だがトリフォンは慌てた。
「待ってください、先生、その人は」
ウェイバーは止まらない。死に絶えた島で平然と浜から登ってくる男──ウェイバーは彼を撃とうとした。
「降参だ、ウェイバー・ベルベット」
男が両手を上げて降伏のポーズをとる。
それでもウェイバーは鉄色に冷えた瞳でウォルデグレイヴを射抜く。彼は手を下ろそうとはしなかった。
ウォルデグレイヴは余裕のある顔で微笑み、腕組みした。
「宜しい。取引しよう。わたしはいま見たことをブリギットにも話さない。これで、どうだね」
「誰なんだ、あんた」
「ウォルデグレイヴ・ダグラス・カー。君と違って、英霊に腕を落とされた男だよ」
おどけるようにスーツのポケットに指をかけるウォルデグレイヴに、ウェイバーはあっと瞬きした。
「君がしでかしたとんでもないことは、わたしも解った。だが、これはまだ眠らせておくべき秘密だと思う。それで、どうかね」
「分かった。協定を認める」
その瞬間、ウェイバーの身体が崩れ落ちた。
「先生!」
走り寄るトリフォンより後ろのライネスが速かった。危うくウェイバーを抱きとめる。
「おっさん、船は」
「下の浜に大使館の船が来ている」
「OK」
すぐにライネスがトリフォンにウェイバーを任せた。トリフォンはすばやくウェイバーの足に手をかけて子供のように縦に抱く。横に抱くには流石にウェイバーは重かった。
「リフ、ミアとマックス連れて、船に乗れ」
「ライネスさんは?」
「ん?」
ライネスが腕を伸ばして背筋を伸ばす。彼は夜風にぱさつく金髪を燦めかせて、にやりと笑った。
「掃討戦だ。お前ら皆、ガス欠だろ。師匠の命だ。使い魔一匹逃がさねえよ。行くぜ、おっさん」
「何も残ってなさそうだがねえ」
「この馬鹿みてえな魔術痕跡も消すんだよッ、手伝え、おっさんっ」
「こちらも一般人の目をごまかす結界を維持して働いてたんだが」
ウォルデグレイヴとライネスが連れだって丘を下っていく。
トリフォンはウェイバーを抱き上げ、疲れきったマックスとミアを連れて、浜についた船を目指した。
「ライダー! ライダー、出てこいよっ」
こんなふうに呼び出すのは初めてだった。いつも彼から話しかけてきて、話せるのだと気づき、やっと話す。ウェイバーは爆発的な行動力と裏腹にイスカンダルとの距離には敏感で、自分から彼に飛びこむのは苦手だった。そんなことをしなくてもイスカンダルが、いつも来てくれた。
癇癪を起こした子供のようなウェイバーの耳に、あの豪放磊落な笑い声が響き渡る。
いい初陣だったぞ。味方は誰も死なん。それでいい。
「ばかっ、いいわけないだろっ」
ふわっと前にいるのが分かる。感覚で、魂で、彼が目の前に立っているのが。
「いいから、胸貸せよ」
ぐいと彼のマントをつかんでみる。手に伝わる感覚は何もない。ただ頭の中で、意識で彼がいると分かるだけ。
そうは言ってもなあ、先ほどのように抱いてはやれんぞ。なにしろ、余は現身を、
「そんなこと、どうでもいいんだよ」
勝手に彼のマントの胸に身を投げる。彼の手が背中を抱く。触れていなくてもいい。そう分かるだけで心は癒やされる。埋まらないものが埋まったように勘違いできる。その夢が覚めないうちに、彼だけに心の裡を吐き出せれば。僕は……
「ああああ、あ、ああ」
途切れない嗚咽がウェイバーの咽喉を裂く。
イスカンダルが黙って肩に抱き上げてくれた。あの『夢』の中でしてくれたように。
アトレウスの子よ、アカイア勢の面々は、他の誰より……
普段の胴間声が嘘のような、深く響く朗とした声で彼がイーリアスを吟じてくれた。いまの音楽とは全く違う、心揺らす抑揚がウェイバーの胸に染みこんだ。
孔雀島の惨状は爆発事故が起きたことになっていた。陸軍による厳重な警戒線が敷かれ、マスコミが遠ざけられた。テロ事件を疑う世論の盛り上がりは、事件を隠蔽しなければならない魔術協会にとって、よい隠れ蓑だった。
ウェイバーの容態は悪かった。
高熱が続き、意識が安定しない。ウォルデグレイヴをもってしてもウェイバーの身体に起こっている現象が特定できなかった。しかも当のウェイバーが何があったのか、口を割ろうとしなかった。うなされながら、黙ってベッドに閉じこもっている。ウォルデグレイヴは対処療法に追われざるをえない。
実質的にウェイバーが失踪している間に、何があったのかは全く分からなかった。
幸い、彼にかけられた術式は全て解除されており、なんらかの薬物を摂取していたとしても、影響が残っていないことは判明した。
「あれは推測だが、一度、死にかけたのではないかな。魔術的な痕跡が何もないのでね」
ウォルデグレイヴの言葉にトリフォンは青ざめ、ウェイバーの部屋の前をうろうろと行ったり来たりする有様だ。ミアは毎日、遠慮がちにベッドを覗く。マックスも師同様に過労からの発熱が見られたが、こちらはウォルデグレイヴの施術で回復していた。
「もう、先生たら。おじさまに頼めばすぐ治るのに。意地張っちゃって。なんなのよ」
ミアは心配を通り越して不機嫌だった。ライネスは落ち着いている。コーヒーカップ片手にフォークをとる。
「あいつの心に入ろうとしても無駄なんだよ。あいつの全ては、結局のところ、ライダーのものなんだから」
淡々とライネスはココナツとパイナップルのケーキを口に運ぶ。
「先生、どう見ても悩んでましたものね。ここのところ」
マックスは戦闘時の狂乱が幻に思えるほど、普段の落ち着いた様子に戻っていた。品行方正としか言いようのない雰囲気が、かえって怖い。ライネスは小さく舌打ちする。
「あいつ、頭よすぎで考えすぎなんだよ」
「あたしたち、強いのに」
「あいつは繊細なの。俺たちとは違うってことだ」
ファウスト家は疲れた子供たちのために、たくさんの気遣いを見せてくれた。アンの手料理はイギリスの食事に馴染めず苦労していたトリフォンを慰めた。充分に広い客間でくつろいで過ごし、すばやく回復したライネスとトリフォンはミアに連れられてベルリンを観光した。
だが四日目になると、アンが一同に告げた。
「貴方たちは時計塔にお戻りなさい。貴方がたの先生は我が家が責任を持って面倒をみます。きちんと経過も知らせるから、しっかり学業に励むのですよ」
「でも」
ミアは納得したがらなかったが、アンがぴっと指を立てる。
「イースターの前に勉強しておかないと落第してしまうわよ」
「おばあさま、だって」
「トリフォンさん、これ。航空券。貴方に預けますから」
短い間にアンは、トリフォンが最も常識的で素直な人物であると見抜いたらしかった。それに彼はメンバーで唯一の成人だ。
「ミア、貴方たちは入国手続をしていないから。出国する時はイミグレーションの係員に暗示をかけなきゃ駄目よ。貴方なら簡単でしょ」
「できるけど、ああ」
ミアはドレスの裾を握って泣きそうな顔をしていた。
それでも子供たちが時計塔に帰ると、ウェイバーが起き出してきた。
彼はふらつきが見られるものの、起きて食事をとり、少しの時間なら読書をしたり、話したりできるようになった。それはマックスとミアの両親を安心させた。子供たちが時計塔でどう過ごしているのか、案じていたからだ。
「二人とも、よくやっています。とても優秀で。ライネスと同じ最上級の席次に入っていますから。ミアがリフの先生を努めてくれています」
「そのようで。あの子があんなに大人になるとは」
二人の両親は何度もウェイバーに子供たちを頼んだ。
ウェイバーは頷きながら、胸にずしりと重りが増えた。
そしてウォルデグレイヴがアンに施術をすると聞いて、ウェイバーは頼んだ。
「施術を見せてもらっても? これからに備えて、簡単でもいいから治癒魔術を強化しておきたいので」
「君の目のことは聞いている。好きなだけ盗んで構わないが、身体が保つかな」
ウォルデグレイヴに見下ろされて、ウェイバーはため息をついた。
「すみません」
「構わんよ。わたしは医者だ。患者の望まぬ施術はできない」
アンが二人を自身の工房に招いてくれた。
館の一角に、異質に思えるほど強固な結界が張られていた。近づいただけでウェイバーは足が止まった。
「あれ……」
その結界はマーリンのものに勝るとも劣らず、もっと洗練されている部分があった。ウェイバーの目をもってしても工房の中が覗けない。
「どうぞ。入れるはずよ」
アンの後について戸口に触れた時、ウェイバーは目を見開いた。
「……これ、ドクトル・ファウストの術式ですね」
「そうよ、キャスターがあたしに遺してくれたものよ」
アンの一言にウェイバーは弾かれたように顔を上げた。
「まさか……貴方のキャスターは」
「あの子たちには秘密よ。あたし以外は知らないことなの。貴方だから喋るのよ。ライダーのマスターさん」
アンが痩せた肩越しに振り返る。
工房の中は館の他の部屋とは全く違っていた。古めかしい大きな木の本棚があり、そこには、たくさんの本がぎっしりと詰まっていた。北欧風の洒落た館の中で、この工房だけは古いドイツの伝統を感じさせる美しい木の家具が並ぶ。
革張りの椅子に座って、アンはウォルデグレイヴに膝を治してもらった。
彼がそうっと手をあてただけで、アンの顔から痛みによる強ばりが消える。ウェイバーはその術式に気をとられ、頭の中で解析しようとした。
「やってしまったわ」
アンがため息をついた。彼女は老いた手を膝に置き、俯いた。
「これでまた、あの人に会いに行くのが遅くなってしまったわ」
ウェイバーの胸にその言葉が突き刺さる。アンが微笑んでウェイバーを見上げた。
「貴方はライダーだったんですってね」
「はい。ミアに聞きました。マダムはキャスターでらしたと」
「そう。あの人はあたしを助けるために聖杯の軛に飛びこんできた。大恐慌で死にかけていた、あたしを助けるために」
美しい老婦人の頬を真珠のような涙が伝った。
「あたし、貴方の言ったことを果たしたよって言いに行きたいのに、なかなか旅立てなくてね。どんなに待っているだろうか、と。でも、あたしが早く死んだら、あの人はがっかりするだろうと。いつも隣で見ていると分かってるのに、裏切れないわ」
ウェイバーはそっと老婦人に歩み寄った。
「僕も同じです。あの人に『生きろ』と命じられました」
「そう。征服王イスカンダル、流石だわね」
アンに見つめられると、ウェイバーは頬を紅潮させ、それから目を伏せた。ばらばらっと涙が落ちたが、止めることができなかった。ただ黒髪が揺れ、彼の頬を見え隠れさせる。
聖杯戦争において契約者が生き残る確率は高くない。三次・四次の聖杯戦争を通じても存命で戦争を終えた者は少ない。さらに魔術師としての能力を完全に保持したまま戦線を離脱しえたのは、ここに揃った3名のみである。
そして呼び出した英霊と良好な関係が築けるか、も分かれ道となる。
奇跡のような成功例が第三次のキャスター陣営と第四次におけるライダー陣営と言えよう。
人生の絶頂のような燦めく数日を過ごした後、彼らに残されたのは壮絶な喪失感と埋めあわせのつかない虚無。二度と会えない超絶の人物をひたすらに恋うる気持ちは、他者には理解しえないものだ。
生涯、心に空いた大きな穴から逃れることができない。
聖杯の贈りものを受け取れたが故の代償と言えた。
アンが手を伸ばしてウェイバーの背を抱いてくれた。
「つらいわね」
ウェイバーは無言で頷く。彼女の手がイスカンダルのように背中を叩いてくれた。
涙が止まらない。
ここでは泣いてもいいのだと分かった。彼女は分かってくれる。
「君たちは、わたしよりいいかもしれないと思うよ。君がライダーと駆け抜けた十一日間、わたしは生命を絶ちたくなるほどの狂騒に駆られた。自分を律するのが、これほど大変だと思ったことはない」
「ウォルデグレイヴさん?」
アンの向かいの椅子にウォルデグレイヴが腰を下ろす。彼は放心したように天井を見上げていた。
「わたしは陛下に聖杯戦争への参戦を禁じられていてね」
「えっ」
ダグラス・カーの人間が陛下と呼ぶのは、厳密にはアーサー王、アルトリア・ペンドラゴンただ一人──ウェイバーが驚いて背筋を伸ばすと、アンが仕草で空いた椅子を勧める。ウェイバーはよろけるように肘掛け付きの椅子にはまりこんだ。
ウォルデグレイヴが肘をついてウェイバーを見つめる。
「君には話してもよかろう。なにしろ現在、生き残っている数少ないマスターで、敵ではない」
「はい」
「第三次のセイバーも陛下でらしたのだ」
それはウェイバーも調べられないことの一つだった。ケイネスの術式を解く際に多くの資料に当たったが、かつてのサーヴァントに関しての記述はごく少ない。真名や能力を明かさないのが大前提の聖杯戦争において、サーヴァントの資料はほとんど残らないといってよかった。
「わたしは陛下に止められていなければ、間違いなく四次に参戦した。そして、ひとたび陛下を目にしたならば、自らのサーヴァントを使って衛宮切嗣を殺し、陛下と契約せんと迫っただろう。そんなことをすれば、わたしは王命を違えたことになり、陛下がわたしをお許しになるはずがないと分かっていても、だ」
ウェイバーにはよく分かる。
もし、次のチャンスがあったら、僕はあのマントをつかんで、再びあの丘に登るだろう。
そして今度は聖杯など競わず、最後のサーヴァントをなんとかして生存させ、イスカンダルと少しでも長く過ごすために死力を尽くす。
自分で、それが分かる。
ウェイバーはぎゅっと椅子の中で拳を握る。
ウォルデグレイヴが大きく息を吐く。
「陛下は聖杯に関わるなと仰せだった。それは正しい。あれは復讐者を呑みこんで変容している」
「アヴェンジャー? なんです、それは」
「アインツベルンが呼び出した禁断の英霊だ。聖杯に棲みついている」
肘掛けを指で叩くウォルデグレイヴをウェイバーは茫然と見つめる。
分かった。
英雄王が変わってしまった理由が。
きっとアヴェンジャーに干渉されたんだ。最後に受肉した時に。彼は彼でなくなっている。稀代の英雄王でさえ食われたというのか。
「君にはチャンスがあるかもしれない。だが、やめたまえ。ドクトルのお言葉を借りれば、聖杯は歪んでいる」
件の冬木の聖杯とやらが本当に噂通りのシロモノだってぇ保証はどこにもない──またもイスカンダルの言葉が頭に蘇る。
もし、イスカンダルがアヴェンジャーに食われたら?
僕は自分を許せない。召喚しなければ、と後悔しても間に合わない。
ウェイバーはぐっと椅子の中で両手を握りしめた。
「わたしは君に感謝しているのだよ、ウェイバー」
「え?」
ウォルデグレイヴが疲れきった、だが幸せな横顔で目を伏せた。
「君はわたしを三度、陛下に会わせてくれた。君は征服王を呼ぶこともできたはずなのに、陛下を呼んでくれた。あの方を再びブリテンの地に還してくれた。あの方の喜びはいかばかりであったろうと思う」
「アインツベルンは、あのとき貴方はバッキンガムにいたと」
「ロイヤル・スタッフの配置表はそうなっていただろうがね」
ウォルデグレイヴが遠くに視線を流して、目配せした。
「大龍脈の上にいれば、どこにいようと仕事はできる。ただ御前に参じるのは畏れ多くてね。あの方に叱られるような気がして。あの庭から出られなかった。わたしは臆病者だ」
「ブリギットさんに懐かしい顔と言ってました。貴方のことを覚えていると思います」
ウォルデグレイヴが目元を隠した。
ここにいる三人だけが共有できる感情が工房に静けさをもたらす。
アンがウェイバーに微笑みかけた。
「追想の会に貴方もようこそ、ウェイバー・ベルベット。ときどきでいいの。お話ししましょう」
「はい」
ウェイバーはただ頷いた。
あの眩き十一日間に全てを燃やしつくした。それはきっと二人も同じ。生命の全てを投じた日々を駆けた者だけが知る絶頂の幸福感と絶望を──醒めない夢が結晶となり、時の果てに繋がるまで。
ウェイバー・ベルベット──生命の礼装 epilogue +ライナーノーツ に続く
公開したらリンクを貼ります
第三次聖杯戦争、ウォルデグレイヴに関してはこちら↓
ギルガメッシュとアルトリアさんが好きな方にこちら↓