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Fate/Revenge 8. 聖杯戦争三日目・朝から昼-③

 二次創作で書いた第三次聖杯戦争ものです。イラストは大清水さち。
※執筆したのは2011~12年。FGO配信前です。
※参照しているのは『Fate/Zero』『Fate/Staynight(アニメ版)』のみです。
※原作と共通で登場するのはアルトリア、ギルガメッシュ、言峰璃正、間桐臓硯(ゾォルゲン・マキリ)です。
※FGOに登場するエンキドゥとメフィストフェレスも出ますが、FGOとは法具なども含めて全く違うので御注意下さい。

「貴方は昨夜の戦いを見ていたのか」
 アルトリアが訝しげに見上げると、ランサーは薄く微笑んで頷いた。彼の顔は整いすぎていて機械じみた冷たさを感じさせる。その人柄とまるでつりあわない。今も奇妙に落ち着いた瞳でセイバーを見据えている。
「僕は君の戦いを全部見ている。君の戦う姿が好きだから。君はとても気持ちのいい戦い方をする」
「それは、賞め言葉として受け取っておこう」
「うん。賞めてるよ。だから知りたい。アーチャーを君は殺しておくべきだった。それなのに君は助けてしまった。彼は監督役の下ですでに新しいマスターと再契約したよ。知っている?」
「いや」
 アルトリアは目を丸くする。カスパルは魔術的な手段を全く行使していないので、アルトリアは、どこの陣営であれ、よく知らないのだった。
「じゃあライダーのことは? 知っている?」
「いや。向こうは私を知っているようだったが、私は彼を知らぬ」
「あれはね、君の臣下になりきりたかった別人だよ。あの白鳥は彼の夢から編まれたものだ。魂を連れ去るすべをもっていた」
 アルトリアは小さく目を見開く。自分が察した危険はそれであったか。だから星々は自分を守ってくれたのか、と。
「でもね、大丈夫」
 ランサーがずいとテーブルに乗りだした。彼はなんとも感じのいい笑顔で告げた。
「ライダーは僕が倒したよ。もう君は妙な敵に悩まされることはない。思う存分、その不思議な剣を振るいたまえ」
「貴方はいつライダーを倒したのだ?」
「夕べ、君とアーチャーが戦いはじめる前にね。君たちは使い魔を使って調べたりしないの? ウォルデグレイヴはやってるよ」
「ウォルデグレイヴとは貴方のマスターか」
「そう。あ、来たね」
 二人のもとに給仕が盆を掲げてやってきた。
「お待たせいたしました」
 まずアルトリアの前に前菜が置かれる。春らしい白アスパラガスの茹で卵ソース。皿の上は白と黄色で彩られている。次にランサーの皿が置かれる。彼は脂身ラルドのオープンサンドを選んでいた。
 給仕がすっと伝票をランサーに差し出す。
 ランサーはちらりとセイバーを見やって微笑んだ。
「奢るから気にしないでね」
「え、あっ」
 アルトリアはそのときになって、自分がこの世界では一文無しだと気づいた。いや生前であっても彼女は財布を持ち歩いたことなどない身の上だったが。
「そういうわけにはいかない。後で部屋に届けよう」
「いいの、いいの。僕は毎日ウォルデグレイヴに小遣いもらってるからね」
「小遣い!?」
 とても、こんな場所で、サーヴァント同士の会話に出てくる単語とは思えず、アルトリアは困惑する。焦るアルトリアの前であっさりとランサーは支払を済ませてしまった。給仕が立ち去ると、ランサーが微笑んでアルトリアにフォークをとるよう促した。
「なんだかね、ウォルデグレイヴは放っておくと僕が盗みでも働くと思っているらしい。毎朝、テーブルの上にその日の分の小遣いが置かれていて、僕はそれで一日暇を潰すわけ」
「ええと」
 アルトリアは、この美しい青年が、朝の部屋でテーブルの置き手紙から小遣い銭をつかんで出掛ける姿を思い浮かべ、とうとう笑ってしまった。
「ふふふ、はははは」
 悪いと思うのだが、頭に浮かんだ想像はなかなか面白いものだった。どこに小遣い銭をもらうサーヴァントなんているだろう。大抵のサーヴァントは大人しくマスターの元に留まっているものだ。実体化したまま勝手に出歩くサーヴァントを許しているとは肝の太いマスターだ。
「やっと笑ったね、セイバー」
 ランサーが嬉しそうに微笑んだ。アルトリアは口元を手で押さえて、ぱっちりした目でランサーを捉える。彼はおっとりとオープンサンドを手でとった。
「やっぱり君はすごく可愛い」
「それは私を女と侮っているのか」
「違うよ。そんなんじゃない」
「そういえば貴方は私を賞めてくれたのだったな。戦士として」
 アルトリアも穏やかに食事を始める。白アスパラガスはしっかりと太く、だがフォークを入れるとすっと切れた。刻まれた茹で卵をオランデーズソースと一緒にアスパラガスにあえて口に運ぶ。
 その瞬間、セイバーは目を見張った。ランサーが目を留めて微笑む。
「どう? ここなら君の舌にあうかな」
 アルトリアは金髪を揺らして力強く頷いた。
「美味い。この野菜は初めて食べたが、瑞々しくて甘い。ナッツのような風味がある」
「ふうん。明日はそれにしようかな」
 アルトリアのフォークがさくさく動く。彼女が店を気に入ったのは明らかだった。
「貴方は毎日ここに?」
「うん」
 ランサーのオープンサンドはいい香りを漂わせていた。芥子の実をまぶしたライ麦パンに薄く切って湯通しした玉葱と酢漬けのパプリカをのせ、さらに紙のように薄く削った脂身ラルドをのせてある。香草とともに塩漬けされ熟成させた豚の脂身はえもいわれぬ味わいがある。
 続いて出てきたメインも上質なものだった。アルトリアの牛肉のロールステーキに春の風物詩スカンポのサラダが添えられていた。それは彼女にふるさとを思い起こさせた。ランサーは季節限定の兎を選択。ローズマリーのソースで煮込んだ子兎だ。
 食事が進む間、ランサーは物騒な話を持ち出そうとはしなかった。
 たわいもない話に混ぜて、アルトリアに他の陣営の様相を少しずつ教えてくれた。全く情報源を持たないアルトリアにとって、キャスターが凄まじい魔術師であるという話は戦慄をもたらした。それから昨日の戦いは独逸ドイツ陸軍が市街地戦の演習を行ったことになっている、といったこと。隠蔽工作が進んでいることもアルトリアは知らなかった。
 デザートが運ばれてくるとアルトリアはぱっと破顔した。目の前で真っ赤に熟れた苺に給仕が蜂蜜をかけてくれる。
「こちらは菩提樹の蜂蜜でございます。昔から身体にいいと言われています」
「ありがとう」
 アルトリアは苺に紅茶を合わせたが、ランサーは珈琲がお気に入りらしい。蜂蜜とペカンナッツのケーキに合わせる。
 彼はケーキにフォークを入れて、低く囁いた。
「本題に入ろうか。昨日、どうしてアーチャーを見逃したんだい? 首尾よくマスターも殺して君は実に上手くやっていた」
「貴方にはそう見えたのか。私たちの声を聴いてはいなかったのだな」
「ウォルデグレイヴは聞いていたはずだ。だが詳しいことを教えてくれなかった。あれは、なんだか君を慕っているようだ。君のことになると口が重い」
 アルトリアはスプーンで苺をすくって、瞬きした。敵のマスターに慕われるとは想像しにくい事態だった。それにランサーの無防備なほどの開けっぴろげさも。
「ともかく僕は君ほどの戦士が敵を見逃す理由を知りたい。君は話したくないと言ったけど、まあ一飯の恩と思って聞かせてよ」
「いいだろう」
 アルトリアはスプーンを置いて顔を上げた。
「私のマスターとアーチャーのマスターは兄弟だったのだ。だが私のマスターは……」
 アルトリアはひと通りの事情を話して聞かせた。朗らかだった彼女の顔はみるみる苦痛に歪み、時に彼女は顔を覆って俯いた。令呪によって強制される下りになると、よほども悔しいのか、歯軋りの音がした。
「私は聖杯が憎い! あんなものさえなければ、このようなことは起こらなかった! 全ての悲劇を回避できたかもしれないのにっ」
 アルトリアが顔を覆って動かなくなった。痛ましい小さな姿にランサーも眉を曇らせる。
「つらい話をさせてごめん。でも、君も聖杯に懸ける願いがあるんじゃないの? 聖杯がなくなったら、僕たちがここにいること自体、意味がなくなる」
「私にはない」
 アルトリアが低く呻いた。ランサーは困ったように薄く笑う。
「本当に? 君は参戦してるじゃない。聖杯を求める理由がないと選ばれないはずだよね。君にも何か願いがあるはず……」
「私にはないっ! 私が呼ばれた理由など私の方が教えてほしい! こんなことに関わりたくなどなかったのに!」
 ぱっとアルトリアが顔を上げたかと思うと、今度は唇を噛みしめて俯いた。歯を食いしばる彼女の唇に珊瑚のような血が盛り上がり、落ちていこうとした。その唇に温かいものを感じて、素早くかわそうとした。
 だが彼はそれより早かった。
 セイバーの血を指先に受けてぬぐいとると、その指を自らの口にもっていく。
 ぞっとするアルトリアの目の前で、ランサーは彼女の血をしゃぶりながら囁いた。
「昨日、君は一度死んだ●●●
 アルトリアの顔に緊張が走る。彼女はそれでも目を逸らそうとはしなかった。ランサーは満足して美しい少女の瞳に見入る。彼女は目を逸らさない。それは天晴れなほどの胆力だった。
「それなのに今、何事もなく生きている●●●●●。もしかして、君は死なないの?」
「それは……」
 アルトリアがとうとう目を伏せる。彼女はしばらく押し黙っていたが、ややあって目を上げた。彼女は眩いほどに輝いて見えた。王気のある人間は光り輝いて見えるものだ。これぞメラム──我が友を我が友あらしめた光と同じ。
「私は、あの剣を抜いたときから、ある意味、人間ではなくなったのだ。私は歳をとらない。私は、ある条件を満たしている限り、病うことも死ぬこともない。もちろん、その条件がなくなれば別だが」
「ふうん」
「私は普通に死ぬことは出来ない。年老いる心細さも年月がもたらす疲れも分からない。傷つくものの気持ちも分からぬまま、私はこうして生きてしまう」
 それこそ彼女がアーサー王たる証であり、王である限り故国に身命を捧げると誓ったが故の恩恵と代償だった。
 ランサーが微笑んだ。
「それは素晴らしいことじゃない」
 アルトリアはただじっと自分の両手を見つめていた。
「私は人の気持ちが分からないと陰口を叩かれたものだ。私だけが恵まれているから分からないのだと」
「そんなことはないね」
 ランサーが断言してアルトリアは弾かれたように顔を上げた。彼は慈愛のような優しさでアルトリアを見つめていた。
「王たる者、王たる者にしか分からぬ苦しみがあるものだ。気に病むことはない。君は二度とアーチャーに会わない。僕が保証する。今夜は外に出ないでおいで」
 アルトリアは目を見張る。彼が何を言っているのか。それは恐ろしいことのはずだった。だが彼は穏やかに手を伸ばしてきた。アルトリアは避けることができなかった。それは気配を感じなかったから。あまりにも彼の手は静かで早かった。
 彼は繊細な仕草で、アルトリアの頤に垂れ落ちる一房の髪を手に受けた。
「綺麗な髪だ。君の国では皆、このような髪の色なのか」
「皆というわけではない。私はたまたま」
 ランサーの手がアルトリアの頬に触れる。彼は祝福を与えるように手の甲を触れさせた。
「我が友を太陽とすれば、君はまるで月のようだ。皆の願いを享けて輝く満月だ」
 ランサーの手が離れていって、アルトリアはほうっと息を吐いた。すとっと彼女は背もたれに身体を預ける。緊張した様子にランサーが微笑んだ。テーブルに肘をついて、にっこり見つめる。
「さっきは受けない方がいいって言ったけど、やっぱり君と我が友が婚儀をあげるといいと思う」
 アルトリアはまた目を見開く。この青年は、どこに話が飛ぶかさっぱり分からない。
「さっきから友達の話ばかりだが、貴方の友は現界げんかいしているのか」
「いいや。残念ながら。でも想像するのは自由でしょう。君と我が友が結婚してくれたら、僕が嬉しい」
 笑顔のランサーにアルトリアは返す言葉がなかった。生涯、男性として生きてきて、妻まで娶ったアルトリアである。そんなことは考えたこともない。いもしない男性との結婚? それはそれで罪のない空想なのかもしれなかった。


 翌朝、キャスターが実体化してみると、アンが台所にひと抱えもある大きな機械を設置していた。
「おはよう、アン」
「あら。出てきたわね。メフィストフェレス」
 彼女はレースのついたエプロンを翻して機械を示した。
「じゃーん! ラジオを手に入れてきてあげたわよ! 聞きたいんでしょ。あんたの工房と干渉しないといいけど」
「それは問題あるまいが、そなたは、どうやって、これを手に入れたのかね」
 心配するように眉をひそめるキャスターに、アンはふふふっと笑って人差し指を立ててみせた。彼女の表情は明るく、はしゃいでいるようにも見えた。
「簡単よお。ナチ党員の家に行って、あたしも総統閣下の演説を拝聴したいんですっ、でもラジオがないので聞けないんですぅ、って泣いてみせればいいのよ」
 彼女はいきいきと泣き真似をしてみせた。声色まで作っていて、ちょっとした役者のようだ。アンがぽんとラジオの上に手を置いた。
「そうすりゃ、あいつら優遇されてるからね。ラジオの一台くらい、まあ可哀想にって恵んでくださるわけよ。それだけ。分かった?」
 アンがぱっとキャスターを見上げた。その顔は屈託がなく、無邪気なほどだった。彼女はキャスターが大悪魔メフィストフェレスであることを忘れてはいない。だが英霊サーヴァントであるキャスターを心の底で信頼しだしていた。
 アンがひらりとエプロンの胸に手をあてる。
「ほら、もう、あたしの願いは叶ったわけだし。あの女も面子が潰れて、いい気味だわ。ライダーを失って御愁傷様よ。ずっと見ていて分かったけど、あの女が聖杯を手に入れるなんて絶対ないわ。だから聖杯戦争なんて、どうでもいいでしょ。あんたとの小難しい善悪問答もしなくていいわ。そうでしょ」
 アンたちは今朝の明時あきとき璃正りせいとエヴァのやりとりも観察していた。その場にウォルデグレイヴ・ダグラス・カーの使い魔がいたこと。遠坂明時がこちらの使い魔に気づいていることも確認済みだ。だが明時もアンたちの隠れ家は察知できていないとキャスターは言う。
 関わる気を持たないアンにとって、聖杯戦争の一部始終は街角で見るニュース映画のような退屈しのぎに変わっていた。
 キャスターが苦笑いの顔になる。彼はラジオに手をかけて、アンを優しく見つめた。
「哲学を論じたかったわけではないのだよ。悪というのは、所詮は自分が一個の人間に過ぎないのだと悟るための妙薬なのだ。それこそ小難しい家訓や良心に囚われすぎないためにな」
「あたしは、そんなの無縁よ。自由に生きてきたし、これからもそうするわ。他のマスターは目の色変えて聖杯を奪いあうんでしょうね。でも、あたしはそれを笑って見てやるわ。あたしだけは聖杯なんて御伽話に誘惑されたりしない。そんなもの手に入れたって、どうせ、この世は地獄だわ」
 アンが諦観の瞳で遠くを見上げ、肩が落ちる。
「生きているからお腹が空くし、いろんな不都合もあるわけよ。死んじまった方が楽なことはたくさんあるわ」
 彼女は本気でそう思っていた。早くに死んでしまった人はよかったと思う。こんな奇天烈な状況に置かれた独逸を見ずにすんだ。そこに暮らさずすんだのだから。彼らが覚えているのは黄金の伯林だけだ。それは幸福なことに思えた。
「地獄に落ちる一瞬の星明かりを見えなくしているのは、そなたの心に巣食った理想ではないかな」
 キャスターの低い囁きに、アンがかちんと睨みつけた。
「あたしのうちにはね、遠い遠い御先祖さまから受け継いだたっとい家訓があるの。それは、どんなに貧しくとも違えることのないものなのよ」
「それを理想というのだ。少し生きやすく融通を利かせてはどうかね。わずかばかりの許されるべき悪の勧めだよ」
 キャスターが穏やかにアンを見つめ返す。それは悪魔というより教師の顔に見えた。
「悪は悪だわ」
 毅然と言い返すアンにキャスターが微笑んだ。
「ほら、君の胸には理想がある。過ぎた理想は生命を食い潰すよ。善と悪の境界線は目に見えるものではない。人は互いに互いの悪を少しずつ許し合うものだ。その範囲を越えた時、悪は悪として認識される。その手前ならば戻れるのだ。生きる手段を持っているのに行使しないのも悪だよ」
「魔術を使って生き延びろって話? そうやって、あたしを堕落させようとしても無駄!」
 キャスターも驚いたことにアンがドレスをひらめかせて、するっとキャスターの懐に飛びこんだ。細い指を伸ばしてキャスターの唇に触れる。彼女は楽しそうに笑っていた。キャスターがここに来てから初めての笑顔だった。
 それは生来の華やかさと可愛らしさに彩られた素晴らしい表情だった。
「小難しい話はなしと言ったはずよ。ラジオを聴かないの?」
 キャスターがアンの手をそっと握る。彼女は逃げなかった。四日前、初めて会ったときは近づこうともしなかった。若い娘に相応しい笑顔や明るい空気といったものが彼女の上にはなかった。だが今、アンは年相応の輝きを取り戻しているように見える。
 キャスターはアンの手を貴族のように持ち上げて返す。アンは不思議そうな顔をした。
「どうしたの、キャスター」
「ラジオを聴こうか。せっかく、そなたが手に入れてきてくれたのだ。さて」
 キャスターがラジオのスイッチを入れ、周波数を合わせる。だが、どの局も同じニュースで持ちきりだった。
『……が炎上しました。死者36名、うち乗客は13名、乗務員が22名、地上で誘導作業をしていた亜米利加アメリカ人が一人亡くなっています。航行元のツェッペリン運航会社は事故原因を究明中です』
「何? 何が起こったの」
 アンが慌ててラジオの音量を上げ、真ん前に椅子を引いて陣取る。キャスターも腰を下ろして時ならぬ大事故のニュースに耳を傾けた。
『先ほどのニュースを繰り返します』
 ラジオのアナウンサーが言うと、アンが手を打った。
「待ってました。全然分かんないわ」
『五月三日フランクフルトから亜米利加を目指して飛び立った硬式飛行船ヒンデンブルク号が、昨夜、亜米利加ニュージャージー州レイクハーストの飛行場での着陸直前、炎上事故を起こしました。乗客、乗務員ともに死者が出ています。搭乗客の名前を読み上げます……』
「ヒンデンブルク号ですって!?」
 アンが瞬きしてキャスターを見つめる。キャスターはきょとんとして見返した。
「それは何だね。飛行船? 空を飛ぶのか」
「そうよ。水素ガスの風船の下に船が着いてるの。とっても早いのよ。亜米利加まで三日で行けるの」
 アンがテーブルの上に手を動かして飛行船を描いてみせた。キャスターはなるほどと頷いた。
「ダ・ヴィンチの夢にとうとう人類は追いついたわけか。めでたい」
「めでたくないわよ。ヒンデンブルク号は一番安全な船だと言われていたの。それが落ちるなんて」
 アンがキャスターの方に顔を寄せ、周囲を憚るように声をひそめた。
「あの船は総統もいろんな宣伝に使ってた特別な船よ。事故を起こすなんておかしいわ」
 アンの言葉にキャスターがうんと首を傾げた。それから大きく一度頷いた。
「なるほど。では事故原因は判るまいね。本当のことなど言えない事故のはずだ」
 アンは夕食の支度をし、キャスターは工房を調整する。その間も二人はラジオをつけっぱなしにしていた。ニュースの論調は次第に変わっていった。事故原因は『不明』だということになり、大型硬式飛行船の安全性自体が取り沙汰される。事故の続報はほとんどなくなった。
 アンは少しばかりキャスターに魔術を習いながら、肩をすくめた。
「やっぱり、これ、聖堂教会っていうところの仕業なの」
「そうだろう。これから激化する戦闘に備えて衆目を逸らそうというのだろうね。まあ、正しい施策と私も思うが」
 キャスターはそれぞれの陣営だけでなく、聖堂教会の内部まで観察していた。聖杯戦争の監督役は言峰璃正だが、彼の役割は魔術師たちへの窓口のようなものである。実際の隠蔽工作や戦闘の監視には多くの代行者が動員されている。キャスターはそういったことも逐一、把握していた。
「人を殺すことはないわ」
 アンが厳しい顔でラジオを睨むと、キャスターは小さくインバネスの肩をすくめた。
「人が死ぬと注目しない人間はいないからね」
「悪魔らしい言い分だわ」
「私は単なる学究の徒だよ」
 ラジオには聴取者からの投稿が紹介されはじめた。もう二度と飛行船には乗らないなどという過激な意見も披露され、アンは目を丸くした。
「ヒステリックだわ。一隻落ちたくらいで」
「だが論争は効果的なものになっている。人々が飛行船の安全性とやらに気をとられれば、伯林ベルリンの街で多少おかしなことが起こったところで注目される必要性がない」
 ひとりごちるキャスターにアンはぷんと怒り顔だ。
「教会が人殺ししていいの。話が違うわ」
「アン、教会は人殺しに関しては専門家スペシャリストだよ。魔女狩りを忘れたかな」
 キャスターがちらりと目をあげてアンを見つめると、彼女はむっと顔をしかめた。
「やっぱり聖杯戦争なんて関わるもんじゃないわ。あんな馬鹿げた話に付き合えない!」
 すると、とうとうキャスターが笑いはじめた。その声は朗らかで悪魔のものとは思えなかった。アンは驚いたように目を見張って、この壮年の紳士にしか見えない悪魔を見つめた。
 アンの小さなアパルトマンにいい匂いが満ちる。牛肉と野菜の煮込みターフェルシュピッツの湯気の向こうで、窓の外に夕闇が迫ってきた。
 聖杯戦争三日目の夜が来る。

Faye/Revenge 9. 聖杯戦争三日目・夜──策士たちの邂逅-①に続く


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北条風奈
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