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十六夜の月輝く空に


流れ流れて漂う今も捨てたもんじゃねえ

“十六夜の月” 

この歌詞、あなたにはどう響きますか?

このひとの歌を少しでもたくさんの人に聴いてもらいたい、知ってもらいたい、と思って布教活動に励んでいるわけなのだが、ソロ2作を聴いてもらい、ATBを聴いてもらい、『縦横無尽』を聴いてもらって、絶賛してくれて、沼の入口まで来ているのが明白なのに、なかなかそこから踏み込んでもらえない…。そういう経験ないですか。

あと一歩のところで沼に陥らない理由はなんだろうと考えていて、「自己治癒力」とはまた別のアンテナがあるのかもしれない、と思ったので書いてみます。要するに、小説の方が随筆より売れる。なぜなら、わかりやすいストーリーが感動させてくれるから。


世にある多くの歌は、1曲分の長さを費やして、物語を綴っていく。
登場人物を設定したり、場面を想定したり。例えば、電車の中で見たカップルからヒントを得て、物語を想像して膨らませる。あるいは、自らの甘酸っぱい経験を脚色して物語に仕立てる。
つまり、言ってみれば小説を書くようなものかもしれない。
それに対して、我らが宮本浩次は想像の夢物語は描かない。
その代わりに、孤独、理想と敗北、悲しみ、やさしさ、をリアルかつ巨視的に言い尽くす。
それは、自分の中へと深く深く潜っていき、魂をつかみ出して太陽の下に晒すような作業。

テレビでの歌唱を観ると、頭をぐしゃぐしゃして歌いながら転げまわったりする、パフォーマンスがエモくて、超絶に歌が上手いおじさん。巷にあふれる恋愛小説のような歌に慣れてしまったアタマでは、興味がありながらも畏敬の念を抱かせる近づきがたい存在、かつての私が感じていた「ぶっ飛んだ怖い人」状態かもしれない。
随筆的ドキュメンタリーである宮本浩次の歌は、そこから奥へ踏み込んでこそ本質が響いてくる。このひとが命を懸けて綴っている長大なドキュメンタリーのページを開いてこそ、その歌が、声が、存在が、魂を揺さぶってくるのだ。

ちなみに、対極にあるのが、松本隆さんの歌詞世界なのかもしれない。1曲1曲が1篇の小説のよう。特別なアンテナがなくても、誰でもが受け取りやすい。
その歌の世界観を、ミヤジが独自の解釈であれほどの表現ができるのは、彼自身がつくる楽曲の世界とはまったく異なる世界だから。陶酔して演じることができるのは、楽曲への深い理解と愛情があるから。ストーリー性のある楽曲を、あの歌唱力であの熱量で…。そりゃあ感動しますわ。そこもひとつの入口ではある。そこまで来ているのならば、どうかそこからさらに一歩を。

実はたいへんなインテリだし、折り目正しく礼儀礼節を重んじ、思いやりと気遣いは筋金入りの『論語』仕込み、何よりポジティブに生きることにかけては天才。
雑誌のインタビューでは、自身についての的確な分析と、それを言葉として表現できる語彙力に瞠目させられる。グラビアはスタイリッシュでかっこいい。維持するためにどれだけの努力をしているのだろうかと気が遠くなる。
そこへ持ってきて、天然が炸裂するととんでもなくかわいい(それをわかってやっているであろうあざとさすらもかわいい)。
その人となりを世に知らしめるという意味では、日本全国を縦横無尽に展開中の「旅日記」、そして「YouTuber大作戦」は、とても効果的だと思います。
とは言え、「YouTuber大作戦第二弾」は入門者には少し難解かもしれない。でも、まだ理解できなくても、宮本浩次というストーリーがいかに壮大で深遠で、にもかかわらず彼の中ではすべて辻褄が合っていて理屈が通っていて、とっ散らかっているように見えても完璧に回収してみせる、という力量への驚嘆に、まずは圧倒されていただきたい。その衝撃もまた入口。


つまるところ、小説家ではなく随筆家、と言えなくはないだろうか。
彼のつくる歌は、フィクションのストーリーではなく、ドキュメンタリーだ。
オファーされたドラマの主題歌は、いくら主人公に寄せていっても、結局、自分の歌になる。制作側もそこまで含めて期待を寄せる。

歌詞をドラマの内容に寄せることも重要ではありますが、主人公の心情を描きながら、最終的には私自身の心情にリンクしています。それは、私が作るんだから当然なんですよ。

 「婦人公論」2021年11月9日号 1576号


心の中の痛みに棘を突き立てる。
その棘をさらに磨いて、腫れを刺して膿を出す。
その膿が棘を溶かして、尖った部分を丸めてくれる。
でも、生きている限り、膿は溜まるし、棘はまた生えてくる。その繰り返し。
歩んできた人生の道筋――契約を複数回にわたって切られた経験とか、その境遇によってあの名曲が生まれたとか、そしてこれからどこまで夢追いかけるつもりなんだい?までを含めた、生き方そのものが壮大な物語なのだ。

今日に至るまでの背景と、ピュアでチャーミングな人間性と、圧倒的な歌唱力とパフォーマンス、気遣いとサービス精神、そういったことすべてが、相俟ってこその総合芸術作品を私たちは鑑賞しているのだ。

…そうか、アンテナではなく《知的好奇心・探求心》といってもいいかもしれない。音楽番組の歌唱からだけでは、総合芸術としての随筆であるところの、‘覚醒の裏腹にある本当の’ 彼がなかなか伝わりづらい。気になったら、動画サイトでもネット記事でも検索してほしい。
これが分かれ道。深追いせずにわかりやすい物語性のある楽曲の世界に止まる道か、気になって次から次へと検索し始めて沼へと至る道か。検索する手を動かすだけの《知的好奇心・探求心》を持つ人は、彼の綴る随筆を読み解く力と、その世界に共鳴する素地があるはずなのだ。
沼に至る道に一歩踏み入れ、彼のドキュメンタリーに触れてしまったらそこからは、

こうやって生きてきたこのひとが、
この歌詞を綴るから、
この歌声で歌うから、
こんなにも心に刺さる。

それがわかった瞬間、沼は底なしになる。

流れ流れて漂う今も捨てたもんじゃねえ

才能を持て余し、満たされない承認欲求を抱えて、それを自分を鼓舞して戦い続けることで埋めてきたこのひとが、
頭をかきむしり、目をひん剥いて、

出来うる限り、
己自身の道を歩むべく、
反抗を続けてみようじゃないか

“ガストロンジャー” 

と気炎を吐いていたこのひとが、

俺もまた輝くだろう
今宵の月のように

 “今宵の月のように” 

と熱い涙を湛えながら夜空を見上げていたこのひとが、

月夜に吠えろ never give up OK

 “passion” 

と満月の次の夜、つまり十六夜の月に向かって光を目指して生きる情熱を咆哮し、この歌詞を綴れるようになるまでの来し方、そしてこんなにも明るいメロディで歌い上げる行く末、それを思うと、響き方が ‘ヤバイくらいに’ 違ってくるはずだ。

一度、魂で共鳴してしまったら、何もかもが(1本の白髪までもが。アップされた旅日記で白髪が1本だけ飛び出して くるん となっていたのです。)どうにも愛おしくなる。



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