人生において「勝つ」とは
日本全国縦横無尽ツアー、予定していた参戦をすべて終えた。機会があればあるだけ参戦したい!と思っていたのだが、なんだか完全燃焼して燃え尽き症候群?みたいになって、申し込みもトレードももういいかな、という気持ちになっている(現時点では)。
断片しか思い出せないし、その断片の記憶すら混ざってしまいそうで、これ以上はキャパオーバーになってしまいそうで。あんなにも愛と幸とパワーともらったのに、この喪失感と空虚感はなんなんだ。
エントリーすら叶わなかったフォロワーさんもいる中でこんなことをほざいたら、行けただけいいじゃないか何を贅沢なこと言ってるんだ!とお怒りを買ってしまうだろう。仰るとおり。我が身に置き換えてみたらわかることだ。そんなことを考えていたら共感疲労とやらでしんどくなってしまった。
でも、かわいがってるぶざまな魂をさらしてみてえんだ。
私は行ったわけだし、今後の参戦について悩んでいることは事実だし。
ああ歴史上ではなんてちっぽけな生涯生涯。
ああでも世界中ではたったひとつだけの人生人生。
結局、みんな自分のことが大事で大事でしかたないんだよ。周りを見渡しても、世界中を見渡しても。世界中の70億のひとりひとりが。生きとし生けるものすべてが大事な大事な自分を持っている。そう思うとゾッとする。そんな感覚を匕首をうなじにあてるが如く突きつけてくれる歌が “so many people” なんじゃないかな。
とここまでは前置きで、ここからが本題。
「ご用意いたしました。」の文字を見てから、この日が来るまでの長いことと言ったら!そして数日前からソワソワして、ようやく迎えた当日は夢か現か、雲の上を歩いているような浮揚感の中で会場へと向かう。
ホールに一歩足を踏み入れると、湿度の高い空気があたたかくて、高く大きく広がった空間は演出のスモークに薄っすらと霞んで、荘厳な気配に思わず息を飲む。たしかに会場に着いたのだという実感と、それでもまだ現実とは思えないような夢見心地とが、ずらりと並ぶ座席の上を浮遊していく。
コンサートが始まる。
待ちに待ったこの時間……、
……、
……始まってしまった。。。
……始まってしまったから、終わってしまう。
そんな寂寥感が押し寄せる瞬間が何度かあった。
あまりに素晴らしくて、幸せで。
ずっと聴いていたい。
終わりなんて来なきゃいいのに。このまま終わらなければいいのに。
でも、メニュー(宮本曰く)は進行し、いずれは終演するのだ。
永遠なんてない。すべてのことには終わりがある。
それがわかっているから、だからこの瞬間がなおさら愛おしく思える。
だからこそ、今この瞬間を身体の全部を使い尽くして楽しまなくては、と思った。
限りある時間だからこそ、全身全霊で精一杯にーー。
……これって、宮本浩次が歌い続けている人生に対する姿勢そのものなんじゃないか。
コンサートの時間に終わりが来るように、
人生には終わりがある。だからこそ。
エレファントカシマシでもソロでも、歌詞に頻繁に登場する「勝つ」という言葉。
コンサートでも「エヴリィバディ!!勝ちに行こうぜ!!!」と何度も拳を突き上げる。
どういう意味なのだろう、何に対してなのだろう、といつも考えてしまうのだが、
自分に? 世間に?
この諸行無常の浮世を生きることに意味なんてない。
日々を繰り返していくのだ。
すなわち自分と自分を取り巻くすべてのものと一瞬一瞬で勝負しながら、死ぬまでの時間を過ごす。
人生をしっかりと生きる。そして最後の瞬間に、
それが「勝つ」って言葉の意味するものなんじゃないか?
ステージ上で突き上げる拳の力強さに、そんな思いがよぎった。
エレファントカシマシ新春コンサート。
この時も、あれほどに楽しみにして待ち焦がれていたのに、「ああこの瞬間が来てしまった、始まってしまった…」と頭の中を寒風が吹き抜け、「目の前にいるこのひとをしっかりと見ていなければ! 全身全霊で、魂で感じなければ!」と心が叫んでいた。
そして、あるフレーズが、とてつもない説得力を従えて響いた。
本編の最後の曲に選ばれていたのは “RAINBOW”。
コンサートとは、始まったら終わることを運命づけられた時間。人生と同じく。
それは、来し方を偲び、行く末を思い、限りある生命の時間の中で、今この瞬間を生きているのだと細胞レベルで感じさせてくれる《メメント・モリ》なのだ。
さあ、エヴリィバディ!勝ちに行こうぜ!
今日も、明日もあさっても、今も!
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