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今宵の月は、なぜ夏なのか

2023年の夏至に寄せて。

“今宵の月のように” 。

これは夏の歌だ。
2021年秋から冬を越して翌年の初夏にまで渡った「宮本浩次日本全国縦横無尽」では、「冬だけど、夏の歌です」という前置きがあったりもした。
歌詞をじっくり読むと、なんて素敵なんだろうと改めて実感する(語彙を失うほどの美しさよ…)。このところ、自分は歌手でパフォーマーで、と仰ることも多いけれど、傑出した詩人でもあると思います。

難解な言葉はひとつもない。
しかも悲しいとか嬉しいとか、感情を表す言葉もまったくない。
あるのは景色の移ろい、ひとり歩く俺の様子、それだけ。
それなのに、閉じ込められた切ない気持ちが透けて見える。ロウソクの灯に浮かび上がる精緻な影絵のように。

この歌は、なぜ《夏》なのだろうか。


くだらねえとつぶやいて
醒めたつらして歩く
いつの日か輝くだろう
あふれる熱い涙

いつまでも続くのか
吐きすてて寝転んだ
俺もまた輝くだろう
今宵の月のように

夕暮れ過ぎて きらめく町の灯りは
悲しい色に 染まって揺れた
君がいつかくれた 思い出のかけら集めて
真夏の夜空 ひとり見上げた

新しい季節の始まりは
夏の風 町に吹くのさ

今日もまたどこへ行く
愛を探しに行こう
いつの日か輝くだろう
あふれる熱い涙

ポケットに手を つっこんで歩く
いつかの電車に乗って いつかの町まで
君のおもかげ きらりと光る 夜空に
涙も出ない 声も聞こえない

もう二度と戻らない日々を
俺たちは走り続ける

明日もまたどこへ行く
愛を探しに行こう
いつの日か輝くだろう
あふれる熱い涙

明日もまたどこへ行く
愛を探しに行こう
見慣れてる町の空に
輝く月一つ

いつの日か輝くだろう
今宵の月のように

“今宵の月のように”


 夕暮れ過ぎて きらめく町の灯りは
 悲しい色に 染まって揺れた

日が沈みかけて宵闇が近づく頃合いから、町に灯りがともり始める。
暑かった日もこの時間にはいくらか落ち着いて、‘俺の手に負えない甘美な瞬間’ (“歩く男”)が訪れる。
夕焼けと共にゆっくりと暗くなる空、入れ替わるように明るさを増していく町を眺めていると、あふれる涙がネオンやビルの灯りを滲ませる。気持ちの描写はないかわりに、その目が見つめる光景に心の景色が映る。

このシーンは、あっという間に暗くなってしまって、17時頃にはもうとっぷりと夜になってしまう、そんな日の短い冬では成立しないだろう。

 君がいつかくれた 思い出のかけら集めて
 真夏の夜空 ひとり見上げた

見上げた夜空に星は見えただろうか。
‘今宵の月’ が満月だとしても、冬ならば清澄な空気の中に冬の大三角形、シリウスにオリオンが舞い立ち、すばるがさざめき、北極星や無窮を指さす北斗の針が見えるかもしれない。
夏の大三角形は、天の川を挟んで向かい合う七夕の恋人たちの星。真夏の星空は少しブルー。寒く冴えわたる空ではなく、昼間の陽炎の余韻がようやく冷めて/醒めていくような空気が、じんわりと癒してくれる。

 新しい季節の始まりは
 夏の風 町に吹くのさ

古くから日本人は、季節の移ろいを風の変化に感じ取り、詠ってきた。
この見慣れた町にも、新しい季節の始まりを告げる風が吹く。
真夏の夜風に吹かれたら、もう涙も出ないし、声も聞こえない。二度と戻らない日々を走り続けているから。
そんな気持ちを後押ししてもらうには、木枯らしでは冷たすぎるのだろう。

とはいえ、エレファントカシマシには、冬の名曲もある。
凜とした空気、その中でこそ繊細な描写が映えるという歌がいくつもある。

だが、この歌は夏でなければなかった。
なぜなら…、

 ポケットに手を つっこんで歩く

スキニーデニムの後ろポケットに手を入れて歩く宮本の姿。
癖なのか、スタイルなのか。
自分を抱きしめたいのか、ポケットの底に入っている “夢のかけら” を確かめているのか。
いつもの歩幅で、太陽の光に照らされて月のように輝くことを夢見て、今日もまた、明日もまた、愛を探しに行く。

ポケットに手を突っ込んで歩くのは、寒いからじゃない。




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