空を見上げて、風と共に
時間というものは、誰の上にもあまねく平等に流れていく。
止まることはないし、止めることなどできはしない。
そんなこたぁ当たり前。誰でも知ってることだ。
でも、つい言いたくはならないか。
終わらないでほしい時間に、時よ流れないでくれ、と。
続いてほしい瞬間に、時間よどうか止まってくれ、と。
だが、時の流れは止められない。時間は巻き戻せない。
宮本浩次はそのことを知っている。
嬉しくても悲しくても、時は流れる。
それがわかっているから、「止まってくれ」とは言わない。
「時間よ止まれ」みたいなことは歌わない。
では、なんと歌う?
空を見上げて。
「おいて行け」もしくは「連れて行け」。
「おいて行け」
時を止めることなどできないのはわかってる。
でも、止まってほしい、流れないでほしい。
ならば、せめて先にいってくれ。俺たちをおいていってくれ。
叶わないとわかっていても口をついて出る願いの切なさ。
「連れて行け」
もしも時が行き過ぎたその先でも一緒にいたとしたら、そこまでの時間をずっと一緒に過ごしてきたことになるんじゃないか、‘いくつものきらめく想い出と 一緒に未来へとやって来た’( “笑顔の未来へ” )と言える場所まで連れて行ってくれ。
そんなまだ見ぬ未来への約束。
そして、そのふたつが融合した歌。
時の流れには逆らえないことを痛感しつつも、果敢ない抵抗を試みようとする。このロマンチシズムは若さゆえだろうか。
この感傷を大人になった宮本が歌うと、どうなるか。
永遠に続いてほしい素敵な時間。
でも、時は流れていく。わたしの美しい時間よさようなら。
「おいて行け」とも「連れて行け」とももう言わない。
時間の流れに抗うことなく、ただただ流れゆく時に身を委ね、過ぎゆく時間を受け入れる。なす術のない諦観と、新しい明日への希望とがない混ぜになった末に到達した静かで美しい境地。
そして、風が明日へといざなうのだ。
きっと聡明な読者はお気づきかもしれない。
このままここに立ち止まっていたいと思う心を、時の流れに乗せてくれるのは、そう、《風》。
‘さよならさ今日の日よ’、と “風に吹かれて” 明日へと気持ちを向け、
‘行き先は自由 飛び立て心よ’、と “風と共に” 強いココロで未来へ踏み出す。
宮本の書く歌詞を文学的だと感じるのは、明治の文豪が用いるような難しい熟語を使うからというだけではない。日常の光景を「誰もが使える言葉で」「誰にもできない表現で」描くからだ。風が迎えに来るなんて現実には起こり得ないことなのに、んなことあるわけないじゃん…とは感じさせない。街に降る雨は心にも降るし、幸せは指にとまる。
現実にはあり得ないからこそ、歌詞の中の表現ひとつで叙情が立ちのぼる。研ぎ澄まされた感性で日常の光景を切り取る鋭敏にして繊細な描写が、聴く者の心を震わせる説得力をその歌詞に宿らせる。それが詞であり文学なのだ。
そうなると、《時》についても、歌詞の世界でなら「止まってくれ」と言ってもいいんじゃないかと思いたくなるかもしれない。あり得ないことでも言葉にすることが許され、それが文学的とされるのならば。
いや、そこは《風》と《時》の大きな違い。
《風》は、方向もあれば強弱もあり、季節によって変わり、発生する理由が気象学によって説明できるから予測も可能。その変化に富む多様性が、感情を乗せることを受容してくれる。
それに対して《時》は緩急も遅速もなければ、方向はただただひたすら進むのみ、速さと正確さは太古の昔から決して変わらない。一瞬も止まることなく続いてきた。これから先も永遠に続いていくのだ。私が今死んでも。
宮本は、この《時》と《風》の絶対的な差異をわきまえている。
今日から明日へと時をわたるために、見上げた空に吹く《風》に気持ちを乗せることはあっても、《時》が流れを止めるなんて、そんなあり得ないと誰もがわかりきっている厳然たる自然の摂理に対して、「止まってくれ」などと甲斐のない抵抗を歌詞にすることに、叙情を託したりはしない。
そんなことを考えていたら、この歌が意味深に聴こえてきた。
この歌、若次の日常のボヤキのように感じていたが、実は、時の流れの無常さと無情さを歌っているのではないか。
そんなこたねえか。。。
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