“close your eyes” opened my eyes
この世界は、相反するものだらけだ。
“close your eyes” が聴けない。
いや唯一、ツアー初日終演後にアップされたインスタだけは観た。
だが、音源が聴けないでいる。
なんだか推し疲れのような症状に陥っていることに気づいたのは、この新曲のお知らせに吃驚し、動揺し、その挙げ句に聴くことができないからだった。
ツアー日程と自分の予定を突き合わせる。どうしても行かれない日はある。行ける日の抽選にエントリーする。まったくもってかすりもしない。北とぴあも大宮も奈良も高松も。一般もトレードもことごとく落選。かすったかどうかなんてわかりようもないけれど、感覚的にはかすりもしないと言いたい。このあたりからだろうか、疲れてきたのは。
そして、「いくしかないじゃん。生きてるんだから」に象徴されるこのひとが歌い続けて来た人生哲学が、頭だけで理解したつもりになっていただけで腹の底では受けとめきれていないような気がして、手が届かないくらい先を歩いていてとても追いつけない、そんな心境になってしまった。
Xのタイムラインには、参戦した皆さんの感想が流れてくる。
「雨の歌」とか「クリスマスの歌」とか、そこまで書いたらネタバレも同然だけれども、曲名は伏せてくださっている気遣いを汲み取りつつ、流し読みする。ネタバレを完全回避したいのならば見なければいいだけのこと、でもやっぱり気になって見てしまう。きっぱりと情報遮断できない心の弱さと、ネタバレに出会ってしまってもそれは自己責任と割り切る覚悟の両輪で、薄目で眺める日々。相反するものが共存し、相剋する。
確保されているチケットは、ホール最終公演の島根と、横浜、神戸のアリーナ公演。あまりに先すぎる。そこまで完全に情報を断ちつづける気丈さを保てるはずもなく、ただただ月日だけが流れていった。
“close your eyes” は聴けないままで。
どうして北とぴあが当たらなかったんだ? 他の会場が当たっているから? 当たる未来があるから?
行きたい場所に行けなかったとしても、行ける場所があるだけいいじゃないか。先の予定があるだけいいじゃないか。行けなかった人は自分だけじゃないだろ。心の声が言う。
それはそう、たしかにその通り。
でも、行けるところがあるだけでありがたいという気持ちには、なかなかなれなかった。
なぜなら、そう思ったからといって、行きたかった場所に行けなかった空虚が埋められるわけじゃないから。
私の代わりに誰かが行けたとしても、行けない誰かがいても、私が行けなかった気持ちはなくならない。その誰かが行けたことと、その誰かが行けないことと、私が行けなかったことの間には、何の因果関係もない。その誰かは、私ではないから。
世界中で紛争や災害が起こっていて、たいへんな思いをしている人はいくらでもいる。
だから、私がここで日常生活を送ることができているのは幸運なだけだ。日々いろいろあるにしても、もっと苦労している人たちが世界中にいる。それと比べれば…、
こういう発想が生まれてくるのは、いったいどういう回路なんだろう。
「あの時と比べれば」とか「あれを乗り越えられたんだから」とか、自分の人生における経験を引き合いにして考えることはある。でも、自分以外と比べて、より悪い状況に思いを寄せることで自分は恵まれていると納得させて、自分の置かれた状況を相対化するというのが、どうにも私には難しい。
羨ましさや妬ましさを表に出さずに振る舞うのが大人のあるべき姿勢とも言えるし、かと言ってそうやって本心を隠すのが美徳だとも偽善だとも思わない。
でも、世界中のひとりひとり=so many peopleが、自分が大事だと思っているんじゃないの?
世の中には、相反するはずのものが共存することだってある。
歴史上では、なんてちっぽけな生涯生涯。
でも、世界中でたったひとつだけの人生人生。
こういうモヤモヤを叱咤してくれるのが、私にとってのエレファントカシマシの歌で、宮本浩次の歌。
…のはずだった。
なのに、新曲が聴けない。
このひとは、想いの純粋さと貫く意志の強さから、《聖》の不可侵領域をまとっている。
アーティストとして、クリエイターとして、パフォーマーとして、思索の深いひと。それが楽曲に投影される。薄っぺらな期待には期待した形では返してくれない。うわべだけや口当たりのいいことは言わない。自分を誤魔化さない。正直で誠実で真摯で。だからこそ信じられる。
なりふり構わずに己の道を貫く。自分とだけ向き合い、自分とだけ対話をしながら。自己中心的に生きてもいいんだと教えてくれていると思っていた。そう思いたかった。
でも、そうじゃなかった。
若い頃から、夜のニュース番組を見て寝に就いていたという。世界のニュースや 時事問題を見聞きして、どう感じて何を考えるのだろうか。それが創作にどう影響するのだろうか。あの “ガストロンジャー” で吐いていた気焔は?“soul rescue” で叫んだ魂の救済は? このひとは、私が思っているよりずっと、外の世界とつながっていた。つながりたがっていた。
自分とだけ向き合い、自分とだけ対話をしながら己の道を突き進むにしても、人は世界の中で、社会の中で生きている。彼が求めてやまない世間の栄華や名誉は、外の世界とつながっていなければ得られない。《聖》の不可侵領域と同時に、 《俗》との連結端子を併せ持つ。自分の世界を貫くことは、自分の外の世界と断絶することではなく、むしろ、つながることだ。相反するように見えても、同時に存在するべきだ。
聴衆に届く言葉にシフトしたのも、己の世界と外の世界をつなげるため。新曲が聴けないのは、このあたりがやっぱり理解したつもりになっていただけで、うまく消化できていないからかもしれない。
島根県芸術文化センターグラントワ。
鱗のようにびっしりと張られた瓦の美しい外壁を、秋の雨が洗う。
1階ど真ん中の席は音の坩堝だった。低音の残響が強すぎるように感じたのは、席の位置のせいだろうか。
“close your eyes”
音源を聴いていないおかげで、音が、言葉が、歌詞がしっかりと聴き取れる。
こちらの身構えなど貫通して、直接、心に触れてくる。
降り注いだ慈雨が砂漠に染み込むように、 ひと言ひと言が、優しく語りかけてくれているような気がした。
「どうした? ついて来いよ」と聞こえた。
我儘な、私欲にまみれた思考が恥ずかしくなった。
いや、違う…。
清廉潔白だけなんて有り得ない。
相反する面があっていいんだ…。
感情に正しいか間違っているかなんてない。
ただ、そこにあるだけだ。ままそのまま。
自分の醜さに正面から向き合う勇気をもらったような気がした。
「人が喜んでいるのを見るのが好きみたい」
喜んでいるのが見たい。それが好きだから。人が喜んでいると自分も嬉しい。そう、この文章だって自分が書きたいから書いているわけだが、読んでくれる相手がいなかったら書くだろうか。
それなのに、どんなに言葉を尽くしても表現しきれない。
対峙しているものの大きさと、どうにも太刀打ちできない己の力量不足がつらくて、書くことがしんどくなっていた。
でも、人は言葉を持っている。
想いを伝えるのはやっぱり言葉なんだ。
全身全霊のパフォーマンスは、心の《種》をあたためて《言という葉》を芽生えさせ、《花》と咲かせるため。《音》に乗せて、遠くまで届けるため。
言葉の力を信じよう。
このひとが「歌が好きで、歌うことが好き」なように、私は「言葉が好きで、綴られる言葉が好き」…。
このひとの歌を聴いて、私はまた世界とつながることができた。
そして同時に、このひとの歌を聴くと、安心して孤独に沈めることも思い出した。
相反しながら、共に存在する。つながっているから。
静かな街の美しいホールが気持ちを開放してくれたのかもしれない。
素晴らしい音響が想いを疎通させてくれたのかもしれない。
コンサートが終わったら、絡まっていたいろんな感情が解きほぐされて、パンパンだった脳がデフラグされて容量が空いたような感覚がした。
何のために生きるのか、生きているのか?
人はこの命題を考えたがる。
でも、日々を生きている営みそのものが人生の目的であり、その営みを持続していくことが人生の意味なのかもしれない。
だから、
そして町には花が咲き
俺は まださよならは言わない
これがひと続きのフレーズとして成立する。宮本浩次の世界。
命の残り時間が崩れていく音「シャララ」が、
夢を追いかけ続ける軽やかなリズム「sha·la·la·la」になり、
それが、時という波がたゆたう潮騒「シャラ・ライ・ララライ・ラライ」になる。
音楽って素晴らしい。
旅というのは、行きたい場所に赴くのが目的だとしても、帰る場所があるから出発もできる。今いる場所を出発点として生きていくことを確認するために、帰る場所に帰るために、旅に出るのだろうなどと思う。
この道の先を見たくて、今日も私は出かける。
音源はまだ聴いていない。
ここまで来たら、耳に馴染んでいない間だけ体感できる新鮮な感触を楽しみたいと思う。
旅がすべて終わったら、届いているであろうCDをじっくりと聴こう。瞳を閉じて。
それが、新たな旅のはじまり。
そして新たな物語を紡いでいこう oh baby