ロンドンの空の下 cry 現在地について18
いつの間に、こんなにもひとりのスタジオが似合うようになったのか。
心の躍動、パフォーマンスに結晶する幸福感、静謐な時間と靴音の響き。
今ならわかる。このひとが自分らしくいるためには、やはりバンドとソロを分けることは必然だったのだろう。
有り余る才能は目指すものに向かって表現形態を模索しつづけ、分離させ、融合させ、たどり着いた《今》。
目指しているのは「売れる」こと。それは多くの人に歌が届いた証左でもある。
これはあくまでも筆者の感触だが、「多くの人に聴いてもらいたい」というような言い方はあまりしないように感じる。プロモーションのために出演した番組でも、宣伝する意識はまったくない。目や耳に残るのは「多くの人に届いたと思います」という言葉。つまり「売りたい」んじゃなくて「売れたい」。「売れる」というのは、「たしかに届いた」結果が目に見える指標として実感できる、ということなのだろうか。みんなが喜んでくれることに幸せを感じる、と語る表情に胸が熱くなる。
「売れたい」「お金持ちになりたい」という言い回しは、正直すぎてややもすると幼稚な通俗さが危ぶまれかねないが、これは《労働》においてはもっとも根源的な動機だ。そして何よりも、その根っこには「歌いたい」という強い想いがある。歌える場を確保して維持しつづけるためには、売れなければならない。何度も契約を切られた苦い体験がそう言わせるのかもしれない。
そのためには、届く言葉にしなければ。響くメロディーにしなければ。
エピック期やEMI期のような作風では、届く人が限られる。できれば直視せずに避けて通りたいような心の抉りを突きつけてくるから。かといって、口当たり耳障りがいいだけのメルヘンやファンタジー、虚構は歌えない。
少々荒っぽい書きぶりをするならば、
歌を武器にして、人生への夢と希望と、それを実現するに際して内包される矛盾を世の中に向かって叩きつけた創世期エピック時代。だが、若い炎の奔流は屈託を伴って己の首を絞める。届かないもどかしさは苛立ちとなって牙を剥く。
結果を追い求めて、ポップ路線への針路変更を試みた浪漫期ポニーキャニオン時代。ストレートで爽快な疾走感。誰にでもわかる言葉で、誰にも描けない景色を現出させる、甘くやさしく切ない物語。起死回生のヒット曲も生まれる。それでもまだ、羽ばたくばかりで思うように飛び立てない。
こんなもんじゃない。このままで終わるわけにはいかない。来し方行く末と対峙しては己との対話を重ね、内省と逡巡を繰り返す。だが、思い悩んでも答えは出ない。今につながる胎動期、堅忍不抜のEMI時代。
意欲とプレッシャーとフラストレーションは、うまくかみ合わないと時として暗黒な側面を暴走させる。持ち前の明るさは、これを過渡期の特殊現象として「good morning!!」と一喝し、悪魔と対話してみせるという離れ業をくり出してやり過ごす。見つからない答えを探し続けるのはやめだ、と覚醒したユニバーサル期。「頑張ろうぜ」「勝ちに行こうぜ」。届く言葉をストレートに歌うことに照準を定める。
そして、最終的に行き着いたベクトル。
《今》を生きていく。生きる、それが答えさ。
もう、それ以外に言えることはない。←今ココ
その翼は、風をつかんだ。
言葉が、サウンドが、届いた。
なぜなら真実がそこにあるから。
真実だけが持つ強さ、美しさがあるから。
太陽が昇る。新しい一日、新しい自分。
35周年ツアーの幕が “Sky is blue” で切って落とされたのは記憶に新しい。
ソロ楽曲では “昇る太陽” が真骨頂。
《過去》に決着をつけ、《未来》へ向けて、その接点である《今》を生きることを壮大に歌う。
当たり前のことを当たり前と受け止められるシンプルさ。シンプルなものほど強い。
目を背けたいことも、それが真実ならば受け入れるしかない。弱さを知る者だけが持つ強さがそこにある。
人はドラマチックな物事に目を奪われる。歌にも物語にもなりやすい。だが、生きていくだけで毎日は十分にドラマチックだし、流れる時にあらがうわけじゃなく弱さにあらがいたいと戦うだけで、泣けてくるほどロマンチックだ。
生きてれば上り下りのエヴリデイ。
そんな日常に、突如としてドラマチックな出来事が目の前に現れた。
ロンドン Abbey Road スタジオでの独演会。
数えきれないほど歌ってきたであろう楽曲でも、練習の手を抜いたりはしない。
かつてカバー曲に対しては、練習すると「上手くなっちゃって」と、熟達よりも初期衝動の鮮烈さを尊重する感覚もあったが、歌い込んできた自作の楽曲は歌いたいだけ歌いたい。回数を重ねれば重ねるだけ研ぎ澄まされ、削ぎ落とされる。そこには、なくてはならないものだけが存在する。英国の歴史と伝統のあるスタジオで披露されたのは、そんな楽曲たちだった。
心が湧きたつようなとんでもない栄誉な出来事が、日常に飛びこんでくる。
その《異質感》を受けて立つのは、長くやっていることに大見得を切って、日本生まれの体ひとつで行くという意地。それはつまり、紆余曲折の歴史を歩んできた彼が、その苦節の日々を後ろにして、《今》を歌うこと。「ロンドン Abbey Road スタジオど真ん中」にふさわしいセットリストで勝ちに行く。
その強い覚悟が、「歌いたい」という揺るぎない本能と融合する。
ギターと、ストリングスと、歌。
思い入れがないくらいがちょうどいい。固定のアングルしかないほぼ定点のカメラ。情趣はあるが変化しない照明に浮かび上がる神々しいまでの美しさ。華美な装飾を最小限に抑えることで美しい強さが立ち現れるのは、その強靭さが虚飾を受け付けないからだ。あの35年前の渋谷公会堂、彼らの存在を世に問う場において実験された命題が、時空を、国境を越えて証明された。
歌う姿はあの頃と変わらない。
たぎるマグマを内に秘め、同時にその熱を融かす永久凍土も併せ持つ。華奢な体躯は絶妙な均衡によって柔靭さを纏う。威厳というには繊細、貫禄というには瑞々しい。荒野に咲く一輪の花。異国のスタジオに武蔵野の風が吹く。俺たちは確かに生きている。
やっと世間は気がついた。
若次は猛り立っていたわけじゃない。粋がっていたわけじゃない。始めからこの現実を歌っていたのだと。己を取り巻くすべてのものから目を背けることなく、本気で向き合うために目を見開き、本気で歌っていくために睥睨していたのだと。それを真面目にやってるんだから、そりゃあ重くもなる。
尖りまくって売れなくて契約を切られた過去は、黒歴史なんかじゃない。望む結果が出なかっただけだ。やってきたこと、やっていることは何ひとつ間違っていない。だから、胸を張って敗北さえも歌ってきたのだ。そのレジリエンスはここまでの長い時間を宿し、毀誉褒貶を飲み込む。35年かけてたどり着いたスタート地点。
艱難辛苦を共にした大切な曲、大好きな曲たちを携えて、まあたらしい曲を引っ提げて、季節はずれの男は今日も俺の道を歩いてゆく。