心がうたうよ 現在地について21
“No more cry”。
まず思い浮かんだのが、この『愛と夢』所収の “good-bye-mama”。
この歌で ‘もう僕はもう決して泣かない’ と歌ってから、25年の月日が流れた。
同じ意味合いの言葉を、こんなにも爽やかに軽やかに高らかに、しかも英語で歌えるようになるまで、このひとはどれだけ泣いてきたのだろうか。
悔し涙、嬉し涙…、どれほどの涙を流してきたのだろうか。
涙を流しながら、立ち止まってもまた歩き出して、うずくまっても再び立ち上がる。
このひとは、なぜこんなにもポジティブでいられるのか。
理由は単純明快。
それは彼が、常に「人間はいつかは死ぬ。その日までしっかり己の全部を使い尽くしたい」という信念のもとに生きているからではないかと思う。
人は、いつか必ず死ぬ。
この問いの答えは決まっている。Yes。死ぬ。いつかは。
そして生まれる時と死ぬ時、人は独りだ。
ならば、
それに直面した瞬間に「ああ…これもやりたかった、あれもやりたかった、だけどできなかった…」と思うよりも、「俺はここまで来たぜ、あれもこれも、やりたかったことは全部、成し遂げたぜ!」と思える方がいいに決まってる。
だから、
できなかったことを並べたてるんじゃなく、達成したことを思い出して満足できるように、常に自己肯定感を高く持っているのではないかと思うのだ。
だって、
この自己肯定感を支えているのは、ひとつはこれまで涙を流してきた過去の自分。
風のようにタフにしなやかに飛びたい今の俺に、
タフに自由に飛べよ、と昨日の俺が呼びかけてくれる。
そしてもうひとつは、お母様の理解と励まし。
私の亡き母もやさしかった。叱る時はきっちり叱られたけど、いつでも最大で最強の味方であり、私が力を発揮することを信じてくれた。そうすると、実力以上のパワーが湧いてくるような気がしたものだ。今にして思えば感謝しかない。だから大丈夫だよ、もう泣かないよ。
大器晩成。
彼がお母様からもらった言葉。
社会というものは、人を型にはめたがる。定型からはみ出してしまう人は生きにくい。一方でアーティスト、クリエイターといった人々はその型を破ろうとする。あるいは、型にはまらないように生きる。
だが、規格外の才能は、そもそもそんな意図すら持たない。持ち前の軽さ、明るさ、天真爛漫さは、型なんて既成概念は問答無用。これは、あたたかく大らかな環境で育てられてきた賜物なのだろうと思う。
天才は、型にはまる・はまらないなどは考えずとも、自分の人生を自分らしく生きるために、心に羅針盤を持っている。どちらに進めばいいか、常にその方角を指し示してくれる磁石だ。
若ければ、輝く未来を夢見ることもあるだろう。若いとは言えなくなった現在は、《今》を着実に一歩ずつ歩いていく。羅針盤が照準を合わせる射程は短くなったとしても、精度は冴えわたる。
そしてまた、あいつまたでっかいことやろうとしてる(に決まってる)ぜ。
どの道この道俺の道、道なき道を、一輪車の曲乗りで走ってゆく。
枯れてしまったら、次の花を探しに行く。咲かせに行く。
2023年の野音コンサート。
この歌での涙は象徴的だった。
自部屋で膝を抱えていた若次。『my room』、“君がここにいる” ではその存在に歌いかけ、手を差し伸べてステージへと連れ出し、《my room》というアリーナで歌う今の姿を見せることができた。感極まって涙があふれた。
若次は、今次が両手いっぱいに届けに行ったこの花を《いつもの部屋》に飾ってくれただろうか。
‘No more cry 涙よさらば’ と歌っても、泣きたいことは起こるし、泣いてしまうこともある。悔いなく生きたくても、思うようにいかないことはいくらでもある。
それでも、もう泣かないと歌い上げることに何の躊躇もない。なぜなら、泣かないという覚悟を誓うのではなく、これまで流してきたたくさんの涙を《空》に昇華させるための歌だから。問うな涙の訳を。
“No more cry” のMVの佇まいは、“今を歌え” ジャケット写真を思い起こさせる。
そう感じて、改めて歌詞を確認してみたら震えが走った。
この歌で、これほどまでに言葉を尽くして鼓舞されていた《心》が、
“yes.I.do” では、答えを《heart》に宿し、
“No more cry” では、想い出を投げかけ、そして歌いだす。
そして今は、その《心》が《夢》を奮い立たせる。
と。いついかなる時でも、心の羅針盤が目指さずにはいられない《夢》。その《夢》に対して、もう一度この胸を焦がしてくれと《心》が叫ぶ。たくさんの涙を流してきた過去の自分に、《夢》の続きを見せたいから。
若次と今次の《僕らの夢》を。
今のこの想いを、どこまでも青く高い《空》に向かって、心がうたう。
“今を歌え” ラストの痛々しいほどの切ない祈り。
この《心》の叫びが、《空》に届いた時、
たしかな手応えが、かつてない新たな表現をもたらす。
若次と今次が、この青空の下で、明日を夢見ている。
そんなふうに聴こえた。
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