浮世小路に明日の風吹かせる 現在地について4
『The Covers』(2021年10月24日放映)を観た。
素晴らしかった。
スタジオセットも、照明も、カメラワークも。
リリーさんのコメントは相変わらず鋭くて的確。見事に言い当てられてしまう衝撃と、痒いところを掻いてくれる心地良さ。深く深く頷く。そして何より、慈愛に満ちあふれている。
編集にも愛が詰まっていた。褒められてニヤついてしまうのを懸命にこらえ、グラスのお水を飲むロックスターを見守るスタジオの静寂。
この番組とはとても相性が良い。大勢の若手が出演し、複雑な段取りをこなさなければならないようなせわしない生番組では、ヤキモキさせられてしまう場面もあったりするけれど、愛のあるところで語り、歌うことで、ものすごく魅力を発揮するのだ、このひとは。
“浮世小路のblues”。
若次がいた。
今次の仮面をかぶった若次が歌っていた。
鋭い眼光、カメラに挑んでくる角度、雄叫び、高々と繰り出される蹴り、
なんだか “コールアンドレスポンス” のMVを観ているみたいだった。
今次の中に若次が棲んでいるのかもしれない。
若次が歳を重ねて今次になったのかもしれない。
いや、そりゃそうなのだけれども、そう言葉にしたくなるくらいの時空の歪みがあった。
ザ・宮本浩次だった。
これぞ宮本浩次な宮本浩次だった。
手癖で作ったというブルースロックには、経験と実績によって醸成された深みもあり、若次には作れないかもしれない。だが、今次の中にはたしかに若次が潜んでいて、存在していることを主張したくて脱皮の機会を窺っているような気配がある。この曲について雑誌のインタビューで語っている。
たぶんエレファントカシマシだとできなかった。
マニアックだって言われてしまうから。
ということはつまり、エレファントカシマシっぽい楽曲、ということなのだろう。
『縦横無尽』収録の楽曲たちは、デモテープの歌を手練れのアレンジャーと名うてのプレイヤーが聴き手に届くサウンドに仕上げてくれた。腕の良い料理人によって、素材の良さが際立つ。その結果、デモテープの言わば初期衝動の熱量がそのまま、完成された音の中に閉じ込められている。そこには若次が息づいているのだ。
抑えていたものをソロ次が実現してくれたから、エレ次は迷うことなくかっこ良さを追求して「こうあるべき」に縛られたままでいることができる。
エレ次には「ぶっ飛んだ怖い人」のままでいてほしい。
エレ次がよりエレ次らしくあるために、ソロ次は必要だったんだ。
エレファントカシマシのためにソロをやる、と言っていた真意が、やっと全貌を現しつつある。
自由を求めて、体は軽くなったかい?
自分を高く見せてがんばるのは
結局無理してつぶれてしまうよ
もっと気楽に思うままにやれば
結局すごく楽になるだろう
楽して楽してするりとくぐりぬけよう
楽して楽して自由を求めてやろうよ
体が軽くなるまで
( “てって” )
ソロ次が放電しきってすべてを出し切って納得したら、どんな歌が生まれるのだろうか。
来たぜヤツが コートの襟を立て
そぼ降る雨に濡れながら
( “浮世小路のblues” )
「ヤツ」とは誰? 田中圭くん演じる儀藤?(この曲はHuluドラマ『死神さん』の主題歌である。)
午前0時の浮世小路にコートの襟を立ててそぼ降る雨に濡れながらやってくるのは、私には「ドビッシャー男」に思える。若次の書いた、いなたいロックの歌詞が、高い濃度でリンクする。
抑圧された強迫観念と才能を持て余した承認欲求、切実な焦燥感を歌い続けてきたエレ次は、いつからか「ぶざまな」とは歌わなくなった。
満たされたら、愛されたら、これほどまでに愛と多幸感にあふれた楽曲を作れるのだ。
ここからまた新たなフェーズへ。
光あれ。