so many people それぞれの夜明け
人間、生きてりゃどうせいつかは死ぬ。
必ず。絶対に。
それは何をどうやっても避けられない。
この世に《絶対に》なんてないけど、これは《絶対に》だ。
だから、何も自ら絶たなくても、と思う。
なのに、悲しいニュースは突然に流れてくる。
生きていたら、悲しいことつらいことに出会う。
楽しいこと嬉しいことだってたくさんある。
人生の禍福は糾える縄の如し、だ。
どんなに幸せそうに見える人も、悲しみやつらさを抱えているのだろう。
お金持ちでも、容姿に恵まれていても、何不自由なく暮らしていても。
それは他人にはわからないのだろう。
SNS には、友人たちの幸せそうな生活があふれている。
一家団欒の美味しい食事、子どもとの楽しいお出かけ。とても幸せそうに見える。それがなんとなく肌に合わなくて Facebook は見なくなってしまった。リア友たちの「リア充」が虚飾にまみれているように見えて、底に闇があるように思えて。
食に対する探究心があんまりない私は、料理がぜんぜん上達しないし意欲もない。子どもを持たないことを決めたのは自分なのに、微かな羨望があるのかもしれない。「いたらどうだっただろう」と思うことはあっても、「いなければよかった」と思うことはないんじゃないか、と考えたりする。まあ、「いなくてよかった」と思うことはないこともないけれども。わがままで甘ったれなんです。
どの道が幸せかなんてわからないし、迷った道の全部を試してみることはできないんだから、自分が歩いているこの道を行くしかない。
何が幸せかなんてわからない。
私は今、十分に幸せだ。
そんなことを考えていたら、宮本が四天王と呼んでいるという4曲が不意に繋がった。
“ガストロンジャー”
“so many people”
“コール アンド レスポンス”
“武蔵野”
悲しみやつらさというものは、感度も耐性もひとりひとり違う。
隣の芝生は青く見えるし、でも比べたところでどうにもならない。頑張って自分の庭を青くしたとしても、やっぱり隣が青く見えるかもしれないし、今度は芝生の脇に咲いている花に憧れてしまうかもしれない。そんなもんだろう。
それに、世界全体を見渡したら、たいへんな思いをしている人がいくらでもいる。日出る東の端の平和ボケした島国に生まれたことが、どれほど恵まれているかもわかってる。衣食住が確保された生活ができているだけで、どんなに有難いことか。文句なんか言えやしない。そんなのありかよ神様よ。
でも、人と比較してどうこうとか、世界の中でどうこうじゃないんだ。
みんな、たった一人しかいない自分を懸命に生きているんだよ。
その《自分》が幸せかどうかがすべてなんだ。
たったひとりしかいない自分。
たったひとりの自分を生きている。すべての人が。
世界中の、たくさんの人が。そのひとりひとりが。
この世の、すべての人が。
地球上の《ソーメニーピープル》ひとりひとりが。
いつか死ぬってことは、運命に「死刑宣告」されているようなもの。
だから、
そして、笑いとあれ。
なぜなら、今
大都会に太陽が昇る。人の渦のひとりひとりの上に。
どんな気持ちでいても、地球上のどこにいても、すべての人の上に太陽は昇る。
必ず。絶対に。
この世に《絶対に》なんてないけど、これは《絶対に》だ。
だから、太陽を仰ごう。すべての人の上にあまねく降り注ぐ希望の光を。
そうか。
四天王の4曲も、“曙光” もそういうことを歌っているのかもしれない。
『good morning』の楽曲たちも。四天王が収録されているこのアルバムをそう思って聴くと、通奏するものが確かにあるような気がする。
いや、きっとすべての歌に。
大晦日の紅白歌合戦で出場歌手が歌う楽曲が発表された。
宮本浩次 “夜明けのうた”。
初日の出とともにこの歌で明けた2021年が、この歌で暮れていく。
来たる新しい年、すべての so many people が、
涙ぢゃあなく光とともにありますように。
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