黒い薔薇と白い風が胎動する 現在地について5
このところ、雑誌の写真でもテレビの映像でも、若く見える。というか明らかに若返ってる気がする。
なぜだろう。
このひとは、本当に歌が好きで歌うことが好きで、まるで水を得た魚…息も絶え絶えだった魚が水の中に解き放たれたその瞬間に甦るかのように歌う。コンサァトの開演前と終演後では、何歳くらい若返るだろうか?
そんな彼が、日本全国47都道府県を縦横無尽に驀進の真っ只中。連日、大好きな歌を歌い、スポットライトと花吹雪と拍手喝采を浴びながら大きな愛のやりとりをしているのだから、若返らないわけがない。
と、ここまでは誰もが感じていることだろうと思うが、それだけじゃない。
ソロの楽曲の歌詞には、英語や片仮名が多い。
これについて、ご本人の口から「自由でかっこつけないでいられたから、英語や片仮名を多く使っている」という主旨の発言があった。これには吃驚した。またしても逆から来るなあ。かっこよく見せるために横文字や片仮名を使うんじゃないんだ?!
ソロ活動は自由でかっこつけないでいられる…、ということは、バンド活動はかっこつけてた、ということか。
このひとは始めからたくさんの可能性を秘めていた。さまざまな方向にポテンシャルがあったはずだし、自分でも自覚していただろう。
そしてそのベクトルのひとつを、長いこと貫いてきた。「男たるものこうあるべき」を求道して、エレファントカシマシとして。
「こうあるべき」「こうあらねばならない」を突き詰めていくのだから、それはいつの日か呪縛となる。当然の成り行きであり、真理だ。だが、かっこつけてかっこ良くありたいがためにやっているからには、おいそれとやめるわけにはいかない。この世は最高死ぬまでやめられない。どうせいつかは死ぬんだから。
だがそこには、有り余る可能性を自ら封印して縛っているという意識が、いつもどこかにあったのかもしれない。鬱積した何かを吐き出して、どこかにぶつけたいような感覚が。
ソロ活動に踏み切ったのは、その封印を解き、あらゆるベクトルの可能性を実現するためだったとも言えるだろう。
そして、いろいろなジャンルの音楽やコラボにチャレンジして、その成果がソロ3部作に見事に結晶している。
『縦横無尽』は聴きやすい。語弊を怖れず言えば、耳になじみ、「○○っぽい」と感じる曲もある。宮本自身からたとえに出されるような洋楽は私はわからないけれど、あくまでも私の感覚だが(なのでスルー推奨)、“十六夜の月” のモータウン・ビートのイントロはプリンセス プリンセスの “DIAMONDS”、“rain-愛だけを信じて” は中島みゆきの “ファイト!”、“just do it” は B'z っぽい、と思った。
それらはとりもなおさず、「エレカシっぽくない」曲を作れるというポテンシャルの証であり、ポップな売れる曲を作りたくて勉強した成果であり、換骨奪胎の極致極致。どんな曲でも作れるし歌える、ということのまぎれもない証明だ。
慣れ親しんできた好きな歌を歌うということも、やってみたかったベクトルのうちのひとつ。歌に描かれている人物に感情移入して、演じながら歌う。カバーアルバム『ROMANCE』は、制作のコンセプトとして「おんな唄」に特化して、結果的にエレファントカシマシのおとこ唄の世界と好対照をなし、それによってエレファントカシマシのおとこ唄もまた、ベクトルのうちのひとつだったということが逆照射された。
野音2020。
沼落ちして間もなかった私は、まだエレファントカシマシの何たるかをわかっておらず、そんじょそこらのバンドが言いそうなコロナへのコメントがあったり、この状況に打ち克つために気持ちが上がるような、例えば “今はここが真ん中さ!” とか “笑顔の未来へ” といった曲をやったりするのかな、と思っていた。
今にして思えば、ソロ活動のギアを上げようとしていた宮本が、バンド活動にある種のけじめをつけようとしたかのようなセットリストだった。
そして、まるで何事もないかのように、コロナのコの字も言わない。にもかかわらず、やっぱり現実の状況は目の前に厳然として在り、そして現在は過去の続きとして在り、そういうすべてを何も語らずして表現して見せてくれた。要するにここまで歩いて来て、これからも歩いていくぜ、と。
今なら、それが真骨頂だったんだとわかる。それがエレファントカシマシなのだと。
逆に言えば、何も知らなかった私が、もらえるだろうと想像していた明朗な未来への希望があふれる歌の力は、ソロのベクトルだったんだと思う。
かっこつけることをやめたら、届けたいことを、届く言葉で歌えるようになった。
論語を原文で読もうとするのをやめて、文庫本で読むかのように。
その結果が、横文字、片仮名なのかもしれない。
そして知るにつれてわかってきた。
このひとは、最初の最初から、初期衝動を爆発させていた若き日から、可能性の解放を求めていたのだ。
覆いかぶさってくる抑圧を蹴り破って、風を流し込みたい。
《黒い薔薇》と《白い風》。
30周年のベスト盤『All Time Best Album THE FIGHTING MAN』。2枚のディスクの盤面デザインが黒と白なのは象徴的だ。…と感じるのは穿ちすぎかもしれないが。
ベスト盤と言えば、遍歴してきたレコード会社ごとに編まれた3枚。
『エレカシ 自選作品集 EPIC 創世記』、
『エレカシ 自選作品集 PONY CANYON 浪漫記』、
『エレカシ 自選作品集 EMI 胎動記』。
3枚目にして《胎動》っていうのがすごい。《充実》とか《飛躍》とかではなくて。
ひとつのベクトルを貫き、抑圧された強迫観念と才能を持て余した承認欲求、切実な焦燥感を歌い続けてもがき続け、バカヤロウと叫んできたけれど、
結局、叫んでみたところで景色は変わらないことに気づいたのだ。
そして、心の景色も変わらない。歌いたいpassion、その強靭さが若き日から少しも変わっていないことを、この早口でまくしたてる熱量の中に感じずにはいられない。
この歌は自叙伝に聴こえるのだ。
最後の勝負に打って出て、人生の残り時間に煽られるかのように、これでもかと走り続けているのに、歌詞では《走る》が少なくなり《歩く》に変わってきた。
そして《生まれ変わるもの》《尽きないもの》のアイコンとして《太陽》を歌い続けてきたこのひとが、今、《雨》に打たれている。すべてを流し、熱狂を冷まし、冷静を潤し、新たな命を育む慈雨に。
このところ、顔が若返ってきている気がする。
どんどん若次の顔に戻ってきている。
それは可能性の追求を、やり直しているからなんじゃないか。
原初の姿、根源的な部分がここにある。
だが、以前と違うのは、論語を原文で読むことをやめ、文庫本で読み、さらにそれを自分の言葉に翻訳して綴ることができるようになっていることだ。晩年の鷗外が口語文に挑戦したように。時に横文字や片仮名すら交えながら。
新たな《胎動》が始まっている。