普通の日々
日本全国縦横無尽とその完結編の完遂から、何の音沙汰もない静かな日常。
期待に高鳴る胸を抱えて、ひっそりと過ごす毎日、“普通の日々” というワードが浮かぶ。
“普通の日々”。
この歌は、若次なりの “喝采” なのではないかと思ったことがある。『ROMANCE』にカバーが収録されているあの “喝采” である。
「いつものように」「幕が上がる」「舞台」「ライト」といった単語、おそらくは歌うことを生業としている主人公、目の前にいないあなたを想って歌をうたう、というあたりに通じるものがあるように感じたからだ。
“喝采” は、かつて愛した人の訃報を受けて弔問に赴き、‘祈る言葉さえ失く’ すほどの悲しみに打ちひしがれながら、それでもステージに立って歌う(という解釈をしてるんだけど合ってますかね?)。
この物語を宮本は《悲しみの瞬間》と、それを抱えたまま日常に戻っていく《歌うことによる癒しと再生》のプロセスととらえているのではないかと思ったりしている。(そこに「粋がる女性の健気さ」と「その姿に感涙してしまう男性としての自分」も加味されているかもしれない。)
(以下、引用する歌詞には「うた」「うたう」「歌」など漢字表記と平仮名表記があり、意味するところが異なるのかもしれないが、その考察はまたの機会に。)
“普通の日々” は、
相手は亡くなっても別れてもいないかもしれないし、
‘幕が上がる’
‘用意された 舞台へまた 出かけてゆく’
‘うたをうたおう’
という歌詞があるために、舞台にまつわる物語が歌われているかと思いきや、ここに描かれるのは日常の光景だ。
と描写される街の情景から ‘幕が上がり’ は「一日が始まる」という意味にとらえることができるだろう。とすると ‘用意された 舞台へまた 出かけてゆく’ は、予定されたライブをこなすということ? それともルーティンの生活を生きていくということだろうか。
《普通の日々》とは、舞台に立つこと? それとも舞台のない何の予定もない日の生活?
ここで “DEAD OR ALIVE” の歌詞がよぎる。
《生か死か》というタイトルのもとに響きわたる壮大なロック。
その荘厳さは、湧き立つ暗雲の中に閃く稲光と、空色に茜色が溶けてゆくのは薄暮か黎明か、まるでそれらが両極の視界に描かれた教会のフレスコ画のよう。
《生と死》が交錯する。
だが、歌われているのは
‘テレビをつけた’
だの
‘メシを掻き込んで 読みかけの本読んでいたら 眠くなるのさ’
だのという《日常》=《普通の日々》だ。
そしてそこに投げ込まれるワンフレーズに瞠目させられる。
ここで提起されているのは、生きること=歌うこと。
すなわち、日常を生きるとは、生まれてから死ぬまでの、生と死のはざまの《生活》というステージで歌うこと。
《普通の日々》とはいえ、上り下りのエヴリデイ。いや、上り下りがあって当たり前。生きてるんだから。岩をも砕く怒涛のような曲調で歌われる日常の荒波、世間という大海を乗りこなすための小舟が《歌》なのだ。であるから、歌をうたうという行為は日常の中にこそ現れる。
世間から取り残されたような孤独の夜を歌った若き日。
だが、嘆き節のようでいてあっけらかんとした美しい旋律が醸す明るさからは、己と外界をつなぐことができるのは《歌》であるという潔い信念が滲み出す。
日々を生活していく道連れは、優しく悲しい《歌》。
生きていくために、世間とつながるために、
呼吸するように歌を作って、歌う。
生きることは歌うこと、
歌うことが生きること。