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目指した場所、始まりの場所 現在地について28

その強さは、歌を、パフォーマンスを媒介にして伝播する。
コンサァトの聴衆にはもちろん、バンドメンバーにも、公共の電波を通してでも。
そして、こんなにも力強いのに、同時にとても果敢なく見える。

高潔にして柔軟、強靭にして繊細。美麗にして獰猛。大器晩成にして波乱万丈。
清らかに澄みわたる月の光、鮮やかな花の色、木々の葉が織りなす影、雪の結晶が描く神秘…
こんなにも美しいものが自然界に自然に存在するという奇跡。
そういう美しさなのだ、宮本浩次というひとは。
何度でもくり返し生まれ変わる自然のように。
ピュアでナチュラルなものは美しくて、強い。



このところ、いや以前からかもしれないが、頻りに口にされる言葉。

「ヒット曲を」。

持ち味とされてきた鬱屈した情動の奔流を叩きつけるような歌から、とても大らかな、風と共に生きていく喜びを高らかに歌い上げる作風へのシフトチェンジ。

許せかつての俺よ おお
俺は今を生きてゆくぜ

“yes. I. do”


35周年を機に別れを告げた《かつての俺》。
愛を高らかに歌えば、こんなにも愛してもらえるというたしかな手応え。

自信を全て失っても 誰かがお前を待ってる

”ファイティングマン”

誰かが何処かで待ってる

“四月の風”


コンサァトという空間は、明らかに、集う人々が彼を待ち焦がれていることが約束された場所。
‘夢に夢見て夢から夢を抱きしめて’(“Do you remember?”)、希望を繋いできた彼が、待っていてくれる人、それも何か月も前からその日を心待ちにしてくれた人たちの前で、歌を届ける喜び。
この成功体験が愛おしい表現を生み出す。

会いにゆこう わたしの好きな人に

夜明けのうた


このまばゆい光に包まれるような幸福感は、歌を共通言語とする愛の交歓が成就する感触をその手に掴むことができたから。
ソロ活動の成功によって、抑え込んでいた尖鋭さは昇華したかに見える。
その充実感によって、承認欲求と強迫観念の呪縛から解放されたのだと。
だから《かつての俺》と訣別することができたのだと。



そんなに単純な話だろうか。
…いや、そうじゃない。


今年の夏フェスのエレファントカシマシ。
素晴らしいステージだった。
存在感と迫力は、圧倒的だった。
昔の歌であっても、いつだってその時のリアルな心情を新鮮な気持ちで歌えるから、古びることはない。十分に戦える。ソロとエレファントカシマシをよりくっきりと分離させて、尖鋭な部分を前面に押し出すパフォーマンス。これこそがエレファントカシマシ!待ってました!と心が踊る。新たな層の度肝を抜くこともできる。
そして何より、このひとが叫び続けてきたことは何なのかが、より鮮明に現れてきた。表現方法が異なるだけで言いたいことは少しも変わっていない。むしろ、その透徹したブレのない信念の輪郭が、ソロとエレファントカシマシを分離させたことによって、逆にはっきりと見えて来た。

 さあ がんばろうぜ!

は、

 民衆は耐えよう

と同義であり、それは

 強くもなく弱くもなく まんまゆけ

なのだと。


35周年を経て、これまでの攻め方から思いっきり舵を切った。
難解な尖った言葉ではなく、わかりやすい伝わる言葉へ。
この方向性の変化は、明らかに新しいフェーズだ。
だが、フェスから時間が経ち、ソロの新曲 “close your eyes” が発表され、ソロツアーモードに入って、消せども消えぬ思いがどうしても引っ掛かる。

たしかに、フェスのステージは本当に素晴らしかった。
それは揺るぎない大前提ではあるが……、
正直な話、デビュー曲を演るのならば新曲とは言わないまでも最新の曲も演ってほしかった。そりゃあ “yes. I. do” は35周年アリーナツアーで、 “No more cry” はその年の野音で核になっていたからもう最新という心持ちではないのかもしれないが、それでもフェスの限られた時間の中で、デビュー曲から最新曲まで、バンド史を一気呵成に駆け抜けてほしかった。
ところが、彼らが勝負を賭けたのは、オール昔の歌セットリスト。

いいのかい? なんてさ…。
どうしても胸の奥で渦を巻く思い。
このまま往年の歌ばかりで勝負していていいのかい?
これが戦いのスタイルとして経常化してしまっていいのかい?
それは、あなたが忌避する「安住している」ことにはならないですか?
(つまりは、往年の歌を超えられないからなのではないのか?)

おそらくそんな問いは、とうの昔に百も承知なのだろう。

だからこそ、あの言葉がひたすらに繰り返されるのだ。

「ヒット曲をつくりたい」。


単に売れりゃあいいってわけじゃない。
必要なのは、フェスのセットリストに入れられるようなヒット曲だ。
悲しみの果て” や “今宵の月のように” のポピュラリティーを凌ぐ、
俺たちの明日” の連帯感を継承する、
そして “ファイティングマン” のパッションに匹敵する、
これらに取って代わり得る曲。


走り続けるひとは、常に自分自身と闘っている。
《かつての俺》とは、訣別したわけじゃなくて、
むしろ今、
《かつての俺》に勝負を挑んでいるのではないか。


戦い続ける限り、負けることはない。
いついかなる時でも、最高&最強の武器で勝負に挑む。
つまり、勝ちに行くとは、走り続けることを意味する。

とはいえ、まだまだ行かなきゃならないんだ、俺はこんなもんじゃないはずだ、という思いは昇華するどころか、今俺は人生のどのあたりにいるのかという焦燥をまとわりつかせるようになった。その分、余計に厄介になってきたと言ってもいい。
ここに、今も解放されることのない強迫観念が巣くっているような気がする。
キラキラと輝き、多幸感に包まれてきらめく姿の奥底に、《かつての俺》が澱のように沈んでいる。
深ければ深いほど、その上澄みは清らかに美しく澄んでいく。
光を浴びて駆けずり回る姿がまぶたの裏に像を結ぶと、その強くも果敢ない高潔な魂が胸を突く。

だが、それをつべこべ言っている時間はない。
毎日を楽しく過ごしていても、悲しくつらい嫌なことはあるし、きつい日々でも楽しく嬉しいことは起こる。例えりゃあ晴れた日ばかりじゃなく、雨の日や風の日もあるようなもので、日々感じる孤独は雨の日みたいなものかもしれない。それは生きているからだ。いろいろな天候があってこそバランスが取れる。
雨の日に傘をさすように歩いてゆこう。夜は静かにそっと目を閉じて。
それが生きるってことだ。
ここまで歩いて来て、「生きる。それが答えさ」という境地に到達したら、
もうそれ以上、言えることは、
ない。
豚に真珠だ貴様らに聞かせる歌などなくなった。

これから生まれる歌は、追い立てられるように《自由》を渇望したり、若い頃のように《ぶざまな》などとはもう言わないかもしれない。戦い続けるひとだけが辿り着くことができる浄化:カタルシス。
だが、解放されてキラキラなソロ宮本浩次でも、昇華しきれない澱はなくなりはしないのだ。
舵を切って変化したことがあるとすれば、
《俺》の歌から《俺たち》の歌へ、
そして《鼓舞》から《共闘》へ。


戦うことをやめたら、それは安住することを意味する。
おのれに取り憑いている強迫観念と対峙し続けなければならないのは、天才の宿命。
安住の地なんて幻だってこともわかってる。
だから、雨の日も風の日も走り続ける。
生涯、走り続けるしかないのだ。


ツアーのタイトルは「今、俺の行きたい場所」

このひとの使う《場所》という言葉は、土地の座標を指し示すのみならず、その時の心の置きどころをも意味する。
つまり、神様 俺は今 人生のどのあたり?
つまり、ああ お前は今 どのあたりを歩いているんだい?

今が俺の目指した場所
そして俺の始まりの場所

shining


《今、俺の行きたい場所》は、果たして今の俺にふさわしい場所なのか?
もうひと花、咲かせてやろうじゃないか!
もっともっとかっこいいミヤジを見せてくれ!


生きざまとは、生きる場所を探す旅の在り様。


あの言葉は、《かつての俺》に戦いを挑んだ今の彼の、渾身の覚悟なのかもしれない。


「いくしかないじゃん。生きてるんだから。」





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