俺を照らせ
俺もまた輝くだろう
今宵の月のように
このひとはどうしてこんなに強いのだろう。
どうしてこんなにも自分の信じる道を突き進むことができるのだろう。
『宮本浩次縦横無尽』アーカイブのインタビュー映像を観て、そんなことを思った。
こういうことなんだよ。こういうとこなんだよ。
だからこそ惹かれるし、それがどんどん上書きされる。
それは、彼自身が常にその瞬間の最高を探して、追い求めて上書きしていくからなのだろうけれど、それにしても、この強さはいったいどこから来るのだろう。
ライブ映像をじっくり観た。セットリストをじっくり見ながら。
このコンサートでエレファントカシマシの曲が披露されたことについては、賛否両論ありました。私は前にも書いたとおり、お前正直な話、率直に言ってこの現状をどう思う?と問われれば、いいんじゃないのと答えざるを得ないのが不本意ではないくらいには肯定派です。ソロからの新しいファンに対しての名刺代わりだったのだろうし、曲の持つポテンシャルを試したかったんじゃないかと思ったから。
(そこらへんのことを直後の熱いときに書いたのがこちら。)
(少し経っていくらか冷静になってから書いたのがこちら。)
改めて読むと勢いで筆が滑っていて恥ずかしいけど、その瞬間の正直な気持ちで書いています。
今回は、もう何度目かの視聴ということもあって、落ち着いて反芻しながらじっくりと観ることができた。
そして気づいた。
冒頭に引用した2行の歌詞、
ここにこのひとの目指している《輝き》を感じたのだ。
これはおそらく、ソロのコンサートじゃなかったら、この曲順じゃなかったら、気づかなかっただろうと思う。
"今宵の月のように" から、"昇る太陽" へ
(間に "あなたのやさしさをオレは何に例えよう" を挟んだけれども)。
月は、自らは発光しないで太陽の反射で光っている。
彼が輝きたいのも、太陽になりたいとか、太陽のように自ら発光しようとかではなくて、スポットライトを浴びるとか脚光を浴びるとか、そういう月のような輝き方なのかもしれない、と。
月は満ちては欠け、欠けては満ちる。
いかなる月齢のときも美しくて、三日月、十三夜、満月、十六夜、弓張月、立待月など、いにしえの人々は風雅な名称をつけて空を仰いだ。太陽の光を受けて輝き、太古の昔から変わらずに、毎晩、町を見下ろしてくれている。たとえ新月でも、雲に隠れて見えなくても。
そうか。
輝くなら、そんな月のように。
俺もまた輝くだろう
今宵の月のように
そして、反射させて輝くために、太陽の光を浴びたい。
だから、
昇る太陽 俺を照らせ
なのか…。
ライブ映像を観ていて、間にバンドメンバー紹介に持ってこいの "あなたのやさしさをオレは何に例えよう" を挟んだにせよ、"今宵の月のように" から "昇る太陽" への流れで、脳に電撃が走った。
とはいえ、月は満ち欠けるし、太陽も季節と共に光の強さが変わる。
そうか。
エレファントカシマシの歌詞で歌われている季節は圧倒的に夏が多い。それはもしかして、太陽の光が強いからなのか…。
我らが季節 太陽の季節 ( ‟太陽の季節” )
思え!曙光の時を! ( ‟曙光” )
光を浴びることを待ち望んで苦節30余年、
太陽に照らされて、月のように輝き、星に願いをかけて、誓う。
強さの源は、ここにあるんじゃないだろうか。
拠り所にしているものは、月、太陽、星。
あるいは、論語、古墳。
移ろってしまうこともある人の心のような危ういものではなく、大いなる太古からの揺るぎないものを拠り所にしているから、だから無尽蔵に強いのだ。
太陽になりたいんじゃない。月になりたいんだ。
揺るぎないものは、いつだってどんなときだって、見上げればそこに在る。
富士に太陽ちゃんとある。