結論は出さない 現在地について6
1.結論は出さない
日本全国縦横無尽、キラッキラに輝く宮本浩次に当てられてしまった。
ショーアップされたソロ次は、かっこいいものをよりかっこよく、美しいものをより美しく見せていただいている感じがする。照明や映像、委ねられる手練れの演奏に乗って気持ち良さそうに、選曲も歌唱もパフォーマンスもまさに縦横無尽、破れし夢が躍動している光の世界、極上のショウに仕上がっていて、ソロアーティストとしての一里塚に到達したと言っていいだろうと思う。
このひとはいつも期待値を超えてくる。
無尽蔵なポテンシャルゆえに期待を超えてくることがもはや当たり前になってしまって、目の前で期待以上の出来事が繰り広げられていることはむしろ期待どおり、これだけステージを重ねていればこのひとのことだ、そりゃあどんどん進化もするし、こなれてくるし、上手くもなるさ。
そんなふうに感じてしまったのは、行きたくても行かれないもどかしさをなだめ、とことん追いかけたい気持ちと折り合いをつけるためなのかもしれない。
できることなら、初めてソロを見た2021年6月12日に帰りたい。
素晴らしい演出だった。あの曲のあそこでバンドの音が…、それにタイミングを合わせて照明が…、はぁー、かっこよかった。初見のあの感動をもう一度味わいたい。
このひとの歌は、パフォーマンスは、私に初めて観た時の雷に撃たれたような衝撃をもう一度感じたい、と思わせる。それは不可能なのだけれども。それでも。
あの瞬間に戻りたい。
そんな燃え尽き症候群?萌え疲れ?を見計らったかのような絶妙な頃合いで、新春2022 “珍奇男” の映像公開。
やっぱりエレ次はかっこいい。
剥き出しの素のままで、むしろ装飾を排した方がかえって内からの輝きが神々しく際立つ。顔つきが変わる。佇まいや歩き方までもが、曲が作られた当時のそれになる。時空ですら平伏す “化ケモノ青年”。
続いて、全編がWOWOWで放送された。
デビュー34周年記念日の前日。そして奇しくも日本全国縦横無尽ツアー中盤の4公演が延期されて、心配やら不安やら落胆やら期待やら、いろんな感情がすげえスピードででっかい渦巻きになっていたタイミング。
感動をなぞりながら記憶を確認できたら、と思ったのだが、視点が違うとまったく別物だった。あの日に見た光景は自分の記憶の中にしかない。自分の席からの定点映像がほしい。なのに、別視点からの映像を観ても記憶と感動を反芻できる。「ライヴの記録」が「映像作品」として成立することについて改めて考えさせられる。(これはいつか別稿で考察したい。)
あの時間には帰れない。
結論は出さない。
だから揺るがないのだと思う。
当たり前っちゃあ当たり前だよね。
生きてるんだもの。毎日。
渦中にいるんだもの。
結論なんて、おいそれと出るもんじゃないもの。
これについて、
と述べる。
こちらについては
と述懐し、デビュー当時から最新の曲まで《結論を出さない感じ》は貫かれている。
何回か書いてきたけれど、この《結論を出さない感じ》がすごく好きなのです。
浮世の事象は、簡単に言い切れるものなどそうそう無い。歌詞の世界ではわかったふうなことを言いがちだけれど、世の中のことも正解はわからなくて、相手の気持ちなんて推し量るしかなくて、自分の気持ちでさえも結局わからねえ!その理想と現実の狭間にドラマがあり、歌が生まれる。
彼の歌詞世界は、明らかに意図的に結論を言わない。あまり決めつけたり、我を通したりしない。“ココロのままに”、“流されてゆこう”。
2.拠り所は揺るがない。本当さ。
沼入りして間もないころ、ATBを聴きまくり、MVやライブ映像を観ては気に入った歌が収録されているアルバムを買い集め、ひたすら勉強オレしていたワタクシは、「いわば」とか「例えば」という言葉が頻出するという印象を持った。その時は、メロディーラインと歌詞の兼ね合いで語呂合わせに入れているのだと思っていた。3文字のときは「いわば」、4文字のときは「例えば」。だがこれはきっと語呂合わせだけではなく、断定を回避するために入れられた語句なのだろうと、今となっては感じている。
ここでも「誰か」「本当なんだろう」とぼやかすことで断定はしないでいる。
その一方で、ファジーな表現法の変形として、敢えて限定させるという表現もあるから奥深い。
可能な限り、出来うる限り。限界まで。だけれども限界まででいい、限界突破するまではしなくていい。それよりも、まずはやろうとすることが大事なんじゃないか。
断定することを避け、「出来うる限り」と最大限まで挑発しつつも同時に自己規制する。その上で自分自身を信じて生きて行こうとするからには、確固とした拠り所が必要になる。人の心なんぞは移ろうものだ。移ろうし、揺らぐし、ブレる。信じていても裏切られることもある。
だから、けっして揺るがないものを拠り所に。
太陽、月、星、雨、風、花、人の歴史。
太陽から生きるエネルギーをもらい、その反射で月のように輝き、星に願いをかけ、雨に打たれながら、風にココロを乗せ、花に人生をなぞらえ、人の長い歴史を思う。
己の力では抗いようのないものを拠り所にしているから強くいられるんだろう。
太古の昔から、‘恐らくは日本人と呼ばれる以前の死に絶えしヒトビトの祈り’( “生命賛歌” )を捧げられていた時空の彼方から、変わらず人々を見てきた大いなる自然。
エレ次とソロ次は明確に演じ分けられていて、新春と日本全国縦横無尽ツアーの過程でその差異がより鮮明になってきた。でもやっぱり、同一人物であるから根幹は通底している。
全国縦横無尽京都。
光の雨が降る歌の前に放った言葉に、電撃が走った。
《雨》と《月》が繋がった。
「行こうぜ!素敵な明日へ! “rain”!!」
これは、月の歌の前に言うこともある台詞。
つまり、‘「バカヤロウ」って心で叫んでみたけど’ は ‘くだらねえとつぶやいて’ から続いていて ‘何も変わらない明日の景色や心の景色’ は ‘醒めたつらして歩く’ から続いていたんだ、と。
そしてそこには、
たしかなことだけを、本当さ、と歌うのだ。
“rain―愛だけを信じて” はご本人曰く女の人の歌だそうだけれど、この《女の人視点》は『ROMANCE』で女唄をカヴァーした経験によって会得した技かもしれない。
『ROMANCE』の歌たち。粋がって強がる歌の主人公がいじらしくて泣けちゃう、と仰る。
くだらねえと呟き、食わねど高楊枝よろしく強がって若武者を気取る “ドビッシャー男” こと若き粋次にも、それに似た愛おしさがあるのかもしれない、などと考える。
そんな歌たちを若次の顔で歌う今次がとても美しかったから。
そこには、男とか女とか関係なく、人間の健気さに涙してしまう感性があるのだろう。その健気さとは、一般的には年を重ねて経験値が上がるのと引き換えに失われるものかもしれない。だが、自分を信じる強さと潔さが芯を守っているから、経験値を頼りにすることなく勝負していける。だから健気さは損なわれない。
いつもその当時の気持ちで歌うことができる。
でも、やっぱり時は流れているから、若き日の思いに愛おしさがこみあげる。
だから、
結局、ソロとバンドとどっちがどうとか、どっちが好きとかというのは、要するにエレファントカシマシでもこの曲が好きとか、何期が好きとか、このアルバムが好き、っていうのと同じ地平なのかもしれないし、違う世界線なのかもしれない。エピ期、ポニキャ期、EMI期、ユニバ期、ソロ期、みたいな。
今、キラッキラに輝いている。
そして今もなお、輝きを求め続けている。
というのは、過去の遺産で食いつないで行ける自信を持つことができたという意味ではなくて、今もなお青春のリアルさそのままの情熱で歌と演奏を届けることが可能であり、それを待ち望み聴いてくれる人がこんなにもいるという確信の境地にようやく至ったのだ、と私は解釈している。
このもがき苦しむ姿をありのままさらけ出すことこそ真骨頂。
いつの歌でも、その当時の気持ちのままで歌うことができる。
そう言うからには、今もなお、心のともし火が燃えているのだろう。
バンドのためにソロをやるという真の意味。
ソロで知名度が上がればバンドに興味を持ってくれる人が増えるとか、そんな単純な理由だけじゃないことは百も承知だが、伏線回収の壮大さに打ち震える。
3.もうひとりのお前が安住させない
全てを見届けたいと思いながら、燃え尽き症候群もどきに陥って、なぜか『宮本、独歩。』が聴きたくなった。
そうか。
『縦横無尽』は愛と光に満ちた自他への賛美歌。キラキラ溢れる幸福感に活力をもらえるけれど、『宮本、独歩。』は未だ高みを知らず、幸せと笑いを求めて世界を切り拓いていこうとする。上を目指すエネルギー、勝ちに行こうとするエネルギーは『縦横無尽』より『宮本、独歩。』の方が強いように感じる。この漲る強靭な推進力が効く時もあるんだ。
ソロとバンドはこのまま並走なのか、
どこか「この道の先で」融合することがあるのか。
幸せなのは嬉しい。
でもやっぱり、もがきながら求道する姿に魅せられる。
と言われても、気づけば一周して裏返っているメビウスの輪だ。
そして流れ流れて漂う今、
とその名も “shining” の中で歌う姿が、自分自身に言い聞かせているようにも聴こえるのだ。
安住しようとしてしまう自分はたしかにいる。
でも、そこに安住してはいけない。
ともすると安住しそうになる自分を、鼓舞しているように感じるのだ。
その感覚をとりわけ強く感じるのが “just do it”。歌詞をじっくり読み、じっくり聴いてみてほしい。そうとしか思えなくなってしまう。ニューアルバム『縦横無尽』を駆っての全国ツアーにおいて、収録曲のうちで唯一、演奏されていない楽曲だ。
『宮本、独歩。』でソロ活動のスタートを切り、順風を満帆に孕んでの航海、『ROMANCE』で念願の1位を獲得して頂点を知ってしまった男が、自分の歌が大衆に届いたことを心から喜び、自信を得て、そこで満足してしまいそうになる《もうひとりの自分》を鼓舞し続けるために歌う。
と。
それはつまり、‘俺を俺を力づけろよ’( “ファイティングマン” )に他ならない。
4.遠い星に誓いを
そうなると、やはりこの「おまえ」は「もうひとりのお前」に通じているように思う。
安住を求めようとする自分、そうさせまいと鼓舞する自分。
輝いている今よりも、輝きを求めてもがいていた時の方が輝いているように感じられる理由もこのあたりにあるのかもしれない。
もがいているのだろう、今も。安住することを自分に許さない人だから。
“sha・la・la・la” の ‘俺は絶対勝つってよ’ は、現在ではなく、幼き日の誓いの言葉だ。
強き心を持っていた幼き日に帰りたい。
帰れない、戻りたい、戻れない。行くしかねえ。
しょうがねえなあ、さあ、行くか。
さまざまな輝き方=shining をする多面体。
芯で命が燃えている。
その炎の色が、多面体のどの部分がその瞬間に外に向いているかによって、異なる色で輝くのだろう。
と述べているが、これは音楽性とパフォーマンスの観点から。歌詞の観点から言わせてもらうならば、
この《かわいがってるぶざまな魂》を歌にしてさらすための足場となっているのが、若き日は青春の理想と敗北の側からの照射であり、現在はいかした大人の本気で勝ちを目指し続けるために決意と覚悟を新たにする、という心意気なのかもしれない。
『宮本、独歩。』の歌たちが「例えば」自由と幸せを追い求めている歌だとすれば、『縦横無尽』の歌たちは「いわば」自由に羽ばたいて目指していた頂点を経験し、それでもなお、満足することなく安住することなく、 ‘遠い星空に誓った幼き日’ の気持ちが今も変わっていないことを、そして ‘「お前は今どのあたりを歩いているんだい?」’ (この部分が鍵カッコで括られているのも意味がありそうだ)と現在地を確認するための歌なのかもしれない。
そう、
開放感でキラキラに輝いて、幸せそうで。その姿が見られるのはそりゃあもちろんとても嬉しいことだし、会場中に愛と幸を振りまいてくれて、それを浴びて生きる気力をもらえるのはこの上ない喜びだし、その場にいられることに限りない感謝の念を禁じ得ない。だが、お膳立てされた舞台ではなく ‘満たされないまま 引きずりまわして歩’ く( “俺の道”)姿もたまらないのだ。
正直、ソロのコンサァト参戦はもういいかも、と思う気持ちもあった。でも、長いツアーの行程で1ステージごとに進化を遂げ、「お休み」を経てさらにパワーアップしていくさまをやっぱり体感したい、と思った。
この原稿を書いている今、外は桜の花の舞い上がる季節。
咲き誇る花を見ておくべきではないのか。
つまり、もうひとりの私も同じ気持ちなのかもしれない。
安住はしたくない、夢と希望を追いかけたい気持ちを変わらず持ち続けていることを確認したいのかもしれない、
と自問自答の末、結論した。
明日も夢追いかけ続けるのさ sha・la・la・la