「頑張れ」はいらない
このところちょっと仕事が忙しくて、忙しいというかやること考えることが多すぎて、脳がビジー状態になってよくフリーズする。話をしていると道筋を見失ってしまうし、キーボードを打っているとやたらにミスタッチが多いし、無意識でできていたパソコンの中のファイルに階層を開けてたどり着くことができない。
やることはたくさんあるんだけど、勤務時間内で知力体力を使い果たしてしまって、とてもじゃないが残業なんてできない。逃げ出したいんだ、わかるか?baby。
こんなこと30年働いてきて初めての感覚。ちょっと驚いている。めんどくせいなんてセリフは口にすらしたくなかったけどーうぉうぉうお。
それでも日々は続いていく。
日々の暮らしを続けながら、自分で癒していくしかない。
自分で癒すには、日々の暮らしを続けるしかない。
仕事に出かける自らを鼓舞するために、通勤中にやる気が出るようなプレイリストを聴くのだが、名付けて「プレイリスト目覚まし」。文字通り目覚ましの “Wake Up” や “Easy Go” 、ソロからは “ハレルヤ” や “passion” をはじめとして、俺の道を突き進んで勝ちに行くぜ的な歌15曲をセレクトしてある。
それが、…効かない。
どうしたことか、効かない。
なんか今日はちょっとつーらい。
ちなみに最強の即効特効薬は、まず “奴隷天国” を聴く。続けて “クレッシェンド・デミネンド” を聴く。‘同情を乞うて果てろ’ で突き落とされる。ほんとに果ててやろうかとすら思う。そして ‘でも好きなんだろう? 生きてることがよ’ で生まれ変わる。“so many people” で締めて完全治癒。ただこれはAEDなので、本当にヤバい時にしか使わないようにしている。
ちょうど語彙調査をしていたこともあってポニーキャニオン期のアルバムを聴いたら、どうしたことか、これがまあ心地よくて心地よくて。
“流されてゆこう” とか “ココロに花を” とか、めちゃめちゃ効く。
これはどういうことだ?
結論から言うと、この現象を解明するには宮本浩次のたまうところの
ということが鍵なのではないかと思うのだ。
自己の衝動と感情の奔流を歌いたかった若き日から、それが世間に届かないもどかしさ歯がゆさ口惜しさを経て、社会との距離感や対峙のしかたを体得して、すなわち受け入れられる歌づくりを意識するようになって、社会の中での役割と求められるものを理解した上で、つくって歌う。
と歌っていたのが、
今となってみれば、求められるそれらの要素をソロ活動が請け負うことでバンド活動は呪縛から解き放たれ、より原初の衝動を存分に発散できるようになったように見受けられるのだが、その道程には、徒歩(“星の降るような夜に”)から自転車(“Baby自転車”)へ、さらに車(“STARTING OVER”)へという変遷があり、想いが確実に届くことをしっかりとした手応えを伴って実感できる境地に至った今、‘俺は車をとめて街を歩いた’(“光の世界”)、長い旅だった。
その35年間の艱難辛苦、紆余曲折が、あらゆる状況に応じた応援をしてくれる。
つまり、今の私のように逃げ出したくなるような時は、社会性を持つ前の、社会に挑んでいくポニキャ期の疾走感が効くのかもしれない。
応援と言えば、みんな大好き同世代への激励ソング “俺たちの明日”。
この歌は私の感覚だと、数多ある楽曲の中でひときわ特異な印象を受ける。
歌の中で呼びかけられる《おまえ》とは《自分》すなわち彼自身かもしれない、と思わせる独特の感覚が、ここにはないからだ。明らかに第三者である《おまえ》へ思いを馳せたエールの交換。
やっぱり私は、彼が彼自身のために歌っている歌が好きだし、そういう歌から力をもらえる。
お互い頑張ろうぜ!と励まし合うというよりは、歌っているそのひとが、‘今日もどこかで不器用にこの日々ときっと戦っていることだろう’ と思うと、私も頑張れる。とはいえ、今までさほどでもなかった楽曲がある日突然に刺さることもあり得るから、そのミラクルが訪れるのも楽しみなのだけれども。
さて、ここからが本題。
先ほど挙げたポニキャ期の歌たち。「頑張ろうぜ」「行こうぜ」と呼びかけてくれなくても癒されるのはなぜなのか。
これについて “悲しみの果て” から考えたい。
悲しみ。
これはなくならない。生きている限り。
なんか、悲しいね生きてるって(“冬の花”)。
影のようについてくる。だから抱えて生きていくしかない。雨の日に傘を差すように。
人は、悲しみを乗り越えるから強くなるんじゃない。乗り越えるとか、戦うとか打ち負かすとか、そういうものじゃない。そうすることで消えてなくなるものじゃない。
悲しみを抱えて、それでも生きて行こうと立ち上がろうとするから強くなるんだ。
以前のnoteで、彼の歌は自己治癒力の高い人に響く、と書いた。
なぜなら手を差し伸べてはくれないから。
彼と彼の歌のひたすらに前向きなベクトルが、聴くひとの「自己治癒力」に作用するからだ、と。
だがそれだけで、こんなに響くのか。こんなに刺さるのか。こんなに癒されるのか。
そして思い至ったのが、やっぱり手を差し伸べてくれているんじゃないか、ということ。
この歌には、励ましや慰めの言葉は入っていない。
ライブでは全身全霊で歌を届けてくれる。ただただその姿から生きる希望と勇気をもらえる(すみません。私も「元気をもらう」という表現は好きじゃないし、そもそも「あげる」とか「もらう」というようなやりとりをするものなの?と思っているのでお嫌いというのもとてもよくわかります。が…、事実そうなんだもの、そうとしか言いようがないんだもの)。
ということは、全身全霊で伝えてくれたら、一生懸命なら、「頑張ろうぜ」とも「行こうぜ」とも歌ってくれなくても、励まされたり慰められたりするということなのか。
もちろん、それはあるかもしれない。でも、ライブを体験しなくても音源だけだって十分に癒される。
つまり、何を歌いたいのかということ。
歌を通して何を伝えたいのか、何を届けたいのか。
語弊があるかもしれないが、長い時間をかけて、そしてソロ活動を通して、ようやく世間がこのひとの歌いたかったことを、衒いやハッタリや狂気といった先入観の色眼鏡を通さずに理解し始めたんじゃないだろうか。
難解な言い回しはひとつもない。
慰めや励ましの言葉もいらない。
ただ、悲しみの癒しかたを教えてくれる。
日々の暮らしを続けながら、自分で癒していくしかないということを。
自分で癒すには、日々の暮らしを続けるしかないということを。
いつもの部屋に花を飾ったり、コーヒーをゆっくり淹れたりしながら。
そして、たしかに手を差し伸べてくれている。
悲しみの果ては
素晴らしい日々を
送っていこうぜ
この、たったの一文字、
言い切りの「いこう」でもなく、
呼びかけの「いこうよ」でもなく、
慣れあいの「いこうね」でもなく、
この「ぜ」が、手を差し伸べてくれるのだ。
自他の境界線など持たない力強い決意。
契約が切れ、下北沢SHELTERで初披露された際には「僕のレコード会社、いつになったら決まるんだろう…。」というボヤキだった前置きが、いつの間にか「みんなに捧げます」が恒例になった。
拳を突き上げずにはいられない、強くてやさしいヒーリングソング。
悲しみには果てがある。