僕にとっての副業は、自分をこの世界につなぎとめる最後のアンカーロープだった
僕が初めて副業をしたのは、新卒で働いた会社の1年目のときだった。
社会人最初の1年を間もなく終え、新しい年度を迎えようとした春先、僕はアルバイトの面接に向かった。
当時は副業を認める会社なんてまずなかったから、会社に内緒で。
仕事を教わっている立場の新人のくせに舐めている、といわれても仕方がない。でも、入社早々、理想と現実のギャップで身も心もボロボロになっていた自分を保つためにはどうしても、その副業が必要だった。
その副業というのは、ヨットスクールのインストラクター。
新入社員として会社に入社してからは、毎日、朝5時台の電車に乗って会社に向かい、家に帰ってくるのは10時過ぎ、寝るためだけに家に帰るような毎日。東京の土地勘がなく、会社からとんでもなく遠いところにアパートを借りてしまった自分がそもそも悪かったのだが。
大学時代は、ホテルの朝食係と居酒屋のバイトを掛け持ちしていたから、寝るためだけに家に帰るというのは同じようなものだったけど、大学時代のアルバイトと社会人としての職業とは全く違う。こんな生活がこれから先も延々と続くのだという不安感、その重圧に精神的にかなり参っていた。
新卒で入社した会社では、土曜は隔週での出社だったので、ヨットスクールのアルバイトは、日曜か隔週の土曜日。しかもインストラクターの依頼が入った日だけなので、毎週というわけではなかったが、シーズン中にはわりと頻繁に海に出させてもらった。
もし、あのとき、ヨットインストラクターの仕事をしていなければ、心を正常に保つことはできなかったかもしれない。それほどまでに自分は会社勤めに向いていないと思っていたし、周りからもそう見えていたと思う。
でも、ただ海に出るのではなく、仕事として海に出ることで、社会人として失いかけていた自信をかろうじてつなぎとめることができていた。
ディンギー(小型のヨット)の帆を濡らした潮水を洗い流したあと、夕陽を背にしながら帰路につくときの砂浜の感触は、あと1週間だけ仕事を頑張ってみようという気持ちにさせてくれた。
その後、転勤、退社、留学で、ヨットからしばらく遠ざかっていたが、再び副業を考えるときがやってきたのは、それから15年が経ってからだった。
僕は再び会社勤めをしていた。
社会の荒波にもまれて様々な経験を積み、新卒で甘いことを言っていた昔の自分とはもはや違う。
勤めていた外資系の会社は、休日出勤が当たり前で、仕事もきつかったが、同時にやりがいも大きく、楽しくもあった。
と、自分に言い聞かせていただけなのかもしれない。
仕事が楽しいから、というのを言い訳に、日々の仕事に忙殺され、心と体をすり減らしつつあることに全く気付いていなかった。
今度は、心ではなく、体が先に悲鳴を上げ始めた。
原因不明の肌の異常とじんましんに、病院に行って薬をもらうのだが、最初のうちは効果があるものの、また、症状が激しくなり、より強い薬を処方してもらう。しばらくは改善するものの、また症状が出始め、さらに強い薬を処方してもらう。そんな日々が半年以上続き、そろそろ限界を迎えつつあった。
そんな中、ふと立ち寄った本屋の雑誌コーナーで手に取った本に、新卒のときにアルバイトをしたヨットスクールの募集広告が載っていたのだ。
15年ぶりに訪れたヨットスクールでは、以前お世話になった責任者の方は定年退職されていたが、僕が社会人1年目の時に乗っていたあの懐かしいディンギーがまだ現役でスクール生を迎えていた。
そして、僕も再び、そのディンギーでスクール生を迎えることになった。
海に出ることがどれだけ人の心と体を癒すのか、科学的なことはよくわからない。あるいは文字通り、気持ちの問題、なのかもしれない。
それでも、休日出勤の代わりにヨットスクールで教えるという日々を繰り返しているうちに、体の症状はみるみる回復し、会社勤めの仕事も心から楽しめるようになっていた。
僕にとっての副業は、自分をこの世界につなぎとめる最後の錨綱(アンカーロープ)だったのだ。
(冒頭の写真はヨットスクール開催場所の夕景です)