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潔癖

潔癖(けっぺき)とは、本人が考える不正不潔を嫌い、それに対して妥協しない完全なものを求める性格をいう。また、不潔恐怖症の意味でも用いられる。

不潔恐怖症は「汚れ」を過剰に気にすることであり、現実に汚れているかどうかが問題ではなく、一旦取りついた強迫観念(不潔恐怖)を治めるために、さらに「汚れ」を落とそうとするような強迫行為を繰り返すノイローゼ強迫神経症)の一種であり、俗に潔癖症と呼ばれることが多いが、精神医学的には不潔恐怖症(強迫神経症)とよばれ、症状がひどい場合は治療の対象になる。

潔癖 - Wikipedia

日常生活に大きな支障があるわけではないので、潔癖症ほどではないにせよ、自分はそれに近いかもしれない、と思うことがある。


例えば、スマホやキーボードなどを触った手で、ポテトチップスや寿司のような、直接手で掴んで食べる物は食べることができない。

それらを食べるときは、必ず手を洗うか、ウェットティッシュやアルコール消毒をしてからでなけばならない。

自分の部屋には、ウェットティッシュやアルコール消毒を常備し、使いたい時に使えるようにしている。

外出時には、バッグの中にスプレータイプのアルコール消毒液を備えているので、手で食べ物に触らざるを得ない状況が訪れれば、手を消毒してから食べ物に触る。


また、一度口をつけたペットボトル飲料も、時間が経つと飲めなくなる。

どうしても飲みたいときは、ペットボトルに口をつけずに飲む。

正確には、極力避けたいだけであって、必要があれば食べたり飲んだりすることは可能だと思う。


私がこうなったのには、思い当たる節がある。

スマホの画面はトイレの何十倍も汚いという話を聞いたことがないだろうか。

私は、その話を聞いて以来、スマホを触った後の手で食べ物を触るのが気になるようになった。

また、ペットボトル飲料についても、一度口をつけると数時間で細菌が繁殖するという話を聞いてからだ。

あるいは、コロナ禍で徹底的な消毒を強いられたことで身についた習慣なのかもしれない。


他にも、電車の吊革はなるべく触りたくないし、外出先でなるべくトイレを使いたくないし、他人が口をつけたものは食べたくない。

普通のことと言われれば普通のことかもしれないが。



このような症状があることから、自分は潔癖症かもしれないと思い調べていると、興味深い内容を発見した。

それは、潔癖症でも部屋が汚い人がいるということだ。

潔癖症というと、部屋が整理整頓されていて綺麗というイメージはないだろうか。しかし、実際にはそうでない場合もある。

これはつまり、「部屋が汚い」状態が、「本人にとっての不潔」に当てはまらなければ許容できるということだろう。


私自身について振り返ると、確かに「潔癖症」と思える側面はあるが、それが全てに当てはまるわけではないことに気づく。

例えば、自分の部屋に多少散らかった物があっても気にならないし、机の上が整理されていないことにストレスを感じることもない。

一方で、外から持ち込まれる「汚れ」や、自分の手を介して口に入るものに対しては、過剰に反応してしまう。

このように考えると、「潔癖症」というのは一律の基準で測れるものではなく、個々人が何を「汚い」と感じ、何に対して過剰に反応するかによって、その形が異なるのだろうと思う。

ある人にとっては散らかった部屋や埃が「不潔」であり、それを避けようと徹底的に掃除をする。

ある人にとっては「外部から持ち込まれる汚れ」にだけ過剰に反応するケースもある。

さらに興味深いのは、潔癖症が必ずしも「合理的な不安」に基づいているわけではないという点だ。

例えば、細菌やウイルスに関する情報が増え、衛生意識が高まった現代において、「スマホがトイレより汚い」という話はよく耳にするが、実際にそれがどれほど健康リスクに直結するのかは定かではない。

にもかかわらず、私たちはその情報を受け入れ、それに基づいた行動を取る。こうした行動は、科学的根拠というよりも、心理的な安心感を求めるものなのかもしれない。


では、この「潔癖」とどのように向き合っていくべきなのか。

私の場合、これまでの行動が日常生活に支障をきたすほどではないため、「個性の一つ」として受け入れている部分が大きい。

しかし、もしこれがエスカレートして、手洗いや消毒に多くの時間を費やしたり、外出や人付き合いが困難になるようであれば、対処が必要だろう。

そうなる前に、自分の中で「どこまでが許容範囲なのか」を見極めることが重要だと感じる。

また、潔癖に関する情報を調べていく中で思うのは、周囲の理解の重要性だ。

潔癖症の人が「行き過ぎている」と指摘されることもあるが、それは本人の価値観や不安に基づいた行動であり、単純に「治せる」ものではない。

そのため、相手を否定せず、行動の背景を理解しつつ、適切なサポートを提供することが求められるだろう。


最後に、潔癖に関する自分の考えを整理してみると、結局のところ、それは「安心を求める心」と深く結びついているのではないかと思う。

不安を和らげるための行動が時に過剰になってしまうのが潔癖症なのだろう。

それが大きな問題になる前に、自分の行動を見つめ直し、バランスを取ることが必要なのかもしれない。

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