湧いてきたものを見る
最近、チラつく小さな体験がいよいよそろそろというところまで来ていたので、それを見た。
昨日の記事の感情が出たことにも繋がる。
記事の中で、涙が出るほどの「何か」が私の中にあることがはっきりとわかった。けれどそれを俯瞰して見られるくらいまでは横に置いておいた。
感情が湧いてる時は、"自分"ではなくて"相手"にフォーカスが当たるので、一旦引きで見られるようになるまで、身体を整えたり、気持ちを整理したりする。
「自分は何を体験してるんだろう?」
その視点で今回のことを見た時に、「そんなことをされたら生きていけない」が根底にあった。
そして「〜されたら」という、被害者側に立っているのにも気づく。
相手に自分の手綱を委ねている。
自分自身でなくて、相手に自分の手綱を渡した瞬間に自分ではなくて、相手ベースになる。
それは選ばなくていいという意味では楽かもしれないが、「自分で人生を創造する」ということは叶わない。
なぜなら自ら選択するのをやめているからだ。
今までそのように生きてきた経験が長い身としては、そちら側に行く気持ちもよくわかる。けれど、私が望んでるのはそっちじゃない。と今は自分でよくわかっている。
こういうことが起きた時、自分の中のパターンを認識することで、何が引き金になっているのかもよくわかるようになる。
良い悪いではなくて、これもまた「自分を知る」ことのひとつ。
よくよく今回の「そんなことされたら生きていけない」を見てみると、ひとつ疑問が浮かぶ。
「それ、本当にそうなの?」
私の頭の中ではそう思ってるだけで、第三者に「こういうことがあったら生きていけないと思ってるんだけど、どう思う?」と聞いたら、意外と「そんなことなくね?だって、こうしたらいいじゃん」と違う視点での意見がもらえることがある。
実際のところ、そうなのだ。
自分の頭の中では「もう無理だ!」と思ってても、他者からみたら、「そんなことなくね?」なことはいくらでもある。
それは自分の中で築かれた「マイルール」でしかない。
それは、自分で作ったルールだから今後の人生で不要であれば自分で取り下げられるし、それも選べる。
だから、「そんなことはない」というメガネにかけ直して世界を見てみることが大事だ。
いつまでも「〜かもしれない世界」を見ていると、違う世界はないものとして認識されてしまう。
ない、と認識したら自分の中では「ない」ものになる。なかったことに自由自在にできるのだ。
だから、そういう世界が"ある"世界として見る。
そういう体験をした記憶として、新しいのは、
日本野鳥の会の人と海を見に行った時のことである。
彼が、遠い水平線の向こうにウミネコが飛んでいるのを見つけた。でも肉眼ではわからないくらい。私が双眼鏡でも見ても、「どこ?!」というようなレベル。
でも、ウミネコいる!と思ってしばらく目を凝らして見てると、目が慣れてくる。
なんか、チラチラ飛んでるやついるかも…
なんか、あれ、ウミネコっぽいかも…
ウミネコ本当に飛んでる!になる。
あるものはあるものとしてみる。
そうすると、見えてくるものが変わってくる。