甘い言葉は嘘ばかり(朴逸初さん)

 面(村)の長から呼び出され、そのまますぐに出発させられた。釜山から船で下関に上陸し、福岡の飯塚炭坑に連れて行かれた。ひどい重労働にもかかわらず、食べ物があまりにも粗末だった。朝鮮を出るときは、一日に米三合のご飯と日に一回は酒も飲めるというような話だったが、みんな嘘だった。ぼろぼろのコウリャン入りのご飯少しと、10円玉みたいな沢庵三切れ、それに具のない薄味の味噌汁だけだった。毎日腹が空いてへとへと、二ヶ月した頃には眩暈(めまい)がするようになった。
 仕事は、一番危険な坑内の底の作業だった。よく落盤事故が起きて死人が出た。筵(むしろ)をかけられた死体がトロッコに乗せられて運び出された。
 風呂にも入らないし、石炭の粉塵で真っ黒な顔をしていた。飯場は坑口に近いところにあったが、汚くて臭い布団が一枚支給された。
 私は弟と相談して逃げることを決意した。

(出典:「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を守る会編『群馬における朝鮮人強制連行と強制労働』、2014年)

●解説
 朴さんは1915年9月、慶尚北道の農家の生まれ。1942年1月、26歳の時に弟と二人同時に動員された。証言は1996年4月、高崎市の朴さんの自宅で聴きとられた。1998年12月に亡くなった。
 動員された時期は、まだ「官斡旋」は行われておらず、形式としては企業が指定された地域で人を集める「募集」での契約ということになる。だが朴さんは、面(村)の長から呼び出されたとはっきり述べている。実態としては、役場の職員が人を選んで動員していたことは間違いない。なお、朴さんは、家の周りにはもう若い青年はほとんどおらず、みな動員で連れて行かれていた、とも語っている。これ以降、動員が拡大していく以前の段階ですら、朝鮮農村での人手不足が生じていたのである。

 なお、1日に3合のご飯というのは、現代の日本の感覚だと「多い」と思うかもしれない。だが、この当時は、副食をあまりとらず、コメと味噌汁で栄養を摂取するというのが普通で、成人男子の消費量としては平均的なもの。1941年4月以降は1日の成人1人のコメの配給は2.3合となるが、炭鉱夫などの重労働に従事する者は加配があった。
 しかし、配給だけではとてもやっていけないという状態だった。戦争末期に配給がさらに減ると、軍需工場の労働者らは欠勤してヤミの食糧の買出しに出かけた。だが、外出もままならない朝鮮人の炭鉱労働者にそれは不可能だった。そして、配給の規定を下回る、質も粗末な食事しか与えられなかったのである。