「タコ部屋=監獄部屋」に送り込まれた朝鮮人労働者
〔監獄部屋=タコ部屋は〕大正から昭和初期にかけてしばしば問題となったものであるが、以来警察権の浸透・取締規則の強化を契機として衰退の一路をたどり、今は其の存在を一般には忘却せられつつある。ところが最近此の種請負土工部屋を北海道全道の石炭礦業に於て広範に充用せられ、時代の脚光を浴びて増産の最前線に立たしめられてゐる。〔略〕
M鉱山会社のN組の飯場を訪れた際、巡査上りの労務課員某氏は訥々として次の如く話してくれた。
「N組の飯場は二つあるが、何れも飯場料(タコが部屋頭に支払ふ賄料)は協定で一日食費七十銭・夜具料五銭で、賃金は二円五十銭程度ですが、日用品の販売に部屋頭が手数料を頭ハネし、販売価格につき認可を要する軍手など、わざわざ無い無いといって規格外の手袋を買集めて一組七十銭(十五年末〔=昭和15年、西暦1940年〕)で売ってゐました。履物も一足五円位に売り、それが一月三足もいるのですから大変です。時にはほしくもない柿・蜜柑等を高価に売りつける事もします。半島人の寮(話し手は鮮人寮の寮長である)で成績の悪いものをタコ部屋にあづけて罰することがありますが、普段二十四円位の上金(剰余金)を残有したものが、六円しか上金がなかったほどです。」と。〔略〕
T炭礦会社のKW飯場についても大同小異であるが、彼等の監督者である某氏曰く「我々は一般の土工や鉱夫に比較すれば、普通の土工仕事なら三倍、掘進なら倍近く、採炭なら三割位は余計に頑張ります。何しろ兵隊式で絶対に不平は云はせません。危険な場所でも思ひ切ってやりますから早い訳です。其の証拠に私の所の者が負傷を一番多くする…」と。
(出典:柳瀬徹也『我国中小炭礦業の従属形態』伊藤書店、1944年)
●解説
1940年の調査をまとめた書籍の一部である。日本が戦争に勝利するためには石炭増産が必要だったが、容易ではなかった。労働力不足だけでなく、生産性の低さが原因だった。総力戦の初期には、問題点の解明と対処のために研究が行われた。
だがこの文章からは、戦時中も、労働者を監禁・監視して働かせてピンハネを行う「タコ部屋」労働が根絶していなかったどころか、むしろ活用されていたことが分かる。「タコ部屋」は当時でも違法なのだが、黙認されていた。大手の炭鉱も労働力をタコ部屋に依存していた。しかも、朝鮮人労働者のうち、「成績の悪いもの」をそこに送り込んでいたのである。
タコ部屋に入れられた労働者は「タコ」と呼ばれる。彼らは無理な作業量を押しつけられ、危険な現場での就労命令に絶対服従させられた。労働者が負傷しても、タコ部屋の監督者は何も問題を感じていなかったことが、この文章からもうかがえる。タコ部屋で奴隷的な労働が行われ、そこに朝鮮人が充てられたことは、この時期の常識だったのである。