動員されれば生死不明、家族の不安
●解説
戦後、日本政府がまとめた朝鮮統治の総括文書の一部分である。1946(昭和21)年に設置された大蔵省在外財産調査会が作成し、1949年に事務を継承した大蔵省管理局名で、1950年までに配布された。一般には公表されなかったが、植民地支配の総括を知ることができる貴重な史料である。上記はその一部で、朝鮮での戦時動員に朝鮮総督府がどう対応したかを述べた部分だ。
この文章の前には、「官斡旋(あっせん)」も「徴用」も実態は半ば強制的であることや、国家の義務としての徴用に安心して赴けるよう残される家族の生活維持に万全を期すべきであるにもかかわらず、就労先や動員期間が明瞭でないので家族の動揺不安があること――が記されている。
その上で、こんなことでは動員を嫌がる者が出るのは当たり前だとして、上記の文章に続いている。
1944年7月に朝鮮総督に就任した阿部信行氏は陸軍大将で、1939年には内閣総理大臣を務めた人物だ。阿部総督は、労務動員は重要だとした上で、家族に対する援護、つまり送金や収入が少なくなった場合に補てんする「補給金」や別居手当などを、国庫補助や事業主の負担で実施した。
正確に言えば、実施しようとしたが、うまくいかなかった。そのため、かえって総督府に対する不信の声が上った。「円滑を欠き」と記しているが、要するに空約束に終わったということだ。
残された家族が、「援護」のおかげで助かったという話は全く残っておらず、一方、家族への援護がないことを記した史料は多く残っている。後になって語られたものではなく、同時代の1945年前半の新聞や雑誌の中にも、そうした記述を簡単に見つけることができるほどだ。
朝鮮人の労務動員は、働き手を失った生活困窮世帯を大量に生み出した。その結果、徴用忌避はますます拡大したのである。