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依存症と私 その1(発症〜診断)

私が今も闘っている「依存症」について、洗いざらい書く。

私は依存症である。2017年に診断された。
依存症には完治という概念がない。しかし「一生やめ続ける」「一生回復し続ける」ことはできる。
依存症は脳の病気だ。些細なきっかけで、誰でもなりうる。だから別に恥じることではないと思う。


↑と、ここに至るまで、何年もかかった。
あまりにもたくさんの人に迷惑をかけ、あまりにもたくさんのものを失ったから。

長くなりますが、もの好き方なだけ読んでください。



いちばんはじめの出来事から書こうと思ったが、発症に際して何か明確な出来事があったのではなく、気づいたらいつの間にか、という感じだった。
言葉にできる時期から書く。


まず、
おそらく自分にはなんらかの不具合(今でいう発達障害に該当すると思う)があり、得意/苦手の凹凸が激しかったのだろう。実家の親元で暮らしている間は、それらは露見しなかった。しかし東京で一人暮らしを送ること、とりわけ学業において自分で計画的に自分を操縦すること、どちらも非常に困難に感じていた。
大学を留年・休学したあたりから飲酒の量が増え始めた。24〜25歳頃だ。今思えば「なんらかの不具合」の二次障害である。
始めは「寝酒」だった。缶チューハイを1本飲んで、寝る。
まずその量が増えた。次に飲む時間帯がおかしくなり、朝から飲むようになり始めた。シラフでいると、ふと色んなものに苛まれた。酩酊状態になれば嫌なことすべて忘れて一時的にラクになれる。それに、アルコールは違法薬物なんかと違ってコンビニでいつだって簡単に手に入る。
依存症は進行性の病気だ。
18歳で上京、進学。26歳で中退。
この間ちょうど8年。

今思えばこの挫折が決定打になったのかもしれない。

2017年3月、ゴミ屋敷同然と化していた武蔵小金井のワンルームを引き払い、実家へ強制送還となる。
それでも東京への執着を捨てられなかった。彼氏は東京にいる。ライブ活動もしたい。
お金貯めてまた東京に戻るんだ、その一心で町のスーパーでアルバイトを始めた。

それが裏目に出た。

業務が、自分の得意/苦手の凹凸に壊滅的に合わなかったのだ。
ウマが合わない目上の人もいた。適当な理由をつけてやめればよかったのに、私は変に真面目で、どうしても続けなければと思っていた。それに、車の免許を持たない自分でも働けそうな場所は、その地域では当時そのスーパーくらいしかなかった。
更衣室で飲酒をしてレジに出ていた。
入って3か月めの頃、翌月のシフト表を見たら私の欄は真っ白だった。
「もう来なくていいから」
当然クビである。
この数分間の出来事はトラウマとして私の中に封印されている。


それからは実家で何もせずにいるだけだった。
でも、何もしないのは苦痛だ。家事の手伝いや、読書や、作曲や、何か楽しいことをすれば良かったのに、失敗や挫折ばかりで頭がいっぱいで何もできなかった。
辛かった。
だから時間を早送りしたかった。
そうなると、やはりアルコールが欲しくなる。飲酒をすれば、気づいたら眠って、夜になっている。酔いがさめたら同じことを繰り返せばいい。そうすれば永遠に何も考えないで済む。
家にある酒類を見境なく飲んだ。
家族は晩酌を楽しむ人たちだったが、私のせいで、ビール、発泡酒、缶チューハイ、すべてのアルコールが自宅からどこかへ消えた。
それでも私の欲求は消えない。
その頃はすでに正気を失っていた。アルコールが含まれているものならなんでもよかった。みりんや料理酒を飲んだ。すぐにそれもバレて台所から消えた。
自宅にアルコールが全くない、買いに行く金銭も与えられていない、その状況下で、それでも頭の中はアルコールに支配されていた。
渇望が止まらなかった。
ここで、実家に戻ってきて以来最悪の行動に出た。
祖父母の家に、留守中に窓から忍び込んでアルコールを探したのだ。
こんなの泥棒と何も変わりない。もちろんそれもバレた。
シラフになると今まででいちばんの自己嫌悪が胸を刺した。
私は罪人で、罰を受けなければいけないと感じていた。

その件があって、祖母が何年も大切に漬けていた梅酒を全部捨てたと聞いたとき「自分は死ななければならない」と確信した。

実家は元・鉄工所なので、倉庫や車庫には危ない工具や農具や機械がたくさんある。それらを使って死ねると思った。
しかし、できなかった。たまたまシラフだったから、恐怖がまさった。
生きていいるのが苦しくて仕方ないのに、死ぬのも怖い。板挟みだ。どうしたらいいかわからない。


とにかく自分の身に何が起きているのかわからなかった。

それでも私は、この状況や問題行動も自分の気持ち次第でなんとかできる範囲のものだと思っていた。

家族は、きっと私に対してひどく腹が立って、悲しくて、困って、そして間違いなく疲れていた。


ここでようやく医療につながった。


夏の終わり、精神科閉鎖病棟へ入院となった。
片山さんはアルコール依存症に限りなく近い乱用の状態です、とのことだった。
私の同意に基づく「任意入院」という、退院したくなったらいつでもできるという条件での入院が始まった。
しかしここがあまりにも劣悪な場所だった。
暗い、狭い、汚い、空気が澱んでいる、食事がまずい。
いちばん辛かったのは「暇」だ。何もすることがなかった。そこはさまざまな病状の患者を、とりあえず十把一絡げに閉じ込めておくような病棟だったのだ。
スマホは持ち込めない。もちろん外には出られない。ひたすら読書をして過ごした。
帰りたい、と病棟の公衆電話から家族に訴えた。アルコールは完全に抜けていた。読書が捗って、思考力を取り戻した。
結局、問題行動も起こさず大人しく読書をしているだけだったので、主治医の判断で1か月も経たず退院した。

迎えにきてくれた車の中で家族に「二度とあそこへは入りたくない」というと
「今後1回でもルールを守らずに飲んだらまたあそこへ強制的に送る。次は3か月」と脅された。

視界がクリアだった。田んぼの稲が実っている。病棟の外は秋になっていた。

身体から毒が抜けたと実感した。

まだ頭の中に、飲酒欲求の小さな火種はあった。
でも、あの病棟での陰鬱とした日々が、「あそこに戻るまい」という抑止力として機能していた。



それから数か月、なんやかんやあったが、アルコールの乱用はひとまず止んだ。

2018年2月、恋人と同棲を始めるため、再び東京へ。


(つづく)

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