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いじめを支えるもの

空気についての思い出と、最近読んだ漫画の話など。

小中学時代を通じて、常にゆるやかないじめを受けていた。
あっちへ行け、変な顔、汚い、くさい、ばい菌、etcを毎日毎時言われ続け、常にクスクス笑われ、班に入れられない、ひたすら無視されるなど。
悪口に言い返してもきりがなく、高校に上がるまで一度も止まなかった。
ごくまれに蹴る叩くの小さな暴力もあったけれど、競争の少ない田舎でSNSの無い時代だからあれで済んだと思う。それでもダメージは受けた。
無視はし返せばいい、気にする必要ないと思う人も居るだろうけど、喋る相手や機会が少しずつ減ると、今黙っている人をどう信じるかの基準がぐらつく。たまたまなのか、こちらが怒らせたのか、悪意なのか。
無視は存在価値の否定で、直接手を下さず相手の頭の中で完結する暴力だ。
母には相手が馬鹿なんだから気にするなと言われ、自分でもそう努めたけれど、周りを馬鹿にすると社会的に孤立するだけなことも、子ども心に気づいていた。
いじめは理不尽だから、理屈だけでは救われない。

いじめを受けていた場を、わたしは以下のように体感していた。読む人の経験や統計データとは、多少ずれるだろう。
「いじめの四層構造」などの用語は、いじめを学術的解剖で読むのに抵抗があるのと怠惰なのとで、詳しく確認していない。
客観的指標は必要だけど、理解してから書こうとすると後回しにして書けなくなるし、これはあくまで素人の主観的文章なので。

体感。数字に根拠はありません。

いじめ始めるのは一部の子でも、グループ行動時のみのいじめでない限り、その場の全員近くが関与して、いじめのある場の空気を維持する。
リーダーシップの間違った発揮、それへの便乗、一対一で伝えるべき不満を無視や陰口の共有で済ます行為、いじめている自覚のない鈍感な追随、参加することで一員と認められようとしたり、それらの見ないふり、が起きている。
全授業クラス一斉に受けていた為、わたしの学校では気づかない余地はなかった。

当時の親友は、いじめっ子に呼ばれて一緒に遊んだ帰りに、律儀にいつもうちに寄って「ごめん、行かないと怖いから」と言いつつ一緒に遊んでいた。
埋め合わせのつもりか、時々「〇〇ちゃん(学校での共通の遊び相手)が悪口言ってた」と教えられた。
聞いたところで「悪口言ってたって?」と問い詰める訳にもいかず余計だし(教えないでいいと言えば良かった)、彼女もその場の空気で一緒に悪口言ったことはあるに違いない。彼女とはよく喧嘩もしたから、そこに本音も含まれていただろう。
もし自分が同じ立場に立つとどうするか、やってみないと分からないので、一緒に悪口を言う子達を怒れなかった。頑固スイッチが入ればいじめっ子と喧嘩しただろうけど、気弱スイッチが入ったら同じように流されたはずだ。
彼女がいじめられるのは嫌だし、一緒に遊べればとりあえずよかった。
楽しそうに嫌がらせしてきた子達については、避けて深くは関わっていないので、何を考えて生きていたのか今もまったく分からない。知りたい気もするけれど会いたくはない。
きつそうな環境の子から、嫌がらせを受けるようになった時は、ぶつける相手が違うとは言え、その子が潰れるまで放っておいた大人が悪いと思った。
納得してはいない。登校し続ける為に、白黒つけない形での頭の整理をしたのだろう。お金になりそうな取り柄もないし、学校に行かなければ人生終わると思い込んでいた。
たまに饒舌になる時以外は、黙って周りを観察するくせがあった。何を言っても笑われるので、話す声も小さくなっていった。頭の中で言葉以前のものが渦巻くけど、外に適切に出せない。
教師達はちゃんと見ていなかったか、気づいても深刻にとらえていなかったか(どちらにせよ鈍い)、「積極的になれ」と的外れなことしか言わなかった。

最近読んでリアルだと思ったいじめ関連作品で、しろやぎ秋吾さんの『娘がいじめをしてました』という漫画がある。試し読みもできるけれど、最後まで読まないと意味がないと思う。
メイン家族2組だけでなく、詩織ちゃんとそのママに注目してほしい。
いじめのトラウマがフラッシュバックする人以外の全員にじっくり何度も読んでもらいたい内容だ。
https://ddnavi.com/serial/musumegaijime/

読みごたえは変わらなそうなので、盛大にネタバレする。
母親が元いじめ被害者(父親はたぶん元傍観者)、ネット晒し、いじめ対象の移動、不登校、正義中毒者の暴走など、自殺や加害者逮捕以外の起こり得ることのほとんどが、一冊に書き込まれている。
いじめっ子の心情の十分な聞き取りができてない点、ぼやけた傍観者層とその親達の様子、学校の場当たり的対応、いじめられた子の言葉がなかなか絞りだせないことやその母親の気持ちの揺れ、父親達の関わり方、結局何ひとつ解決していないことなどにもリアルを感じる。
レビューを読むと親キャラに軽くダメ出しする人がいて驚くけれど、いじめをした我が子に冷静に向き合ったり、問題が大きくなる前に察知するのは、すごく難しいし、元いじめ被害者なら尚更きつい。
1つ言えるのは、ろくに話を聞かず、勝手に大したことはない悪気もなかったはずと決めつけるのは、いじめをした子どもと向き合うことから逃げている態度だということだ。
責めれば良いのでも、被害者へ謝罪の言葉をただ繰り返せば済むでもない。答えのない償いを共にするには、十分な覚悟がいる。
親だって気持ちは揺れるし、時に逃げたくなるのもわかる。
子どもから逃げない為に、相談できる場所が必要だ。
いじめが起きる頻度を考えると、うちの子はやらないと考えるのは甘い。

いじめっ子がいじめられたら解決、な訳ない。
「コイツならいじめて良い、悪口言って晒してバカにして攻撃して良い」と判断するのは、隙あらば差別やいじめをしたい人だ。
ターゲットが誰でも、いじめたら駄目なのに変わりない。
それまでいじめに参加していた子は、あの時はごめんと言うか、黙って元のいじめっ子を無視するかして、さも自分はゆるされるべきかのように振舞うかもしれない。
けれど、彼らは終始いじめに参加・黙認し続ける。
黙っていじめる前の態度に戻るのも、謝罪意思を推し量りゆるす負担を被害者に負わせてずるい。
いじめを扇動する子は勿論だけど、大多数の参加意識なしにやる子も、別の意味で問題がある。自分で参加を選んでいるのに、いじめた責任がないと思っている。加害の自覚がないから、いつまでも大人になっても似たようなことをやる。
皮肉なことに、消極的ないじめ参加者の方がいじめた自覚が残るので、強い後悔を抱え込みがちだ。

少し前に、テレビで傍観者教育事例を特集していた。
教師がいじめの例を芝居再現したり、いじめに至る思考や行動のバグを理解させる、クラスの実例報告を受けて皆で解決法を考える、など。
全国で実行するには、まず教師への教育と負担改善が必要だろうし、ハードルはかなり高そうだけど、やる価値は感じられた。
自分が傍観側にまわれば、他の子の孤立にどう立ち入っていいか決めづらいと思うけれど、場の悪化を怖れて黙ることで解決はなく、守れるのは犠牲者が出ている現状と傍観する側の安全だけだ。
外部や大人の協力を仰いだり、いじめられている子にこっそり声掛けするのも良いだろうけど、最終的には、何らかの形で声をあげないと状況は変わらない。
いじめたことを内申点につけて受験に影響させる韓国のシステムが少し前に話題になったけれど、その方向性にもわたしはやや疑問を感じる。
素行評価が下がる点は理解できるけれど、受験に響くからやめるという条件付けはおかしいし、受験競争のような無駄な抑圧自体がいじめ発生に影響している。
大人が監視でなく子どもをちゃんと見ること、いじめる必要のない、不満・ストレスを安心して表現できる環境、真っ当なコミュニケーションを育てることが必要だ。
自分が何にどう反応しているか考えながら人と関わる技術がつけば、その後のあらゆる人間関係に応用が利く。
日本では我慢や自力解決ばかりが賛美されるけれど、それは出来る時にやればいいとして、要求を伝える技術を会得するに越したことはない。
あと、単に愚痴が言いたいだけの時は、無関係な第三者に聴いてもらった方がいい。悪口を言って一瞬すっきりした気がしても、状況は悪化するだけ。

いじめ加害者を積極的にネットなどで批判する一般人の中には、元いじめ被害者やその関係者がいる。その人達は、被害者の状態を一番に気にしているように見える。
加害者を批判する中に、被害者への想像がステレオタイプ的で、やたら加害者への責任追及に熱心な人も大勢いる。その人達が本当に求めているのは、おそらく自分が納得する結論だ。
偏見かもしれないが、この人達は、自分がいじめに参加したことすら忘れた傍観者タイプではないか、と感じる。無自覚だからこそ、平気で安全な位置から誰かに石を投げられるのでは、と。
いじめは日常的過ぎて、たいていの人はされるするの少なくとも片方は経験している。自覚や反省のある人は、簡単に他人をバッシングはしない。
義憤というものを、わたしはあまり信用しない。自分は加害者にも被害者にもならないと、無条件に自己免罪する人がやりがちだから。
被害者にはすっきりしない日常が続く。偶然関心をもっただけのくせに、すっきりして帰ろうとするなと言いたい。
いじめを批判する第三者の中にも、真剣に自分に関わる問題と考えてやっている人も少しはいるのだろうけど。

自身が被害を受けた結果、本当の意味で憤って空気に流されないようになり、社会の歪みと対峙し続けている人も時々見る。その人達の「怒り」を時々わたしは怖いと感じるけれど、尊敬している。
そこで経験を積んだ人は、関係ないことで議論の相手をだらだら揶揄せず、自分を主語に本音を包み隠さず話しを進めるので、すぐそれと分かる。個人だけでなく社会構造の歪みへの怒りが強い点が、彼らの共通点だと思う。
わたしに今ある怒りの矛先は、どちらかと言うと、無自覚に責任転嫁するタイプの傍観者に向いている。
昔うやむやにした不満のおき火がくすぶっているのだろう。だから、いつか書いて整理できたらと思っていた。
自分を省みずにやたら人を批判する人の考え方も、1人1人と対話を重ねれば解像していくのだろうか。
今そこに割くエネルギーはなくて、自分を掘り下げるので精一杯だ。

いじめだけでなく、差別、ハラスメント、政治的不均衡に話を広げると、無縁な人はいない。
安全な場所に居て、見えないふりをしたり、いつまでも文句言う方に問題があるのではと疑ったり、弱いからやられるのだと考えたり、誰かに野次だけとばしてすっきりするのは、とても簡単だ。
やってる人をよく見るし、自分もやってると気づく時がある。特に、見ないふり。本当はやめたいよね。

また漫画の話。最近楽しみに読んでいる中に、三都慎司さんの『新しいきみへ』というSF作品がある。
(教師と生徒にあの場面が必要かは、今のところよく分からない。)
いじめ解決が主題ではないにせよ(無課金でゆっくり読んでいるので最新の状況は知らない)現実のいじめや差別の解決に応用されるべき主題と感じている。
ゲームでも現実でも、モブ(脇役の群集)を自認する者は、判で押したような地味な役割から離れない。
この話では、モブの中にそれまで決めていた自分の限界を超える人が出て、その行動がじわじわ波及していく。バタフライ・エフェクトだ。
この先ストーリーがどう進みどう邪魔が入るか知らないけれど。

おまけ
Devid Bowie先生も、変化について似たようなことを歌ってる気がする。

キャプチャ写真は、立葵の花。


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