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前回記事の補足のような雑文

 2度noteを書いて、この件はもうこれ以上書くことはないだろうと思っていたけれど、少し時間が経つと、これも書いておくかということが出てきた。また少し長くなります。

 今回の話をする前に、くどいようだがこれまでの2記事の振り返りをする。私は軽いいじめを長期間受けていたこともあって小山田圭吾の炎上事件に疑問を持ち、掘り下げているうちにファンになった。小山田の学生時代や問題の雑誌インタビューの実態については、正しい事実は分かりようがないと思っているが、現在検証可能な材料を見る限り、炎上の規模や被害は大き過ぎたし、小山田やMETAFIVE(もちろんマイロさんも)が通常の音楽活動を安全にできる程度に名誉回復はされることを望んでいる。しかし、小山田が学生時代にしたいじめについて、「あれぐらい当時は普通に大勢がやっていた」までで話を止めると、やっていたことがたいしたことないと許容しているように聞こえかねないので、そこに言及する時は注意した方がいいと思う、というようなことを前回は書いた。

 他の方々の下手な真似みたいにで申し訳ないけれど、私もこの件を考えている時、繰り返し思い出す本が2冊あるので、それに触れつつ話を進めたい。と言っても、手元にはなく読んだのは随分昔なので、記憶の中で多少細部を書き換えているかも、と不安もあるが(原典を確認すべき、というのはこの件の示している課題のひとつでもある)、今回触れるのは物語の大筋部分のみで、別に書評を書く訳ではないので、乱暴だけれどWikiで確認しただけで書いてしまう。

 思い出した本①ダニエル・キイス著『アルジャーノンに花束を』。

 知的障がいをもつ青年チャーリー・ゴードンが、ネズミのアルジャーノンと共に、知能を推進?させる脳手術の被験体となりやがて天才となるが、これまで問題なく付き合っていたはずの周囲の人間とうまく付き合えなくなり、やがて知能の後退というような現象が起こって、アルジャーノンは死にチャーリーの知能は元に戻るというSF小説だ。

 どうして思い出したのかというと、チャーリーが働いていたパン屋の同僚達が、チャーリーをからかいつつも表面上は仲良くやっているようだったのが、手術後のチャーリーは彼らにばかにされているという感じがして、逆に同僚達もチャーリーのこれまでの無邪気さが消え急に偉そうになったように感じて、お互いにうまく付き合えなくなるという部分があるからだ。知能が低いから相手の悪意を気づけない、と無意識で差別して書いている風にも読めて、微妙な部分ではあるけれど、障がいと友情の関係について立ち止まって考えさせられるストーリーだ。

 仮名沢田さんと小山田の関係は、過去記事で見る分には友情があったように見える。どうでもいい人間から届いた年賀状を、ずっと捨てておらず取材の時にとっさに持参できるというのは、考えにくい。沢田さんも、友達であるとうなずいたと記事にはある。ご本人の意思表示というのは大きいと思う。でも単純に、だからふたりは今も友達に戻れると言えるかは、それから交流を再開した様子はなく、何より雑誌記事への掲載や炎上での蒸し返しがあったので疑問だ。

 実を言うと、私にも次のような苦い経験がある。興味の対象が大きくすれ違うようになり、進路も分かれて会わなくなった友人が、数年後、事情があり障がいが残りそうになった。見舞いには行ったものの、結局付き合いを再開できなかった。逃げたようなものと感じている。友人は私無しでちゃんと自分の人生を歩んでいるとは思うが、当時はそばにいる人間を必要としているように見えた。自分に興味のある話しかできなかった当時の自分は、友人との時間をうまく過ごせなかった。今の私で過去に戻ったとしても、成長のない私には、つきあい続ける自信はない。ちなみに、私にフリッパーズ・ギターを教えたのは、その友人だった。その頃は音楽などの趣味も共有していた。

 自分が最低であると自覚している私には、小山田を責める理由や、当時の小山田達の友情を疑う理由はないが、友情は永遠不変ではなくある意味脆いところもあり、「ふたりは友達だった」を当事者以外があまり強調しても、おそらく大きな説得力はないだろうな、と思う。そして、沢田さんとの話だけして、深刻ないじめを受けていた仮名村田さんの話をしないというのも、バランスに欠ける。「障がい者いじめ」だけに話を限定するとそうなるのかもしれないが、そこに触れないと、何となく話の筋を無理にすっきりさせているような、変な意図を感じさせかねないので、やはり注意が必要だ。

 書いているうちに、結局本件とこのストーリーと相関関係があるのか、分からなくなってきたけれど、なぜか繰り返し思い出すので、一応残しておく。


 思い出した本②ミヒャエル・エンデ著『はてしない物語』

 これも有名で、説明はあまり要らないかもしれない。映画の内容はよく覚えていないが、私が思い出したのは原作本の方だ。いじめられっ子のバスチアン・バルタザール・ブックスが、古本屋で見つけた不思議な本の世界に入って、消えかかった世界の救世主となるファンタジーだ。思い出したのは、救世主となってちやほやされたバスチアンが、権力を乱用する暴君に変容し、元相棒とも対立して戦いとなり、やがて我に返って元の現実世界にからがら戻るという後半部分についてだ。後半がこの物語の肝だと私は思っている。

 現在の社会と照らし合わせて読むと、迫害を受けていたマイノリティー側の人間が、いざ安全な場所に立つと、今度は誰かを迫害する側になり得るという話にも読める。実際の生活では、各個人はマイノリティーになる場面とマジョリティーになる場面を絶えずゆらゆらと行き来している。

 なぜこれを思い出したかと言うと、あまり元いじめられっ子部分を繰り返し話していると、自分が常にマイノリティー側であると信じ込んだり主張しているみたいで、バランスが悪いな、と感じたからだ。私はどちらでもあるしどちらでもない。それを改めて書いておきたいと思った。私は誰かの謝罪や誰かからの救済を求めているわけではない。

 9月に小山田本人から出された声明文での謝罪内容は妥当だと思うし、これからは、彼の才能と音楽家としての宿命を信じ、気長に作品を待つつもりだ。何人もの人が言っているように、この件でこれ以上言うべきことは本来は無い。私はただ、この件を鏡にして、自分と社会とを見つめようとしているだけなのだ。

 私の意見は、何かのグループの総意でなく、ごく個人的な意見だ。ぐちゃぐちゃした頭の中身を文字にしているだけで、公開する必要は無いと分かっている。私のいびつな「another view point」と思って、あまりまともに捉えず、読んだら忘れてもらえばそれで良い。状況をかき乱すことは私の望みではない。単純なので、いいねをもらうと、やっぱり嬉しいんですけどね。

 前回書いた後、ようやく去年買った『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』を読んだ。とても良さそうな対話法で実践してみたいと思うが、対面でないと意味がなさそうだし、治療でない練習の場を設けるのは、このご時勢では難しいかもしれない。ごく省略して書くと、こういう風な対話法だ。関係者一同と第三者とがチームとなり、対話の場を繰り返し設ける。ポイントは、否定も同調もせず、答えのない状況に耐え、プランを立てずその時々のニーズに合わせて、対話を続けることを目的として、多様な声に耳を傾け続ける、大事な話ばかりしない、などだ。やってはならないのは、説得と、分かったつもりになること。第三者は、その場で聞いた話を、一旦、関係者が聞いている前で整理し直して感想を述べる。その感想を聞いて話をしていた関係者当人はどう感じたかを述べて、話を続ける。実例も面白い本だった。

 カバー写真は、実家の周辺の草むらで撮ったもの。

  


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