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いじめ後遺症

「自分をいじめた同級生がメディアで活躍していることを知り苦しい」
https://dot.asahi.com/dot/2023041300084.html?page=1
この相談記事を読み、改めてしばらく考えていた。
怒りに蓋して平穏に死ぬまで過ごされたらそれでよかったかもしれないけれど、これを抜けたら本当の意味で前に進めそう、と外から見ると思う。
けれど、それまで怒りに蓋していたのはそれだけ厄介な感情だからで、意思や理性だけではやり過ごせない。
アドバイスにあるように、専門家の助けは借りた方が安全なのだろう。怒りをあおらず否定せず不要なアドバイスもせず、相槌で受け止める聴き手は殆どいない。
すぐ効く解決策が無いのは他の心的外傷後ストレス障害 (PTSD)と同じで、他のことで気を取られることはあっても、完全に消える類のものでないと思う。
いじめた側が反省して、いじめた相手の気持ちを少しは想像するようになっていれば、とは思う。
想像は強制されてもできない。本人がその気になり、時間をかけて内省すること、社会経験を積み重ねることが必要だろう。
それでも、最終的には自分がいじめた相手の気持ちをほとんど知ることはできない。別個の人間だから仕方ない。

加害者が社会から村八分的な制裁を受けるべきとは、わたし個人は思わない。傷や怒りは被害者自身の中にある。(被害者が悪いという意味では一切無い。)
個々の被害者のゆるすゆるさないという感情は、それぞれある。それも時間の経過で変化していくし、どちらとは決められないこともある。
ただ、逮捕・訴訟・更生や教育上の指導等は別として、社会として第一に考える必要があるのは、現在進行形のいじめを止めること、いじめの発生しづらい仕組みを作ること、起きた後のケアの仕組みを整えることだ。
世論は、いじめなどの被害が報道されると、見せしめや報復のようなことを言うのが好きだけれど、それは必ずしもそれぞれの被害者の立場に立っていない。秩序を保って無かったことにしたい、観客としてすっきり納得したいという、集団としてのエゴが入り込んでいる。
そのエゴも、集団保持の為にある程度は仕方ないけれど、被害者の傷は他人を納得させる為にあるのではないし、相手を成敗すればきれいに消えるものでもない。
被害者は皆報復を願っていると独り善がりに決めつけて加害者を責めることは、結局、被害者の意思や個性を尊重していない。自分がバッシングしたい衝動に被害者を利用している。
誰かを「かわいそうな被害者」というステレオタイプ枠にあてはめてを見る人は、枠からはみだす個人へ「かわいそうで悲しみ恨みだけでいっぱい」以外の被害者は認めない、と逆ギレ攻撃もし得る。(訴訟を起こした被害者に粘着するなど。)もしくは、想定と違う部分を完全に無視する。
隣人の気持ちも分かりはしないのに、会ったこともない被害者の気持ちに自分が寄り添っていると、なぜか上から目線でいるのにも気づかず思い込んでしまう。
ただの観客は別の出来事へ関心を移せる。被害者にはその後の長い時間をかけてどうやって回復していくかが課題になる。
多くの被害者が世間に求めるのは、気持ちの代弁や代理報復ではなく、協力を求めるまでそっとしておいてもらうことかもしれない。
過去のことを他人が話すのは一切聞きたくない、でも簡単に忘れられては浮かばれない、と相反する気持ちを持つ人も多いのではないか。

わたしの受けたいじめの場合、嫌がらせしてきた相手が多すぎて(思い出せる歴代の首謀者クラスだけで10人くらい)記憶の中で何人かは団子になって、個別に恨むにはエネルギーとディテール不足なので放棄してきた。
感情や痛覚などの強さを区分けするのが苦手で、グラデーション状態で覚える為、すぐ記憶があやふやになるのだと思う。
30代の頃に、子どもの頃淋しかったという感情の記憶がなぜか戻って来た。特に激しくはなかったけれど、それが怒りならどうだろう。
冒頭の記事の人のように、過去に置いてきた怒りに急に吞まれたらという不安も、完全には消えていない。
それは考えても仕方がないので、今の自分の、他人を信用はしないけれど人間嫌いではないところを、信じるしかない。

長期間いじめを受けると、たんぱく質に熱を加えたみたいに、基本的な何かが変性して元に戻らない。
自分は居ていいという感覚と、他人の好意を見極め信じる力が、一旦ゼロになる。人と接すると不安定になり、そのままでは一つの職場などに安定して帰属しにくい。
脳の発達自体に影響するのではとも言われている。(※)
過労が続くとうつ病になる人がいるように、いじめでも、ストレスを受け続けることにより、脳機能の一部が機能不全になりやすいのだと思う。
復讐しても解消しない。被害者の回復には、加害者処罰とは別のブリッジが必要だ。
人間関係を維持できなければどこかで詰むので、対人関係でどんな風につまずきやすいかを自覚し落ち着いて対処できるよう、機能訓練をすべきだ。
PTSD全般に言えることで、事件を起こした時やひきこもった人を支えられない世帯が増えてから騒ぐのではなく、早期立て直しを支えるシステムを作ればいい。

経験ない人には、生きづらさは過去のせい、繊細で辛いと、言い訳しているように見えるだろうし、実際、自分にそういう甘えが無いとは言えない。
本当に切迫した暮らしの人は、生きづらいと言っている暇もない。
ただ、「風邪ひいた」と言う世間話と同じように、「そんなの多かれ少なかれ皆そうだよ」とわかりきったことを言って否定せず「へぇ、そうなんだ」と話半分で聞き流してもらえればありがたい。
迷惑かけるなと言い聞かされて育つことが、弱音への不寛容や、わたしのようなそれへの怯えに繋がっていると思う。
他者の甘えを嫌う人の、何割かは相手の自立を求めているけど、残りは、本当は甘えたいのを我慢している人の八つ当たりか、似た甘えを自分がしている自覚のない人だ。
攻撃は、自己防衛か甘えの別形態に過ぎない。

わたしも、自分と同じようにいじめられていた男の子が、何か言われる度に胡麻化すようにニヤニヤするのにカチンときて、「なんでいつも笑うの?ちゃんと怒りなよ」と喧嘩をふっかけてしまったことがあった(一対一で)。
彼なりの乗り切り方だったのに、自分の状況へのイライラを転嫁して、家族に言われて嫌だった根性論を、言いやすい彼に押し付けた。
ポジティブで正しいこと以外言ってはダメ、強くないとだめと思い込んで自粛や監視をし合うから、ストレスをためて、気に食わない人やネット上の見知らぬ人に、自分の感情を押し付けるようになる。

弱音や愚痴を嫌う中には、聴こえただけでアドバイスやなぐさめを要求されていると思い込んで、反応し過ぎているだけの人もいるらしい。
それも、わたしの気にし過ぎと似た、脳機能不全による考え方のバグでは。余裕がなく疲れている。他人を批判したくなったら、まず自分を労わっては如何か。(これ書いてる自分もそうだけど。)
それにしても、ただ話を聴くのは本当に難しい。わたしも、家族や友人にはつい求められてないアドバイスをしようとする。

今の社会は、負担の重そうな人からまず切り捨てよう、という声が高まっている。一定の負荷がかかった時、はげまし合うグループとなじり合うグループ、まとまりを維持できるのはどちらか。
集団の助け合う方の機能を明確に共有しないまま突き進むと、社会はどんな風に変わるのだろう。
話を大きくしすぎたけど、そんなことをいつも考えています。
星野源さんの「くせのうた」みたいなこと。
自分の痛みを「くだらない」と隠していると、皆が大したことないはずと自分に言い聞かせて独りで苦しみ、苦しいからお互いが見えなくなり、結局は差別し合って終わる。
「君のくせはなんですか?わたしのくせはこれです」と教え合うのは、無理だろうか。まあ儚い夢か。

キャプチャ写真は、船の窓から撮った海の夕焼け。

※参照例を一応上げておく。生育環境や体質なども関係するので、歯切れよく結論づけるのは難しそうだけど。
 https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-16K04393/16K043932017hokoku/
 https://psych.or.jp/publication/world080/pw05/


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