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映画日記:アフター・ヤン

 普段は映画の感想はfilmarksに書いているけれど、今回は長くなり整理にも時間がかかりそうで、中途保存したり修正ができるこちらに書こうと思う。とりとめなくなりそうな予感。

 この映画は、音楽にリリィ・シュシュの「グライド」を使うセンスに惹かれたのと、坂本龍一さんの曲もあること、一番はストーリーに興味が惹かれたので見に行った。経済的制約があり、基本的に1カ月にそんなに映画館では見られない。今月は、これを最優先映画に決めた。

 たぶん、SFというジャンルだけで捉えると、映画内で科学的ロジックが完結していないので、不完全な話とされるだろう。けれど、伏線が全て回収されるような破綻や余白のない話は、つまらない。見ている間に動揺と言っていいほど心を動かされる場面がいくつかあり、それだけで感情が圧倒され、これは凄い映画だとわたしは思った。たまたま自分の状況とリンクする部分があったせいかもしれないが。
 わたしの頭は一度に多くの情報は記憶できないので、見逃している点が色々あると思うけれど、それでも拡がりを感じる映画だった。ちょうど音楽で引用されている岩井俊二監督の『スワロウテイル』のような、独立した世界観を感じた。

 これ以降は完全にネタバレになので、これから観る予定の人は、観た後で読んでください。

 まず、わたしが読み取ったストーリーの整理。夫とか妻とかの書き方がうるさいかもしれませんが、名前を覚えられたのがヤンとミカとエイダだけだったので。。。
 人型アンドロイドやクローンや3Dビデオ通話などの技術が発達している未来の話。舞台はイギリス?中国茶葉販売店を営む男性が主役で、妻は何らかの企業の役員なのか、不規則な時間に忙しく働いている。夫婦には小学生になる養女ミカがいて、ミカは中国人だ。夫婦はミカの兄役としてアジア人青年型のアンドロイドを購入し、ヤンと名付けた。ヤンのサポートを受けて順調な生活を送っていたようだけれど、ヤンは故障してしまう。
 アンドロイドは高価で、一企業の独占テクノロジーとして厳正な管理がされている。修理も直営か特約店のみが許される。お金に困っていなさそうな夫婦だけれど夫は節約志向で、アンドロイドを購入する際も、新品同様品として保証のある中古品を購入していた。そのことや修理代も節約したいこと、娘がなついているヤンを何とか再生させたいことで、状況は複雑になっていく。
 物語が進むにつれ、新品同様というのはお店の嘘で、実は何年も別の家(のちに夫の店の客として来る人)で使用されていたこと、それも1家族ではなく何度か再生されてきたらしいことが判明する。ヤンの中には彼が見てきた情報が保存されている。これは一時期のみ付加されていた実験的機能で、今の機種にはない動作らしい。
 結局ヤンの修理は不可能だったけれど、ご近所さんに紹介された闇営業の修理屋からの繋がりで、アンドロイドテクノロジーの解析・保存を目論む怪しげな研究者に辿り着く。本体を腐食しないよう保存することは約束され、一部のメモリーを展示することと引き換えに、相当な対価を支払うことを提案される。
 夫は、妻や娘に修理をせっつかれつつ、研究者から渡されたヤンのメモリーにある映像を確認する。すると、家族の記憶に紛れて、見知らぬ少女との記憶があり、ヤンの恋人だったのではと疑う。その少女エイダ(クローン)をご近所さんの娘(クローン)が知っていて、会わせてもらう。
 エイダから、ヤンが、役割通りミカにアジアについて教えようとしても、アジアとは何かを知らないことなどに苦悩して見えたこと、などを聞かされる。
 ヤンの記憶を見進めていく中で、ヤンの別の家族の元で過ごしていた時期の記憶に辿り着き、エイダがその頃の主人のクローンであることを知る。
 夫はクローンを見下していた。記憶を見るまではヤンもただの機械だと思っていたが、記憶を見た後では家族だったと感じるようになり、彼の記憶を展示させたくないと思う。しかし、夫婦は結局テクノロジーの未来の為にそれを許可することに決めるらしい。ヤンとその記憶を譲ることで得た対価で、新しいアンドロイドを買うのだろう。

 感想。
 ヤンの記憶は、容量が限られている為、大事だと判断したことだけ保存されているらしい。時系列に並んでいるはずだけれど、映画では、ランダムに何度か同じ部分をなぞりながら再生される。それがいかにも人間の記憶っぽい感触で面白かった。DJのスクラッチのように何度も擦られる、エイダと「グライド」の演奏を見た時の記憶が特に。「グライド」が繰り返されるのは、きっと監督にとってのこの曲の比重を示している。
 メモリーを見た夫の視点、ヤンと親しかったクローンのエイダの視点、そして観客であるわたしの視点が加わって、物語が広がっていくのが面白かった。
 ちょうど最近、人格や大人というのは、記憶の重なりの在り方のことだと思っていた。自分にとって重要な出来事を選択して記憶しているヤンは、人格のある大人の重みを感じさせる。抑制がきいて人との会話を大切に記憶しているヤンは、登場した中では一番信頼のおける人物に感じた。不安感や攻撃性という、ある種の人間らしさの欠如がそう感じさせるのかもしれないが。
 中国茶についての主人との会話を記憶していたのは、それがアジアに関することだからだろうか。アジアが何かなんて、アジア人にも分からない。それを娘がアンドロイドから教わるなど、本当に夫婦は期待していたのだろうか?それは、クローンであるエイダの感情に由来する記憶だったのだろうか。
 アンドロイドであれば、アジアについてのデータを記憶して引き出すことはできるだろう。けれど、それは生きている人間の母国に対する感覚と一緒だろうか?今の日本全体について、わたしの中にはある程度固まった印象はあるけれど、それもディープな田舎を旅行したらカルチャーショックで崩れるような儚いものでもある。せめて海外に住んでみないと、自分の国をそこを知らない人に対して説明するのは難しい。住んだこともないのに中国のような広大な国を把握することなんて、できるのだろうか。
 欧米人の両親を持つ養女という困難もあるけれど、ミカの持つ国籍に関する悩みは、国際結婚による子や普通の外国生まれの子ともそう変わらない気がする。他の子から疑問を投げかけられなければ、悩む必要もないはずなのに、拒絶されることによって、アイデンティティの揺らぎが生じる。
 ヤンの記憶映像が最初に現れた瞬間は、やけに切り取りや構図が美しくて上手な写真のようだった。偶然だろうけれど、ヤン役の人は元写真家らしい。
 そう言えば、この映画を見ようと思ったのは、夢の話のような、劇中劇のようなものを見たかったからかもしれない。記憶を読み込んでいる時は、ちょっと夢だと思いながら見る夢みたいな感じがあった。画像がやや粗い分、色も少し華やかで。
 映画の冒頭で、ミカが「父さんも母さんも忙しい」という不満を彼女に話していたので、妻役の人を、家政婦であり夫の浮気相手なのかとしばらくの間思いながら観ていた。ポスターは何となく眺めていた後なので、刷り込まれた人種への色眼鏡に由来する勘違いも入っていたような気がして、そのことが魚の小骨のようにずっと刺さっている。自分の偏見なんて恥だし気づきたくないけど、早いうちに暴いて軌道修正する方がまだいいだろう。刷り込みによって、誰もが無意識で差別をしている。冒頭では特に、会話時の夫婦の表情も少なく感情の交流が見られなかったので、これは監督が意図に添った勘違いなのかもしれない。
 なぜ人は差別するのだろう?相手をよく知らないから?しかし、夫はヤンと毎日接していたけれど差別していた。最初から自分と違う、劣っていると思い込んでいたから、よく知ろうともせず、差別してもよいと判断したのだろうか。環境からの刷り込みだろうか。相手に堂々とした態度で差別を指摘された時はきまり悪い表情だったけれど、それまでは、基本的に差別が悪いことだとも思っていなさそうだった。ヤンの記憶を自分の目で見た体験が、彼を変えた感じがした。
 とすると、例えば将来的には、いじめっこにいじめられるバーチャル体験をするとか、犯罪者に被害者体験を味合わせるいう体罰的教育も可能なのか。まあ、トラウマのある人間を増えそうだし、いじめなどの原因が全て消える訳ではないので、やめた方がいい気はするな。
 鶏も順位の下の者がより多くつつかれる。サル山でも順位争いがある。人間のいじめも、ある程度までは動物的な本能によるものだろうか。何にせよ、無意識の差別とわざとの差別、どちらもされる方には同じくらいきついものだ。
 この映画では、おそらく妻の方が稼いでいて、夫の店はあまり利益がなさそうだった。夫と比べて奥さんは欠点をあまり見せないものの、何となく表情が少なく見え感情も伝わらなかった。ワーカホリックであまり家に居ず、外に意識を向けている人だからというのを折り込んだ性格設定なのか、ただ描き切れていなかったのかはよく分からなかった。情報量が多くて気づかなかっただけで、もう一度見たら、妻のキャラクターの印象は変わるのかもしれない。
 一番印象に残ったのは、中国への憧れを扱った映画らしく蝶が出てきた後、死後の世界についての話を奥さんとしていて、奥さんが「我々人間は死後の世界を信じるようプログラムされているのかもしれない」という風に言い、ヤンが「アンドロイドはそうプログラムされていない、無くて構わない思う」という風に答える場面だ。
 わたし自身は、死後の世界を信じてはいないと思う。生まれ変わりだとか死んだ人との霊的交流みたいなのは、有りな気もしている。その辺りの整合性のなさは自分でもどうかと思うけれど、正直な感覚を書きたいので、一旦良しとする。天国や地獄については、現世での想像上の概念に過ぎないと思っている。これは仏教に近い考え方なのかもしれない、とすると、アジア人としては整合性が取れているのだろうか。
 曲をつけた坂本教授がこの場面を見てどう思ったのか考えると、凄く居たたまれないような、その気持ちを知りたいような、相反する気持ちが混在する。スパッと割り切れるような思いではおそらくなかっただろうという気がするが、それは同じ境遇にいる人以外に理解できず、知っていいものではないだろう。とにかく、よくぞこの仕事を彼に依頼し、教授もそれを引き受けたなと思った。そのことに衝撃を受けた。
 もうひとつ、わたしの中にあるASD的な部分は、どちらかと言うと登場人物では人間よりヤンの方に思考回路が近いのかもしれない、と後で何となく思った。(他のASDの人のことは関係なく、わたし個人の感想として。)恋愛というものが分かるようで分からず、死後のことも考えない。体質というよりは、集団を避けてきた為に社会経験が未熟なだけかもしれないけれど。
 記憶にある人には親しみがあったかもしれないけれど、おそらくヤンは恋愛感情は機能していなかっただろうと思う。主人の話し方が好きだと言ったり、妹を好きだと言ったり、蝶を好んで集めているというのなどは(人間側の記憶違いかもしれないけれど)、ASD的な嗜好パターンにも思える。
 最後に、夫婦が科学の進展への協力を取るつもりらしいことが、少しだけひっかかった。監督はおそらく映画の中で、その判断への善し悪しの判定は示していない。科学の進展に人間の倫理観が追いついていない点は、クローンやアンドロイドへの差別などを通して、映画の中で描いている。しかし、科学を否定することは、近代的人間の全てを否定することに近い。わたしは人間にはほとんど絶望しているので、科学者の倫理観なんて全く信じないけれど、それは未来へ生きていくことへの否定にも近い気がする。だから、この夫婦の結論は、科学者の倫理観への信頼というより、未来への希望を取る為の選択なのだろう、と思った。
 最後に流れた「グライド」の歌詞が、人々の記憶の中でのヤンの、監督の、そして見ているわたし自身の望みのようだった。メロディーを奏でるのはわたしにはいつも難しいけれど、音さえ出していれば、いつかそのように聴いてくれる人もあるのかもしれない。
 Salyu×Salyuのインタビューで、Salyuさんが言っていて印象に残ったことがある。隣り合う音を同時に鳴らすと、楽器だと不協和音になるけれど、人間の声ではハーモニーが作れるクロッシング・ハーモニーというものがあり、小山田さんのプロデュースのもとでそれをやってみたかったというような話だ。その話も、思い出した。

I wanna be just like a melody
Just like a simple sound
Like in harmony


2023.4.5追記
書き忘れたけど、ヤン達、高性能アンドロイドの商品名が「テクノ」だった。 


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