政治談義が楽しい国へ
楽しい共通の話題とは?
皆を繋ぐ共通の話題とは何でしょう?
どうぶつ占い?ヘルスケア?グルメ?猫動画😸
いえいえ、誰もが関わる共通話題といったら、天気と政治でしょう。
政治を共通話題にしたら、険悪になって大変?
それは、政治で徒党を組むのが常識になっているからです。
そもそも、政治で徒党を組む必要性があったのは、情報伝達速度が遅かったからであり、敵を滅ぼすことに正義があったのは、全員を生かすだけの生産能力が無かったからです。
通信が発達し、戦争に経済合理性がない、現代。
政治で徒党を組むことにも、争うことにも、もはや道理はないのです。
建設的な議論ができる状況においての政治談義は、とても楽しいはずです。
何故なら、異なるバックボーンの人達が同じことについて話せるからです。
文化的な共通点や情報共有がなくとも、話が盛り上がる特性があります。
こう考えてゆくと、国民的娯楽というのが、権力者が国民から政治談義を取り上げる際の道具として便利だったのがよく分かります。
一方で、オタクや自作的な趣味は、権力とは相性が悪いわけですが…
情報化や不景気が、国民の趣味のオタク化を促したのは、皮肉ということになるのでしょうか?
”針の穴”は塞がれた?
戦後、日本には様々な暗黙のルールが課されてきたのでしょう。
日本が上手くいっていた時期の先人は、その暗黙のルールの中で、粘り強く理想との両立を試み、その針の穴のような道を突き進んできたのでしょう。
そして、その度にルールは狭められ、遂には針の穴が見えなくなったのかも知れません。
では、どうすればいいのか?
恫喝してくる相手には、恫喝しかえす?
相手の狡猾さが、こちらと同レベルであれば、それも有効でしょう。
しかし、現実は違います。
相手は複雑怪奇なシステムを作り上げる死の商人なのです。
こういう場合にも有効なのが、愚直な方法です。
ストレートに平和を構築するのです。
これは覚悟のいる方法ですが、結局のところ一番安全なのです。
敵は誰だと思いますか?
さて、敵はグローバリストなどと呼ばれる”死の商人”なのでしょうか?
「その通り」と言いたいところですが、その発想は違います。
そもそも、”敵・味方”という世界観こそが、奴等の手の内なのです。
恐らく、その価値観を振り撒いている奴等自身は、そのような世界観は持ち合わせていないと思われます。
では、単なる拝金主義かといえば、それも違うでしょう。
要するに、奴等は私達の”影”なのではないでしょうか?
情報伝達速度の向上や、失敗のコスト軽減は、より民主的な社会の実現に必要な手段です。と、同時に、より完璧な独裁を実現する手段でもあります。
独裁は絶対悪というよりは、民主主義の影なのです。
私達はその自らの影に対し、解決策を提示し続けなければなりません。
手段が同一である以上、毛嫌いして無視するのも違います。
どう鎮めてゆくか、対話するしかないのです。
政党って必要ですか?
「政治家は公約を守るべきですか?」と質問したら、「余程の状況変化がない限り、公約を守るべきだ」と誰もが答えるでしょう。
しかし、実際には、大概その通りにはなりません。
何故なら、政党なんてものがあるからです。
そもそも、必要な政策が複数ある以上、すべてにおいて大人数で意見が一致することなどあり得ません。
それなのに、政党ごとに意見をまとめないと国会に臨めないのでは、選挙の際に掲げた政策を守れるはずがありません。
そもそも意見の違いとは、往々にして視点の違いとも言えます。
インターネット上にどれ程の情報があろうとも、ある視点から見える情報には限りがあるのです。
だからこそ議論して、知恵を補い合う必要があるのですが…
政党なんてものがあると、マウントの取り合いが始まるわけです。
何が言いたいかというと、恐らくは国会が始まる前になされているであろう議論こそが、本当に必要な議論なのではないでしょうか?
ならば、その議論に蓋をせずに、国会でこそやればいいのです。
その為には、政党は寧ろ邪魔です。
特に大人数の政党は、解散したほうが良いのではないでしょうか?
あなたの世界観を教えてください
私が聞きたいのは、あなたがあなたの味方だと思っている勢力の弁護をする言葉でも、あなたが敵だと思っている勢力への攻撃でもありません。
勿論、それらを一切合切しゃべるなと言っているのではありません。
言葉に表す以上、そういう表現方法も必要ですし、私自身が用いています。
ただ、どういう表現方法を用いるにせよ、大事なのはあなたの主観の要点を垣間見ることだと思うのです。
勿論、それを知ったところで、基本的に私の意見は変わりませんし、逆もまたしかりですが…
そもそも、会話とは意見を変えさせる為にするものではありません。
前述の通り、どのような視点にも死角があります。
それを補いあえない集団は、危機管理能力が下がってしまうのです。
もう少し具体的に言うと、いわゆる左側だと東側への警戒心が緩みがちになり、右側だと西側への警戒心が緩みがちになります。
これは補い合わないと不味いというのが、ここのところ私が痛感しているところであります。
何よりも、冒頭で述べた通り、”敵・味方”さえ無ければ、政治談義は誰もが盛り上がれる最も興味深い話題の筆頭なのです。
いわば政治談義を封じられるのは、有意義な会話と人間関係の構築の機会を大幅に削られているのと同じなのです。
これは人生を損しているのではないでしょうか?
また、”奴等”が私達の”影”ならば、私達が楽しく政治談義することが、世界を良くしていくと思いませんか?