私はまだ本気出してないだけ
2019年も残すところ2ヶ月になった。
本棚には昨年の秋に買った手帳が、封も切られず埃をかぶったまま鎮座している。まだここに引っ越してきて間もない頃、土地勘が全く無い私は家に引きこもっていた。こちらで知り合った友人がそれを見兼ねて「これに予定をたくさん書いて楽しい一年にしてね」とプレゼントしてくれたのを覚えている。が、わざわざペンを持ち机に向かって色とりどりの文字やシールを駆使し小さな枠に書き連ねるような予定や思い出も無く、常に握りしめているスマホの、しかもSNSで"投稿"して終わるという物臭な人生を歩んでいる。その間手帳は、本棚の隅っこで所在なさげにこちらを見つめているのだ。
いや違う。昔の私はこんなんじゃなかった。
元来私は活字が好きで、物心ついた頃から小説を読みふけ(赤川次郎や角田光代を好んで読んだのは母のせいであろう)文字が書けるようになり文法を覚えるようになった頃から自ら小説を書き始めた。と言っても二次創作のもので◯◯と△△が××な展開のいわゆる同人作家だ。ちまちまと書いては当時流行った投稿サイトに載せて仲間内でニヤニヤする、貴重な青春をそれに捧げたのは10何年経った今も思い出すだけで全身の血が沸き立つほど恥ずかしい黒歴史である。
それはさておき、二次創作の小説は気付いたら書くのを辞めていた。確か仕事が忙しくなったからとか彼氏ができたからとかそんな理由だったと思う。その代わり、手帳を買った。仕事の予定、彼氏とのデート、休日の過ごし方、そんなことを書き始めて私の手帳を共にする生活はスタートした。
毎年この時期がくると、雑貨屋、本屋、いたる手帳売り場を梯子し"合う"手帳を探す旅に出る(1月から始まり月曜始まりだとかウィークリーの枠が広いだとかこだわりがたくさんあった)。
バッグに収まりやすく且つページが開きやすい、そして記入枠が広くさっと書きやすいものを見つけると迷わず購入し、日々仕事が終わり帰宅するといの一番にそれを取り出しその日あったことを書く。予定を書くための手帳というよりは日記だった。たまに絵を交えたりして、枠内は毎日真っ黒になり書き足りないときは付箋を貼り、また書いた。なんて事はない、上司からの文句だとか帰り道のカフェのケーキが美味しかっただとか近所の猫が懐いてくれただとか、そんなチラシの裏程度のことをあの頃の私は毎日記録していた。まるで大事な記念日のように。
それが今ではさっぱり。ペンを握り文字を連ねたのだっていつだったか思い出せない。手帳は今年の分も昨年の分も本棚に仕舞われたまま。予定も無いし思い出も特に覚えていない。毎日だらだらと無為に過ごして、あー楽しかったねと言っているだけ。最近忘れっぽくなったのもこのせいなのだろうか。
ふとクローゼットに積まれたままの段ボールを開き出した。掌サイズの手帳がたくさんの付箋を挟み窮屈そうに並んでいる。ひとつを手に取り捲る。ある日の、楽しくもあり悲しくもあり些細なことで笑えて日々を慈しむように生きてた自分がそこにはいた。震えた筆跡、何度も塗り潰され消された言葉もある。文字が滲んで歪んだページ。捨てられなかったんじゃない、捨てたくなかった思い出。
もしかしたら今の私は何かに諦めていたのかもしれない。また小さな出来事や気持ちを文字にしよう。SNSへの投稿は簡単だ。だけども人差し指で打った文字はあっという間に消費されて、消されて、いつか見返すのも忘れてしまう。書こう。ペンを握ろう。伝えたいことも忘れたくないこともまだたくさんある。
斜陽がテーブルの上を照らす。秋の夜は長い、私はペンケースを引っ張り出し鼻息荒く袖を捲った。